第十二章 焼かれた手帳の写し
彼が一週間かけて書き写した予備の手帳は 暖炉の中で青く燃えた。
教会会議室から戻った翌日 王宮から早馬が来た。王太子レナードからの書状だった。
「迎賓館にて緊急に話したい。深夜 西の小門から ただ一人で来られたし」
稔は深夜 アルフリートを連れずに 一人で西の小門に向かった。月のない夜だった。王宮の外壁に沿って歩き 衛兵の交代の隙を縫って 西の小門の前に立った。
門は内側から開いた。
中で待っていたのは王太子レナードではなかった。シャドルムだった。
「賢者殿」
シャドルムは灯火も持たずに立っていた。彼の周りだけ 月のない夜が さらに濃く沈んでいた。
「王太子殿下からの書状を受けて参りました」
「殿下は ご存じない」
シャドルムの声は静かだった。
「殿下の名を借りた。お許しいただきたい」
稔はその場で振り返ろうとした。だが 自分の足が動かなかった。
シャドルムが何かの呪を かけていた。それは目に見えなかったが 稔の足の裏に 透明な釘を打ったように 動きを止めていた。
稔は無理に動こうとはしなかった。動こうとすれば 配合屋の身体に染みついた癖で 自分の体重を別の足にかけて 引き抜こうとしたはずだった。だが シャドルムの呪は そういう物理的な抵抗を予想して設計されているはずだった。むしろ動かないことが この場の最善の戦略だった。
代わりに 稔は呼吸を整えた。
胸の中で 三つの数を数えた。シャドルムが踏み込めない領域を 三つ確認した。
一つは稔自身の頭の中の式の数。これは奪われない。
二つは元の世界での二十年の経験の量。これも奪えない。
三つはこの一年でガナイトの領内に育った若い農学者たちの記憶。これも消せない。
三つを確認してから 稔は答えた。
「賢者殿。長く話す気はない。一つだけ お伝えしておきたい」
シャドルムは手帳を一冊 月のない闇の中で持っていた。
稔の予備の写しだった。
「これを 私が燃やしても構いませんね」
「それは」
「言葉のうえでは 構いません と仰っていただきたい」
「構いません」
稔の声は震えていなかった。
シャドルムは指の先に小さな青い炎を灯した。それは普通の蝋燭の炎の色ではなかった。深い藍色の 影の魔法の炎だった。彼は手帳の角に炎を当てた。
藍色の革表紙が 青く燃えた。
稔は その光景を見ながら 自分が想像していたほど動揺していないことに気づいた。
理由はすぐに分かった。
手帳の中身の九割は 稔の頭の中にあった。二十年の癖だった。配合屋は感度分析の結果を 紙よりも 自分の頭の中に書き写す習慣を持っていた。商談で電卓の出力を見せながらも 数字の構造は頭の中で再構築できなければ 客の追加質問に答えられなかった。
だが その手帳の中には 稔が頭の中に書き写しきれていない一ページがあった。
去年の春に書きつけた 感度分析の応用メモのページ。
そのページは 元の世界の試算メモだった。試験的に作って 結局使う場面がなかったので 頭にも入れていなかった。
シャドルムは 燃え始めた手帳の中から ある一ページだけを 炎の中から指先で抜き出した。
「これは 残しておこう。あなたの最も興味深いページだ」
そのページは 例の応用メモだった。
シャドルムは それを丁寧に畳んで 自分の懐に入れた。残りの手帳は青い炎の中で 灰になった。
「賢者殿。あなたの計算は 美しい。だが 美しさは 力にはならない。力は 古い権威の中にだけ宿る」
稔は答えなかった。
シャドルムは ふと 顔つきを和らげた。
「あなたの顔は どこかで見たような気がする」
「私もです」
稔は答えた。
「あなたの顔は 私の世界に 似た人がいる」
「ほう」
「私を 何度も小さく傷つけてきた人です」
「私は あなたを大きく傷つけることもできる」
シャドルムは唇の端を上げた。義兄の表情だった。
「だが 今夜は 燃やすだけで済ませる」
シャドルムはそれだけ言って 闇の中へ歩き去った。稔の足を縛っていた呪は 彼の姿が見えなくなってから解けた。
稔は しばらくそこに立っていた。風はなかった。月もなかった。星だけが かすかに見えた。
ようやく動き出した足で 稔は迎賓館に戻った。
部屋ではリーゼルが眠れずに 起きていた。彼女の手のひらの黒は 手首を越えていた。
「ミノルさん」
「うん」
「教会の影が あなたを呼びに来たんですね」
「うん」
「何を奪われましたか」
「予備の手帳一冊と 応用メモのページ」
リーゼルは黙ってうなずいた。それから 自分の手のひらを開いて 紋章の縁の黒を見た。
「私の影の代償は あなたを守るために 払われているんですね」
「そんなことは ない」
「ううん。シャドルムは 私を通して あなたを抑えようとしている。私が払う代償の分だけ あなたが動きを止めるように」
リーゼルの言葉は静かで的確だった。稔は否定する材料を持っていなかった。
「ミノルさん 一つお願いがあります」
「うん」
「私の代償を 気にしないで 動いてください。気にしたら 負けます。それが 影の魔法の仕組みです」
「お前は」
「私は 大丈夫」
リーゼルはそう言って 笑った。痩せた頬の奥の小さな筋肉が動いた。彼女の笑い方は 一年前 初めて納屋で稔に礼を言ったあの朝の笑い方と 同じだった。
稔は答えなかった。代わりに 自分の手帳の表紙を 一度だけ撫でた。コーヒーの染みが 指先に触れた。
二十年前の月曜の朝に作った染み。
これだけが 焼かれずに 残っていた。
机の上に 燃やされた手帳のページの灰が 想念の中で 並んでいた。実物の灰はシャドルムが地下で吸い込んでしまった。だが稔の頭の中では それぞれのページが まだ読めた。失われたページの内容を 稔は一枚ずつ 心の中で再現していった。再現できないページは 二十年の経験の何分の一かが 既に頭の中に取り込まれている可能性があった。実際 稔は一年半前から 異世界の村で 手帳の中身の九割を 頭の中だけで運用してきた。今夜失われた予備の一冊が もう要らない 段階に 稔自身が来ていた。
シャドルムが燃やしたのは 一年半前の稔だった。
今夜の稔は 燃やされていなかった。
稔は手帳の表紙を もう一度撫でて 自室の灯を消した。
明日からは シャドルムを倒す側として 動く。それは 一年前のハクの村の納屋で 配合表を書いた夜の自分には まったく想像できなかった次の段階だった。だが 配合屋の二十年の癖は そういう段階の移動を 自然な手順として 受け入れる準備が できていた。




