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シャドープライス ―― 飼料配合士、異世界の飢えを計算する  作者: もしものべりすと


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第十九章 第三段階 自惚れと真実

稔の数式は 一度 致命的に間違った。


シャドルムは膝をついたまま 動かなくなっていた。彼の影の魔法の力は 大半が枯渇していた。だが 完全に消耗していた訳ではなかった。彼の中にはまだ 十二年分の祈りの何分の一かが 蓄積されていた。


稔は手帳を開き 次の計算をしようとした。


その時 還流口の方から 重い震動が伝わってきた。


塞いだはずの還流口の周りで 大理石の床が 細かく罅割れていた。


「土山殿」アルフリートが叫んだ。「これは」


稔は息を呑んだ。


塞いだ還流口に 内側からの圧力がかかっていた。粘結剤は それ自体は強い結合材だった。だが 還流口の下から押し上げる影の圧力が 想定よりも大きかった。


稔は計算を見直した。


シャドルムが十二年で蓄積した影の総量を 還流口の容量で割って 圧力に換算した式があった。その式の中で 稔は一つの補正値を入れ忘れていた。


家畜痩せ病が十二年で進行したことで 民の祈りの単価が下がっていた という補正だった。


民の祈りの単価が下がっていれば シャドルムが同じ祈りの数で得る影の変換量は 単価分だけ少なくなる はずだった。だが シャドルムは祈りの数を増やすことで 影の総量を確保していた。結果として 還流口にかかる圧力は 当初の想定の一・八倍に達していた。


「アルフリート 全員 後ろに下がってください」


稔は叫んだ。


「還流口が 内側から破裂する」


アルフリート エルマン ベルガ ガンナル リーゼル 全員が後退した。稔自身も 数歩 下がろうとした。


そのとき リーゼルが まだ完全には立ち上がれていなかった。彼女は還流口から最も近い場所にいた。


稔は反射的に 彼女の方へ走った。


走りながら 稔は二十年前の冬の自分を思い出した。


サイロの底で。ブリッジが崩れる瞬間に 若い夜勤に「お前は下で無線」と言って 自分が上に登った瞬間を。


あれは 二十年やってきた配合屋の反射だった。


今 同じ反射が 稔を リーゼルへ向かって走らせていた。


リーゼルを抱えて 後ろに転がろうとした瞬間 還流口が爆発した。


爆発は破裂ではなく 内側からの一気の噴出だった。粘結剤の蓋が一気に粉々になり 黒い柱が天井まで噴き上がった。


噴き上がった影の柱の縁が 稔の左の肩を かすめた。


稔は痛みを感じなかった。代わりに 自分の左肩から 何か温かいものが 失われていく感覚があった。


地面に転がってから 稔は左肩を見た。傷はなかった。だが 服の左肩の生地の色が 薄く色褪せていた。


「土山殿 大丈夫ですか」


アルフリートが駆け寄った。


「左肩を 影が掠った」


「すぐに 上に戻ろう」


「いや 待って」


稔は手帳を開いた。


「影が掠った瞬間 私は 何かを失ったはずだ。それを確認したい」


「確認」


「シャドルムが転嫁先を持っている。私が掠られた影の代償は 私のどこかに記録される。それを 計算で読みたい」


稔は手帳のページをめくった。リーゼルが横で 自分の上着の袖口を撫でていた。彼女の癖だった。


稔は新しい補正式を 急いで書きつけた。


家畜痩せ病が十二年で進行したことによる祈りの単価補正。これを入れ直す。シャドルムの影の総量を再計算する。還流口の圧力を再計算する。爆発で散った影の量を計算する。残りの影の量を計算する。


数字が出た。


シャドルムは あと十五分で 完全に影の支払い能力を使い果たす。


「アルフリート シャドルムを 上の正殿に運んでください」


「正殿に」


「彼が完全に支払い能力を使い果たす前に 正殿で 王太子殿下と辺境伯閣下の前に立たせる必要がある。彼が罪を認めるか 否認するか その瞬間に 王太子殿下が罷免の手続きを行う」


「了解した」


アルフリートとエルマンがシャドルムの両脇を掴んで 立たせた。シャドルムは抵抗しなかった。彼は稔の方を見て かすかに笑った。


「賢者殿。一度間違えましたね」


「ええ」


「あなたの計算も 完璧ではない」


「完璧ではないから 補正式を書きます」


シャドルムは目を伏せた。


「美しいですね」


「補正式が」


「ええ。完璧ではない方が 美しい」


シャドルムは そう言って 笑った。義兄の表情ではなかった。義兄に似ているが 義兄が一度も浮かべたことのない 緩んだ表情だった。何かを諦めた者の 軽い笑い方だった。


二人のやり取りには 二十年前の正月の夜の 義兄と稔のやり取りの 別の形が含まれていた。だが今夜 押しのけられているのは稔ではなかった。シャドルムの方が アルフリートに脇を掴まれて 連れて行かれる側だった。


稔は手帳を握り直した。


左肩の色褪せた生地を 指先で一度撫でた。色褪せは消えなかった。代わりに 撫でた指先の方に 温かい何かが残った。失われた何かの代わりに 与えられた何かが残ったような感触だった。


それは何だったのか と 稔は数秒考えた。


数秒で答えが出た。


それは「補正できる」という感覚だった。


二十年前の自分が新人時代に上司から教わったことの 最後の意味が ここで完成した。配合屋は失敗を恐れて式を書く者ではない。失敗した時に補正できる癖を身体に染みつけて 失敗を恐れずに動ける者である。今夜 稔は シャドルムの十二年分の祈りの単価補正を一つ落とした。それで還流口が一度爆発した。その爆発で 左肩を掠られた。だが 掠られた瞬間に 補正式を書き始められた。書き始められたのが 配合屋の二十年の癖だった。


サイロの底で誤った計算は 二十年前にも一度だけあった。新人時代の二度目の感度分析で 蛋白源の置き換え比率を一桁違えて出力した。上司が叱った。叱りながら 「補正の癖がついてしまえば 配合屋は一生 失敗を恐れずに動ける」と上司は言った。


稔はその時に習った補正の癖を 今夜 もう一度 使った。


二十年で 配合屋として身体に染みついたものは 一年半の異世界の生活で 失われていなかった。むしろ 異世界の生活は 二十年の経験を 別の角度から確認する機会になっていた。日本の工場と教会本部の地下祭壇は 構造として同じだった。日本の配合表と影の魔法体系は 同じ式で書ける関係にあった。両者の間にある最大の違いは 式を独占する者の有無だけだった。


その違いを 今夜 取り除く準備が 整った。


稔は手帳を握り直して 立ち上がった。


「アルフリート 出発する」


「了解しました」


「リーゼル 大丈夫か」


「歩けます」


「ベルガ 後始末を頼む」


「了解です」


アルフリートとエルマンがシャドルムの両脇を抱えて 還流口の砕けた祭壇の前から離れた。稔とリーゼルが彼らに続いた。ガンナルは既に地上で 王太子殿下に連絡を取っているはずだった。


地下から地上の正殿への階段が 一行の前で 細く続いていた。


稔は その階段の上り口で 一度だけ 自分の手帳の表紙を撫でた。コーヒーの染みは いつもの位置にあった。


行こう と 稔は自分に言った。


二十年前の月曜の朝に この染みを作った自分が 今夜 正殿の段の前へ ようやくたどり着く。

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