表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シャドープライス ―― 飼料配合士、異世界の飢えを計算する  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/22

第二十二章 サイロの底から もう一度

目を覚ますと コーヒーはまだ温かかった。


教会本部の地下の祭壇は 一週間前の戦いの跡を そのままに残していた。粘結剤で塞いだ還流口の周りに 黒い焦げ跡が残り 二十四本の細い柱の一本が斜めに傾いだままだった。床の罅は応急の漆喰で埋められていた。


朝の七時。ガンナル アルフリート エルマン ベルガ そしてガナイト辺境伯が 祭壇の周りに集まった。リーゼルは 約束通り 来なかった。


稔は祭壇の中央に立った。手帳をコートの内ポケットに入れ コーヒーの染みのページを 自分の心臓の上に当てた。


ガンナルが短く詠唱を始めた。古い言葉だった。聞き取れない発音の連なりだった。だが その響きの中に シャドープライス という綴りが 一度だけ含まれていた。稔は耳ではなく 配合屋の感覚で その綴りを聞き取った。


詠唱が終わるころ 稔の足元から 灰色の光が立ち上った。


光は 稔の身体を覆い 螺旋を描いて 天井へ吸い上げられていった。


最後にアルフリートが 一礼した。


「土山殿」


「うん」


「あなたの仕事を 私たちは引き継ぎます」


「うん」


「お元気で」


「あなたも」


稔は応えた。それから 光に包まれた。視界が灰色に染まり 灰色が黄色に変わり 黄色がトウモロコシの粒の色になり 粒の音がして 世界が 一度 軋んだ。



次に目を覚ましたとき 稔は冷たい床の上にいた。


頭の上で 蛍光灯が点滅していた。一本切れかけのままだった。


「土山さん 大丈夫ですか 土山さん」


夜勤の若い男の声が 耳の上で響いていた。稔は身体を起こそうとした。両肩に痛みはなかった。胸の上に何かが押し付けられていた。それは 自分自身の左手だった。左手の中に 藍色の手帳が握られていた。


「サイロは」


稔は最初に それを訊いた。


「ブリッジが完全に崩れて 取り出し口から普通に出てきました。土山さん 上の点検通路から 落ちたんですよ。下に積もってた粒のクッションのおかげで 怪我はしてないようですが」


「どのくらい 落ちていた」


「五分か 十分くらいですかね。すぐにサイロの内圧計が落ち着いたので 私が中に入って引っ張り出しました」


稔は手帳を握り直した。


ここは元の世界だった。


工場のサイロの下層。深夜の二時。蛍光灯の点滅。トウモロコシの粒の匂い。すべてが いつも通りだった。


異世界で過ごした一年半の時間は こちらでは五分か十分の出来事だった ということになる。


稔は ゆっくりと立ち上がった。


膝に力が入った。足首の角度を確かめながら 一歩 踏み出した。サイロの床に積もった粒を踏むと 一年半前と同じ感触がした。だが踏む側の足の感覚は 一年半前とは違っていた。粒の硬さ 粒の表面の油の薄い膜 粒同士が滑る摩擦係数。それらが指の腹に届く解像度が 上がっていた。痩せた羊の鼻先と老馬の頸の温度を経験した足は 配合飼料の原料の手触りを 別の角度から受け取るようになっていた。


夜勤の若い男が稔の様子を 心配そうに見ていた。


「土山さん 救急車呼びましょうか」


「いや 大丈夫」


「念のため」


「大丈夫だ。ありがとう」


稔は そう言ってから 改めて夜勤の若い男の顔を見た。彼の顔には 若い疲労と 仕事に対する誠実さが 同居していた。一年半前 稔は彼の顔をこんなふうに見たことはなかった。あの夜の稔は 自分の仕事のことしか頭になかった。


「君 名前」


稔は訊いた。


「あ あの 浅井です」


「浅井くんか。今夜は ありがとう」


「いえ そんな」


浅井という若手は 稔の礼に少し戸惑った顔をしていた。土山という配合屋の主任が 夜勤の作業員に礼を言うことは これまであまりなかったのだろう。


稔は手帳を開いた。表紙のコーヒーの染みは そこに あった。


ページをめくった。


一ページずつ めくっていった。


ハクの村の最初の配合表。サヴェルの羽根の蒸し釜。ガナイトの蛋白源の組み合わせ。王宮の感度分析。シャドルムの代償の累積式。リーゼルの記憶を取り戻した夜の式。


全てが そこに 書かれていた。


夢ではなかった。


稔は手帳を閉じた。コーヒーの染みのページを 一度だけ 撫でた。


「土山さん 上に戻りましょう」


夜勤の若い男が手を差し出した。稔は その手を握った。


サイロの内部の梯子を 一段ずつ 上っていった。


上の点検通路に出ると 工場の窓の外で 空が薄く明け始めていた。冬の終わりの空だった。


稔の手元の時計を確認した。深夜二時十七分。サイロから引っ張り出されたのが 二時十二分頃だとすれば 稔がサイロの底にいたのは 確かに五分ほどだった。


稔は そのまま 配合設計室に戻った。机の上の自販機のコーヒーは まだ温かかった。三十分前に買ったコーヒーだった。


蓋を開けて 一口飲んだ。


味は いつもと 同じだった。



翌週の正月の集まりは 姉の家で開かれた。


姉は稔より三歳上で 大学病院の事務職で働いていた。義兄の黒田俊明は 同じ大学病院の外科医だった。姉夫婦の長女と長男 二人の甥姪も来ていた。


居間のテーブルに 姉の作った煮物と 義兄の持ってきた寿司と 稔の持ってきた地酒が並んだ。


「稔 仕事は 最近どうなの」


姉が訊いた。


「相変わらず 配合の仕事を」


「家畜の餌だっけ」


「うん」


「いつまで そんな地味な仕事 してるのよ」


姉は冗談で言った。冗談だと 稔も分かっていた。


ただ 義兄が 隣で短く笑った。


「家畜のごはんね なるほど」


義兄は寿司を一切れ取り 自分の皿に置いた。それから 自分の皿の場所を作るために テーブルの上の稔の手帳を 何気なく テーブルの端に押しのけた。


押しのける前に 手帳は そこに あった。稔はその夜 仕事の途中で姉の家に寄ったので 手帳を持ち歩いていた。義兄の前のテーブルに 半分かかる位置に置いてあった。


義兄の指が 稔の手帳の表紙に触れた。


その瞬間 稔の中で 何かが動いた。


「俊明さん」


稔は声をかけた。


義兄が顔を上げた。


「その手帳 こちらに」


稔は静かに 右手を差し出した。


義兄は 少し驚いた顔をした。それから 稔の手帳を持ち上げて 稔の手のひらに置いた。


「ああ ごめん 邪魔だったかな」


「いえ 邪魔だったのは 俊明さんの皿の場所だと思います。だから 私が引き取ります」


稔は手帳を 自分の膝の上に 静かに置いた。


姉が 妙な顔をした。義兄も 何が起きたのかよく分からない顔をした。


稔は 一年半前の正月の自分とは 違う動き方をしていた。手帳を 黙って引き取った。義兄を責めもしなかった。ただ 自分の道具を 自分の場所に 戻した。


それだけのことだった。


「これ あなたの仕事の道具なんでしょ」


姉が訊いた。


「うん」


「見せてもらえる?」


姉が言った。意外な台詞だった。姉は今まで 稔の仕事の道具に 関心を示したことがなかった。


稔は手帳を 姉の方に 開いた。


姉は数秒だけ 数字の並んだページを見ていた。それから 一度だけ うなずいた。


「あなた 二十年も これ書いてきたのね」


「うん」


「お父さんが 病院の窓辺で 何か言いたそうにしてた時 これだったのね」


姉の声には 確信があった。


「お父さんは何を 言いたかったと思う」


稔は訊いた。


姉は すぐに答えた。


「並べていたんだな って」


「並べていた」


「うん。並べているだけ じゃなくて 並べていた って 過去形で 認めたかったんだと思う。あの人は 認めるのが下手な人だったから」


稔の中で 一年半前に異世界の闇夜に思いついた仮説が 姉の口から 何の前置きもなく 確認の形で 戻ってきた。


姉は続けた。


「あの日 病院から帰った夜 私 お父さんの枕元の手帳を 一冊 見つけたのよ」


「手帳」


「お父さんの。左官の見積もりとか 顧客の家の住所とか そういうのが書いてある手帳。最後のページに あなたの会社の名前と あなたが入った部署の名前が 鉛筆で書いてあった」


「俺の」


「うん。お父さん 入院前から 配合設計室って書き方を知ってた。誰かに調べてもらったのね たぶん。書いてあるだけよ。何のためかは 私には分からない。でも 書いてあった」


稔は答える言葉を 失った。


二十年前 配合設計室というのは 同期の中でも地味な部署だった。営業や開発に行きたかった同期は たくさんいた。配合は最も地味な選択だった。父はその地味な部署の名前を 入院前から手帳に書いていた。


「ありがとう 姉さん」


稔は短く答えた。


「うん」


姉は それ以上 何も言わなかった。代わりに 稔の煮物の小鉢に 自分の取り分から 一切れ余分に分けた。それは姉が子どもの頃から 弟への気遣いとして繰り返してきた仕草だった。


その夜の食卓は そのまま続いた。義兄は寿司を食べ 姉の長男と長女は煮物を食べ 稔は地酒を ゆっくりと飲んだ。


帰り際 義兄が玄関で 稔に向かって 短く言った。


「稔くん」


「はい」


「悪かった」


「いえ」


「悪かった」


義兄は それだけ繰り返して 自分の靴を履いた。


稔はその夜 自分の住むアパートに 一人で歩いて帰った。


途中で 一度 公園の前を通った。


公園の入口に 一年半前と同じ場所に 一匹の野良犬がいた。


茶色い体に 黒い斑点。やや痩せた中型犬。リーゼルの聖獣の中の一頭に 少し似ていた。


一年半前 稔は その犬に餌をやるかどうか 一瞬迷って 結局やらずに通り過ぎた。


今夜は 通り過ぎなかった。


稔は鞄を開け 仕事鞄の中に常備しているドッグフードの非常用パックを一つ取り出した。配合飼料メーカーに勤める者の習慣で 中型犬用の試供品を いつも一つ持っていた。


犬は警戒した。だが 稔がしゃがんで 地面にパックを開いて置くと 数歩 近づいてきた。匂いを確かめてから 食べ始めた。


稔は その場で 数分 待った。


犬は最後の一粒を食べ終わると 顔を上げて 稔を見た。それから ゆっくり頭を下げた。


稔は手のひらを差し出した。犬は 数秒 ためらってから 鼻先を 稔の手のひらに 寄せた。


その温度が 一年半前のハクの村の老いた羊の温度と 同じだった。


犬の脇腹の毛並みを 稔は指でゆっくり梳いた。毛の根元は固まっていなかった。蹄ならぬ爪も しっかり生え揃っていた。痩せ気味ではあったが 病的な栄養失調ではなかった。この犬は 自分の力で生きていた。誰かに助けてもらわなくても 明日も生きるはずだった。だが今夜は 一袋分の食事を 稔から受け取った。


それだけのことだった。


それだけのことが 一年半前の稔には できなかった。今夜の稔は できた。違いは何か と 稔は自分に問うた。


違いは ハクの村の納屋で老いた羊が立ち上がった朝の経験 だった。あの朝以来 稔は痩せた生き物の前で立ち止まれる人間に なっていた。立ち止まって 自分が今 与えられるものを 数えてから 渡せる人間に なっていた。


稔は 立ち上がった。


犬は 公園の中へ 静かに 歩いていった。


稔は アパートまでの残りの道を 歩いた。


道の途中で 街灯が一つだけ切れかけて 青く点滅していた。一年半前 工場の配合設計室の蛍光灯と 同じ点滅の仕方だった。稔はその下で 一度だけ足を止めた。点滅は数秒だけ早くなり それからまた元の周期に戻った。


稔は そのまま アパートまで歩いた。



翌朝 月曜日。


稔は会社の配合設計室に いつも通りに出勤した。


朝の七時三十分。フロアには 既に若手の同僚が一人 出社していた。一年半前に「土山さん いつまでこんな地味な仕事してるんすか」と言った男だった。


「おはよう」


稔は声をかけた。


「あ おはようございます」


若手が 顔を上げた。


「土山さん 今日 早いですね」


「うん」


稔は自分の机に向かった。三台のモニタを立ち上げ LPソフトを起動した。今日の予定の配合計算の一覧が 画面に並んだ。


「土山さん 一つだけ 訊いてもいいですか」


若手が訊いた。


稔は振り返った。


「うん」


「土山さん 先週から ちょっと違う気がするんですけど 何かありました?」


「ああ」


稔は少し笑った。


「サイロから 落ちた」


「いや それは聞きましたけど そういうことじゃなくて」


「うん。少し違うことが あった」


「言いにくいことですか」


「いや。ただ 説明が 難しい」


「土山さん この前 すいません 地味とか言って」


「気にしてない」


「いえ 気になっちゃって」


若手は そう言って 自分の手元の書類に視線を戻した。それから 顔を上げずに 続けた。


「土山さんの計算で 助かってる養豚場 知ってるんです。うちの実家の近くの」


「ほう」


「子豚の死亡率が下がったって 親父が言ってました。三年前から」


「あの配合 まだ続いてたのか」


「続いてました」


稔は うなずいた。


「じゃあ 良かった」


それしか言わなかった。だが 心の中で 別のことが動いていた。一年半前の自分には 同じ会話を こうやって 笑って受け取る余裕はなかった。


「土山さん」


若手は もう一度 顔を上げた。


「お子さんのいる養豚場の親父さんが 一度 土山さんに会いたいって言ってたんですけど」


「会いたい」


「ええ。何年も前から 土山さんが書いた配合表を使い続けてるそうで お礼を言いたいって 親父が」


「俺は 養豚場の現場には ほとんど行かない仕事だから」


「ええ そう言ったんですけど」


若手は少し迷ってから 続けた。


「もしご都合がつくなら 今度の土曜 行きませんか。うちの実家 近いんです。電車で四十分」


稔は数秒 黙った。


それから 答えた。


「行こう」


「え 本当ですか」


「うん。久しぶりに 現場を見たい」


若手の顔が 子どもの頃にお年玉を貰った時のような顔になった。彼は それを隠そうとして 自分の手元の書類に視線を戻した。


「ありがとうございます」


「いや こちらこそ」


稔は そう答えてから 自分の机に向き直った。


養豚場の親父に 会う約束をしたのは 二十年で初めてだった。これまで配合屋として 現場の作業員や農場主に会う機会は あるにはあった。だが 自分から会いに行くことは 一度もなかった。配合表を書く側が 配合表を使う側に直接会う必要は 業務上は ないからだった。


業務上は ない。


だが 業務外の意味では あった。


別の世界で 一年半 養豚場に近い場所で 痩せた家畜と人々の暮らしを見てきた稔は その意味を 身体で覚えていた。


稔は自分の机のコーヒーカップに 自販機で買ってきた缶コーヒーを 注いだ。


カップの縁から コーヒーが少しだけ 溢れた。


机の上に 一つ 染みができた。


その染みは 二十年前の月曜の朝の染みと よく似ていた。


稔は それを 拭かなかった。


机の隅に置いた藍色の手帳の 表紙の上に 一度だけ 自分の手のひらを置いた。


手帳の中には 二十年分の数字が 詰まっていた。それから リーゼルの村の羊の数字も ガナイト辺境伯の食卓の数字も 王宮の感度分析の数字も 入っていた。


誰にも見えない数字。


明日もまた 誰にも見えない数字を 一つ並べる仕事に 出かけよう。


稔は LPソフトの最適化の実行ボタンを押した。


画面の片隅に シャドープライスの欄が 灰色で表示された。


その欄を見ながら 稔は 配合屋として二十年と一年半生きてきた自分の仕事の意味を 改めて確認した。


地味な仕事は 地味なまま 続いていく。だが 地味な仕事の中に 別の世界を救うほどの 構造的な意味が 入っていることが ある。


それは 二十年前の月曜の朝には 知らなかった事実だった。


稔は 自分の手帳を 一度だけ撫でた。


朝の光が 配合設計室の窓から 入ってきていた。



その週の土曜日。


稔は若手の浅井と二人で 電車に乗って 隣県の養豚場へ向かった。


途中の駅で コンビニに寄った。浅井は おにぎりを二つ買った。稔は缶コーヒーを買った。電車の中で 二人並んで座り 窓の外の景色を見ていた。冬の田圃は枯れた藁が積まれたままで 遠くの山並みは雪をかぶり始めていた。


「土山さん 質問してもいいですか」


「うん」


「土山さん この前の夜 サイロから落ちた時 中で何を考えてました」


「中で」


「ええ。意識を失う直前」


稔は しばらく黙った。


それから 答えた。


「手帳を 胸に押し当てた」


「手帳を」


「うん。なぜそうしたのか その時は分からなかった。後で分かった」


「分かったんですか」


「うん。父への返答だった」


浅井は意味を取り損ねた顔をした。だが 稔は説明しなかった。説明しようとすれば 一年半の異世界の話を全部しなければならなかった。それは 電車の窓の外の景色と一緒には 語れない長さの話だった。


代わりに 稔は 別のことを言った。


「浅井くんは 自分の仕事を 親父さんから否定されたことは あるか」


「ないですけど 親父は俺の仕事に 興味なさそうですね 普段」


「興味なさそう なんだけど」


「ええ」


「それを 父親が手帳に書いていたら どう思う」


「は」


「あんたの仕事の 部署名を」


浅井は数秒 考えてから 答えた。


「うれしいです」


「だろう」


稔は そう言って 缶コーヒーを一口飲んだ。


その日の養豚場は 大きくはなかった。母豚二十頭 子豚百八十頭ほどの中規模の経営だった。浅井の父親は六十代の細い男で 革のジャンパーを羽織って稔を迎えた。彼は稔の顔を見て まず深く一礼した。


「土山さん。長年 配合表を読ませてもらってきました」


「いや こちらこそ」


「子豚の死亡率が 七年前は 十二%でした。今は 四%です。土山さんの配合のおかげです」


「私の配合だけのおかげではないと思います」


「いえ 土山さんの配合のおかげです」


浅井の父親は そう繰り返してから 稔を豚舎に案内した。


豚舎の中は思ったよりも静かだった。子豚たちが囲いの中で 母豚の腹に寄り添って眠っていた。皮膚の色つやが良かった。骨格もしっかりしていた。これは 稔が二十年書いてきた配合表が 紙の上で計算した通りの結果が 一頭ずつの生き物の身体に 実装されている風景だった。


稔は子豚の一頭の囲いの前で しゃがんだ。


子豚は稔の指の匂いを 数秒嗅いでから 鼻先を稔の手のひらに寄せた。


その温度が ハクの村の老いた羊の温度と 同じだった。


稔は しばらく動けなかった。


「土山さん」


浅井の父親が 後ろから声をかけた。


「大丈夫ですか」


「ええ」


「目が 赤いですけど」


「気のせいです」


稔は そう答えて 立ち上がった。


帰りの電車の中で 浅井が訊いた。


「土山さん あの時 何を考えてました」


「うん」


「教えてください」


稔は しばらく窓の外を見てから 答えた。


「私の仕事は 全員を救うわけじゃない。だが 救えなかった全員のことを覚えていれば 救えた一人ずつの意味が 重く出る」


「救えなかった全員」


「ええ」


浅井は何かを考えてから 自分のおにぎりの最後の一口を 静かに食べた。彼は何も言わなかった。だがその沈黙は 答えを返す沈黙ではなく 質問を受け取った沈黙だった。


稔は それで十分だった。



その夜 稔はアパートに戻り 机に座って 手帳を開いた。


ハクの村のページから 順番に めくった。


最後のページの余白に 短い言葉を 書きつけた。


「リーゼル 私はあなたの世界で 配合屋を続けています」


それは 届かない手紙の冒頭だった。届かないことは 知っていた。だが 書く意味はあった。配合屋の手帳には 検証できない一行を書く欄が いつもあった。


稔は その一行の下に もう一行 書いた。


「あなたの掌の温度を 子豚の鼻先の温度の中に 今日 見つけました」


それだけだった。


ペンを置いた。


窓の外で 冬の終わりの月が 細く 出ていた。


異世界の月は 同じ位置に出ていたかどうか 稔には 分からなかった。だが リーゼルが ハクの村の囲いの前で 同じ月を見ている可能性は あった。


可能性は 確率としては低かった。だが 配合屋の手帳には 低い確率の仮説を書きつけておく欄が いつもあった。


稔は ランプを消した。


部屋が暗くなった。


暗くなった部屋の中で 稔は 一度だけ 二十年前の月曜の朝の自分に 短く話しかけた。


「お前の仕事は 地味なまま 続いている。お前の仕事は 別の世界を一つ 救った。お前の仕事の意味を お前の父親は 入院前から 手帳に書いていた。お前は 数字を 並べていた」


並べていた。


過去形だった。


過去形は 確認の形だった。


稔は 目を閉じた。


明日もまた 誰にも見えない数字を 一つ並べる仕事に 出かける。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ