第十一章 教会会議室での詰問
百人の聖職者が 稔の手帳を罪状として机に並べた。
王宮に滞在を始めて二週間が経った。稔は迎賓館の一室をあてがわれ そこで王立学院の若い学者たちを集めて 配合表の基本を講義する日々を過ごしていた。学者たちは熱心だった。彼らの多くは家族や知人を家畜痩せ病で苦しめてきた者たちで シャドープライスの計算を教えると 目に涙を浮かべる者もいた。
リーゼルは迎賓館の中でほとんど動かなかった。手のひらの紋章の縁の黒は 日を追うごとに範囲を広げていた。稔が止血のような呪具を探そうとしたが シャドルムが施した影の代償印は 教会の高位の者にしか解けないと聞かされた。リーゼルは「大丈夫」と笑った。彼女の笑い方は 痩せた羊が乾草を一口かじったときの 静かな抵抗に似ていた。
そんなある朝 教会から正式な召喚状が届いた。
「教義審査のため 教会本部の大会議室に出頭せよ。配合表に関する神学的整合性について 問答を行う」
稔は迎賓館の応接間で 召喚状を二度読んだ。アルフリートが横で「行かない選択肢はないですか」と低く訊いた。
「ない。逃げれば敗北を認めることになる」
稔は手帳をコートの内ポケットに入れた。書き写しの予備は 別に二冊作って 一冊は迎賓館の自室の床下に 一冊はリーゼルに預けてあった。
教会本部は王宮の北側に隣接していた。白い石灰岩の柱が四十本並ぶ正殿の地下に 大会議室があった。
稔が入ったとき 部屋は満員だった。
円形の階段状の座席に 百人を超える聖職者が座っていた。全員が白か赤か紫の僧衣を着ていた。中央の床に 稔の立つ位置を示す小さな円が刻まれていた。円の正面の高い席に シャドルムが座っていた。
円に立った稔の前の長机に 三冊の本が置かれていた。
そのうちの一冊が 稔の手帳の写しだった。
稔は息を呑んだ。
リーゼルに預けていた一冊を 誰かが盗んだ。あるいは 写したのだった。
「異邦の土山稔」
シャドルムが口を開いた。
「あなたが書く配合表は 神の制約を 計算で操作する。神の許可を得ずに 飼料を変え 家畜の体を変え 民の食卓を変えている。これは 我々の教義における 神への越権行為に該当する」
稔は答えた。
「私は神の何も操作していません。原料の組み合わせを変えただけです」
「原料の組み合わせを変える権限は 誰のものか」
「誰のものでもありません。それは ただの選択です」
「選択は 神の規則の内側で行われる時にだけ 罪を負わない。あなたは規則の外で選択を行っている」
「規則の外とは」
「あなたが用いる影の価格の計算法は 教会のみが扱える聖務に属する」
稔は手帳を一度握り直してから 答えた。
「私の国では 影の価格は 飼料の値段を最適化するために 誰もが扱える計算法です」
「ここは あなたの国ではない」
シャドルムの声は静かだった。
百人の聖職者の視線が稔に集中していた。稔の中で 何かが圧迫された。それは数十年前 父にノートを開かれて「数字を並べているだけだ」と言われた瞬間の感覚に似ていた。会社で 上司に詰められた金曜の夕方の感覚にも似ていた。サブテクストとしては全く違うのに 表面に出てくる身体反応は同じだった。胸の上の方が締まり 喉が乾き 目の奥が薄く痺れる感覚。
稔は その身体反応に 二十年つき合ってきた。
会社の会議室で営業部長に詰められた時にも 同じ反応が出た。「お前の計算は理屈ばかりで 現場が分かっていない」と言われた金曜の午後。稔はその時 自分の作った配合表の数字を口に出さず ただうなずいて引き取った。家に帰って手帳のページを開き 同じ計算を 一晩かけて 別の角度から書き直した。月曜の朝に部長の机に置いた書類は 反論ではなく 別の最適化の結果だった。部長は何も言わずに 稔の書類を引き出しに入れた。
その時の二十年前の自分が 今ここに立っていた。
胸の圧迫は同じだった。だが 引き取る相手の規模が違っていた。百人の聖職者の視線は 営業部長一人の視線よりも 何倍も濃く 何倍も湿っていた。
「賢者殿」
シャドルムが続けた。
「あなたは これまで 家畜痩せ病を 神罰ではないと 各地で説いてきたと聞く」
「説いたのではありません。原因は栄養配合の欠陥だと 計算結果に基づいて述べただけです」
「あなたの計算は 教会が公式に認定したものか」
「いいえ」
「ならば 公的な根拠を持たない言説で 民に神の意志に反する判断をさせていることになる」
「結果として 家畜は回復しています」
「結果は 神の名で語られなければ 異端だ」
会議室の空気が固まった。シャドルムは一拍置いてから 隣の助手に合図した。助手が稔の手帳の写しを取り上げ ページを開いた。
「ここに書かれている計算式の一つを 読み上げる」
助手は稔の書いた感度分析の式を 大きな声で読み上げた。読み上げる速度は速かった。聞いている聖職者の多くは 数式そのものは理解できなかったが その響きの中の単語 シャドープライス を聞き取った。
百人の聖職者の何人かが 同時に十字を切った。
「賢者殿の式は 教会の聖務の式と 同じ言葉を用いている。これは偶然ではない。あなたは 教会の聖務を 配合表という名目で 民間に流布している」
「私は 教会の聖務など知りません」
「知らないということは 罪を免れる根拠にはならない」
シャドルムの言葉は 法廷の論理だった。稔には反論する材料がなかった。同じ式を共有していることは 既に証明されてしまっていた。
会議は二時間続いた。
最終的にシャドルムは 判決を出さなかった。代わりに「警告」を出した。今後 公的な認定を受けずに配合表を流布した場合は 異端としての処分を行う という警告だった。
稔が会議室を出るとき シャドルムが背後で言った。
「賢者殿。あなたの手帳を 預かりたい。教会で精査したい」
稔は振り返らなかった。代わりに ポケットの中の手帳を 一度だけ強く握った。
「これは 私の道具です。お渡しできません」
「では 写しを 教会の管理下に置かせていただく」
「写しは どこにも存在しません」
それは嘘だった。だが稔は嘘を言った。シャドルムが既に一冊を持っていることを 知った上で 表面の応答は強気を選んだ。
シャドルムは何も言わなかった。稔の背中に向けて 何かの言葉を呟いたかも知れなかった。だが稔は振り返らなかった。
迎賓館に戻った稔は 部屋でリーゼルに会った。リーゼルの顔は青ざめていた。彼女の手のひらの紋章の黒は 既に手首近くまで広がっていた。
「ミノルさん」
「うん」
「私 ごめんなさい 預かった手帳を どこかに置き忘れたみたいで」
「それは あなたが置き忘れたのではない。盗まれた」
「盗まれた」
「教会の影の中で 紋章を持つ人間から物を抜くのは 簡単なんだ。たぶん」
リーゼルは涙を堪えていた。稔は彼女の前にしゃがんだ。
「気にするな。本物はここにある」
ポケットの手帳を 一度だけ取り出して見せた。
リーゼルが小さくうなずいた。
その夜 稔は迎賓館の自室の床下から もう一冊の予備の写しを取り出した。机の上に広げ 数字を確認した。
足りなかった。
一年前の春に書きつけた 感度分析の応用メモのページが 抜き出されていた。
そのページは 教会の影の魔法体系と 数学的構造が同型である式を 稔がたまたま試しに書きつけたものだった。
シャドルムは既に そのページを持っていた。
稔の最後の切札が シャドルムの手の中にあった。




