第十四章 父の声 サイロの底
闇の中で稔は 父の最後の一言を二十年ぶりに思い出した。
夜が更けても稔は眠れなかった。
迎賓館の自室の机に手帳を広げ ランプの灯で何度もページをめくっていた。リーゼルが眠っている部屋の方から 規則正しい寝息だけが聞こえてきた。アルフリートは戸口の外の廊下で椅子に座り 剣を立てかけたまま起きていた。
稔は手帳のページを 二十年前の月曜の朝に作ったコーヒーの染みの場所で止めた。
染みの下に 何かの記号があった。
二十年前の自分が ふざけ半分に書いた符号だった。当時の新人の稔は 上司の指示で初めてシャドープライス分析の練習問題を解いていた。その日 自販機の前でコーヒーを溢し 慌てて手帳を引いた。汚れた表紙を見て笑った。新人の自分は その表紙の染みの下に 自分の名前のローマ字の頭文字 M を書いた。配合屋として生きる宣言のような落書きだった。
稔は そのページを 二十年ぶりに じっと見つめた。
染みの隣で M の字が 二十年前と同じ形で 揺れていなかった。
それを見ていると 父の最後の一言が 唐突に頭の中で蘇った。
父は稔が大学を出て就職した翌年の冬に倒れた。脳梗塞だった。意識の戻った父は しばらく言葉を発しなかった。退院して自宅で療養していた春の終わり 病室の窓辺で 父が稔に向かって ぼそりと何かを言った。
稔は当時 その言葉を聞き取れなかった。父の発音は脳梗塞の後遺症で曖昧になっていた。「お前は」だけは分かった。次の言葉は聞き取れなかった。「数字を」と続いたような気がしたが 確信が持てなかった。
稔は当時 「またあの台詞か」と思った。子どもの頃から繰り返し言われてきた「お前は数字を並べているだけだ」を 父が脳梗塞の身体で もう一度言おうとしているのだと判断した。
稔はそれ以上 父に訊き返さなかった。父は その三ヶ月後に二度目の発作で亡くなった。
迎賓館の机の前で 稔は二十年ぶりに その日の窓辺の光景を思い出した。
父の口が動いた形を 思い出そうとした。
「お前は 数字を 並べて いた」
そう発音されていた可能性があった。
「いる」ではなく「いた」。
過去形だった。
子どもの頃の「並べているだけだ」とは 違う台詞だった。
並べて いた。
それは責めの台詞ではなく 確認の台詞だった可能性が ある。
稔は手帳を一度閉じた。
ランプの灯が揺れた。
父が病室の窓辺で言いたかったかも知れない一言は こうだったのではないか。
「お前は 数字を 並べて いた のだな」
並べていた という事実そのものを 父は 認めようとしていたのではないか。
左官の手の中では 何の意味も持たなかった稔の数字を 父は 死の数ヶ月前に なお 認めなかったのではなく 認めようとして 発音だけが届かなかったのではないか。
そうだとしたら 稔は二十年間 父の最後の言葉を 誤って受け取ってきたことになる。
稔は机の上で 手帳をもう一度開いた。
染みの隣の M の字を 指でなぞった。
二十年前の自分が ふざけ半分に書いた一文字。あれは 父に向けた応答だったのだ と 今ようやく分かった。「お前は数字を並べているだけだ」と言われ続けた子どもの自分が 配合屋として一人前になった瞬間に コーヒーの染みの隣に 自分の頭文字を書きつけた。「並べているだけ」ではない 自分の名前で並べているのだ と。
その時 稔は気づいた。
サイロの底で意識を失う瞬間に なぜ自分が手帳を胸に押し当てたのか。
あれは 二十年やってきた仕事の癖だった と 一度は説明をつけた。
だが それだけではなかった。
あれは 父への返答だった。
死ぬかも知れない瞬間に 父に向かって「お前は数字を並べているだけ ではなかった」と 身体で答えた応答だった。
そうだとすれば 稔がこの世界に飛ばされたのは 偶然ではなく 必然だった。
父への応答が完成する場所が この世界の中にしかなかった からだった。
稔は しばらく動けなかった。
机の上のランプの灯が一度 大きく揺れた。風はなかった。だが灯は揺れた。配合屋の身体には 風がない時に揺れる灯の意味が 経験的に分かっていた。何かの圧力が室内に入った時 灯はそういう揺れ方をした。圧力は物理的なものとは限らなかった。意識の集中も 圧力になる時がある。稔自身の意識が ある一点に集中した瞬間に この部屋の空気が薄く動いた。
その動きは 父からの応答だったのかも知れない と 稔は半分本気で思った。
二十年前に届かなかった一言が 死者の側から 二十年遅れで 異世界の机の上のランプの灯を 一度だけ揺らした。
それは検証できない仮説だった。だが配合屋の手帳には 検証できなくても書きつけておく値打ちのある仮説が 一つや二つは いつもあった。
稔は手帳の余白に 父との対話の仮説を 一行だけ書いた。
それから ゆっくりと 手帳の白紙のページを開いた。
新しい式を書き始めた。
シャドルムの影の魔法の制約構造を 配合表の制約条件の表記法で書き直す式だった。
線形計画法の感度分析は 制約条件と目的関数の関係を 数学的に整理する手法だった。シャドルムが操る影の魔法も 規則を一単位曲げる代償で発動する仕組みだとすれば その規則と代償の関係を 線形計画法の枠組みに翻訳できる はずだった。
稔は二十年前から シャドープライスを計算してきた。配合の世界では飼料の値段の話だが 計算の構造そのものは 飼料に限定されない一般的な数学だった。
夜明けまでに 稔は四十二の式を書きつけた。
最後の式は 教会の影の魔法体系の最弱点を示す候補だった。シャドルムが最も多用する魔法は どの規則を一単位曲げる魔法か。その規則の影の価格は シャドルム自身の影の総量から見て どれだけの割合を占めているか。
数字が一つ 浮かび上がった。
その数字は シャドルムが既に支払い余力の半分以上を 過去十二年で消費していることを 示していた。
教会の闇は 永遠ではなかった。シャドルムの権力は 内側から崩れる予定があった。あと数年 場合によっては数ヶ月で。
稔は手帳を閉じた。
外で鳥が鳴き始めていた。




