第十五章 配合手帳の余白
自販機コーヒーの染みのページに 稔は計算式の続きを見つけた。
夜が明けて 稔は迎賓館の食堂でガンナルとアルフリートに 昨夜の計算の結果を見せた。
「これは シャドルムの代償の累積残高だ」
稔はそう言って 数字を指で示した。
「あいつは あと数ヶ月で 自分自身の影の代償を支払いきる」
ガンナルが眼鏡を直した。
「土山。それは あいつ自身が知っているはずだ」
「ええ。だから あいつは加速している」
「加速」
「自分の代償を 他人に押し付ける手段を 急いで 整えている。リーゼルの記憶を奪ったのも その一環だ。代償の支払い能力を 自分の外側に転嫁する仕組みを 教会全体で構築しつつある」
ガンナルは黙ってうなずいた。アルフリートが口を開いた。
「土山殿 我々が動く時はいつですか」
「あと一手 必要だ」
「一手」
「シャドルムが代償を転嫁するための拠点を 特定する必要がある。教会本部のどこかに あの男が長年 影の代償を 民の祈りに変換するための装置がある はずだ」
ガンナルが顔を上げた。
「それなら 私に心当たりがある」
「ほう」
「畜産学院が焼かれた十二年前 王宮の図書庫から 一冊の建築図面が消えた。教会本部の地下構造の図面だ。あれは シャドルムが当時の教皇に頼んで 個人で持ち出した」
「あなたは 見たことが」
「写しを取っていた。学院解散の前夜に」
ガンナルはコートの内側から 古い羊皮紙を取り出した。畳まれていたそれを テーブルの上で広げた。
教会本部の地下二階に 円形の大広間が描かれていた。直径は二十間ほどあった。広間の中央に 円形の祭壇が置かれ 祭壇を取り囲む形で 細い柱が二十四本立っていた。柱はそれぞれ 上に向かって細くなっていた。
稔はその図面を見つめた。
「これは」
稔は声を低くした。
「これは 構造として サイロだ」
「サイロ」
「私の国の工場にある 穀物を貯蔵する円筒の塔と 同じ力学だ。中央の祭壇に上から重みがかかり 周りの細い柱が それを支える。重みを抜く方法を 図面の中で読める」
ガンナルがわずかに身を乗り出した。
「具体的には」
「下部の取り出し口にあたる場所を見つける。そこにブリッジ現象を起こす。中央祭壇の底面で重みの伝達を 一時的に止める。その瞬間 上層からの圧力が 周辺の柱に 不均等にかかる。柱が一本でも傾けば 全体が連鎖的に崩れる」
ガンナルは口を開けたまま 図面を見ていた。
「私の国の工場で 二十年に一度起こる事故の構造だ。意図して起こせば 場所を限って崩せる」
稔は続けた。
「この構造の弱点は 二つあります。一つは 中央の祭壇の底に必ず取り出し口があること。なければ ここに貯められる影は 上から下へ抜けません。だから必ず ここに穴があります」
「ええ」
「二つは 細い柱が均等に立っていること。均等に立っているから 均等に重みを受ける。一本の柱が不均等な力を受けた瞬間に 全体の均等が崩れる。サイロの設計は 均等の保証を強度の前提にしているから 不均等が起きた瞬間に 弱い」
「あんたは どうしてそんなことを知っている」
「私が落ちたサイロが その構造だったからです」
「落ちた」
「一年と少し前に 私は元の世界で 工場のサイロのブリッジ事故の現場にいた。落下した。気がついたらこちらの世界の草原にいた」
ガンナルは目を伏せた。彼は何かを長く考えてから 顔を上げた。
「土山。あんたがこちらに来た理由は つまり 今夜 ここで 私たちにサイロの倒し方を教えるためだった のかも知れんな」
「分かりません」
「分からなくていい。だが 偶然にしては 説明がつきすぎている」
稔はうなずいた。
「土山殿」とアルフリートが訊いた。「その崩落で シャドルムを巻き込めますか」
「巻き込まない。あの男は崩落の前に逃げる。だが 影の代償の拠点を失えば あの男は支払い能力の転嫁ができなくなる。あと数ヶ月の余力を 一週間に縮められる」
「一週間」
「一週間あれば 王太子レナードと辺境伯ガナイトが シャドルムを正式に罷免する手続きを進められる」
稔は手帳を開いた。新しいページに 図面の構造を写しながら 必要な作業の手順を書き出した。
ガンナルが横で唸った。
「土山。あんたの計算は おそろしいな」
「私は 計算しかできません」
「いや そうではない。計算だけで これだけのことができる ということが おそろしい」
その日の午後 稔は手帳の表紙のコーヒーの染みのページを もう一度開いた。
染みの隣の M の字。
二十年前の自分の名前。
稔は 染みの下に書かれた古い計算メモを 改めて読み直した。当時の自分が新人として走らせた 単純な感度分析の練習問題だった。配合飼料の蛋白源を魚粉から大豆粕に切り替えた場合の シャドープライスの変動を計算した記録だった。
その計算の中で 二十年前の自分は 一つの覚え書きを書いていた。
「制約を緩める方向に動くと 影は支払い手の方に集まる」
それは新人の自分が偶然 思いついた一行だった。当時の上司は それを評価もしなかったし 否定もしなかった。稔自身も 業務に必須の知見ではないと判断して 頭の中に書き写さなかった。
だが いま 二十年ぶりに読み返してみると その一行は シャドルムの影の代償の構造を 完全に説明していた。
シャドルムは規則を緩める方向にばかり魔法を使ってきた。緩める魔法は派手で 力が大きく見える。だがその分 影は支払い手の方に集まる。十二年の間に シャドルムは自分の内側に 大量の影を蓄積していた。
その影を 教会本部の地下の祭壇で 民の祈りに変換して 排出してきた。
排出のための装置が 地下のサイロ構造だった。
排出口を塞げば シャドルムは自分の中の影を抱えたまま 動けなくなる。
稔は手帳を閉じた。
二十年前の月曜の朝の自分が 自販機の前でコーヒーを溢したのは 全くの偶然だった。だが その偶然の下に書いた一行が 今この瞬間 リーゼルの記憶を取り戻す 唯一の鍵になっていた。
偶然というものは 偶然ではないのかも知れない と 稔は初めて思った。
少なくとも 二十年やってきた仕事の中の偶然は 偶然ではなかった。




