第十三章 リーゼルの代償
彼女は記憶を一つ差し出し 稔の名前を覚えていなかった。
教会の会議から一ヶ月が経った。
シャドルムは表向きには静かだった。王太子レナードと辺境伯ガナイトの後ろ盾があったため 教会は稔の活動を直接停止することはできなかった。代わりに シャドルムは間接的な圧力をかけ続けた。地方の村で配合表を教える稔の弟子たちが 異端の疑いで尋問を受けた。蒸し釜の設置を担当する大工が 教会の徴税で破産させられた。供給網の整備は 半年前のペースの三割に落ちていた。
そして リーゼルの紋章の黒は 肩までを覆っていた。
ある朝 リーゼルが朝食の席に来なかった。稔とアルフリートが部屋を見に行くと 彼女は寝台の上で目を閉じていた。呼吸はしていたが 起きなかった。
老獣医のガンナルが呼ばれた。
ガンナルは王立学院の元教授で 畜産学院の解散の生き残りだった。引退して王都の外れで暮らしていたが リーゼルの紋章の進行を聞いて駆けつけてくれた。彼は七十を越えていたが 目は鋭かった。
「これは 影の代償の累積発動だ」と ガンナルはリーゼルの手のひらを見て言った。「シャドルムが 彼女に課した代償を一気に取り立てた」
「一気に」
「彼女が払う代償は 元々は彼女自身の寿命だったはずだ。だが シャドルムは支払い形態を変えた。寿命ではなく 記憶で払わせる方が 彼女自身を生かしたまま あんたを苦しめられる」
稔は答えなかった。
「土山。彼女が目を覚ましたら 彼女はあんたの記憶を 一部失っているはずだ。シャドルムが選ぶ範囲の記憶を」
「どのくらい」
「分からない。あんたとの間の出来事 数日分から 数ヶ月分まで」
「彼女自身は 痛まないか」
「肉体は痛まない。だが 失った記憶は 取り戻せない」
稔は寝台の脇で 動けなかった。
その日の昼過ぎ リーゼルは目を覚ました。
彼女は寝台の上に身体を起こし まだ少し焦点の合わない目で部屋を見回した。それから 部屋にいた稔とアルフリートとガンナルを順番に見た。アルフリートのところで 目が止まった。
「アルフリート様」
「リーゼル殿 ご気分はいかがか」
「大丈夫です ありがとうございます」
それから リーゼルは稔を見た。
彼女の目は 普通の挨拶の目だった。初対面の客に向ける目だった。
「あの 失礼ですが」
リーゼルは稔に訊いた。
「どちら様でしたか」
ガンナルが小さく息を吐いた。アルフリートが目を伏せた。
稔は 答えるべきだった。何かを答えるべきだった。だが 自分の口が 動かなかった。
「土山稔と申します」
ようやく稔の口から出たのは 自己紹介だった。
「賢者と呼ばれている方ですか」
「ええ」
「お会いできて光栄です。私 何か 失礼をしたでしょうか」
「いいえ」
「では なぜ 皆さんは 私の周りに」
ガンナルが助け舟を出した。
「リーゼル殿。あなたは 一週間ほど 熱を出して寝込んでいたのです。私が呼ばれて 治療をしていた。土山殿は あなたの故郷の村で 家畜の世話をされている方で あなたを心配して来てくださっていた」
「ご親切に ありがとうございます」
リーゼルは稔に丁寧に頭を下げた。彼女の動作は 礼儀正しい村娘の動作だった。
ガンナルの説明は完全な嘘ではなかった。本当の部分を選んで 失われた部分を均していた。リーゼルは納得した顔をしていた。
「私 何か 大事な仕事を引き受けていませんでしたか」
リーゼルは自分の上着の袖口を撫でながら 訊いた。
「賢者殿の手帳の写しを 預かっていた気がするのですが」
「それは もう済んだ仕事です」と ガンナルが答えた。「お気になさらないでください」
リーゼルは少し考えてから うなずいた。
「ありがとうございます」
リーゼルが袖口を撫でる仕草は 元のままだった。記憶を失ってもなお 彼女の身体に染みついた癖は 残っていた。稔はそれを見ながら 一つの計算を頭の中で走らせた。
シャドルムが取り立てたのは 出来事と人物名の記憶であって 身体の癖や感覚の記憶ではなかった。それは 影の魔法体系の中で 取れる記憶と取れない記憶があるということを 意味していた。
取れない記憶は どこに残っているのか。
稔は その問いを 自分の手帳の白紙のページに 書きつけた。
身体に染みついた癖。
掌の温度の記憶。
家畜が立ち上がる瞬間の音の記憶。
これらは 影の魔法では 取れない領域に 残るらしかった。
リーゼルは病床から起き上がり 窓辺の椅子に腰掛けた。彼女の左の手のひらの紋章の黒は 既に手首を越え 肘の下まで広がっていた。だが彼女は その黒を恐れる様子を見せなかった。
「ガンナル先生」
「はい」
「私 ハクの村に 帰りたいのですが」
「いまは難しい」
「祖父が 心配します」
「ご祖父様には 私から連絡を入れます。ご安心を」
リーゼルは うなずいた。
「賢者殿」
リーゼルが 稔に向かって 改めて声をかけた。
「いまの私が 賢者殿に お役に立てることは ありますか」
稔は答える言葉を探した。
「あなたが 私の隣にいてくれるだけで 役に立っています」
「賢者殿の隣に」
「ええ」
「分かりました」
リーゼルは そう答えてから 窓の外に視線を移した。彼女の横顔は 一年前のハクの村の納屋で 配合表を割れる物のように両手で持ち上げた朝と 同じ静けさをしていた。記憶を失ってもなお 彼女の中の核は 動いていなかった。
それは稔にとって 一つの希望でもあった。失われたのは過去の出来事だけで リーゼルという人間そのものは 変わっていなかった。シャドルムは 表層は取れたが 核は取れなかった。
稔は部屋を出た。
廊下を歩きながら 自分が想像していたよりも 何倍も静かに 何かが崩れているのを感じていた。それは怒りではなかった。怒りなら 既にずっと前から準備していた。これは 怒りよりも深い場所に染みていく 静かな喪失だった。
廊下の途中で 稔は壁に手をついた。膝の力が一瞬抜けた。だが転ばなかった。配合屋の身体は 計算結果が大きく外れた時の衝撃を 何度も受け止めてきた。八年前の冬 試験飼育で予測の半分しか体重が増えなかった子豚の群れの数字を見た朝。あの時の感覚と 似た膝の力の抜け方だった。
ただし あの時失われたのは数字だった。今夜失われたのは リーゼルの中の稔だった。
数字は次の計算で取り戻せる。
リーゼルの中の稔は 取り戻せるかどうか まだ分からなかった。
迎賓館の廊下の端で アルフリートが追いついてきた。
「土山殿」
「うん」
「先程の御嬢殿の様子は」
「シャドルムが取り立てた」
「我々は」
「動く」
稔は短く答えた。声は震えていなかった。
「だが 動き方を 変える」
「と 仰いますと」
「これまで私は 配合の正しさで シャドルムと張り合ってきた。配合は正しい。家畜は救えている。だが 配合の正しさは シャドルムが守っている権力の枠組みを 直接揺るがすほど 早くはなかった」
「ええ」
「枠組みを直接 揺らす方法を考える」
稔は迎賓館の自室に戻った。
机の上に手帳を置いた。表紙のコーヒーの染みが ランプの光の中で 影を作っていた。
二十年前の月曜の朝の染み。
二十年の積み重ね。
それを いま 別の用途に使う時が来た。
稔は手帳の中身を 最初のページから読み返し始めた。




