第8話
今日からオリエンテーション合宿だ。
後ろの席からは、隣の女子とはしゃぐめぐみの明るい声が聞こえてくる。
……だが、正直言って今の僕には、その声に耳を傾ける余裕すらない。
絶賛、車酔いと闘っている最中だ。
小学生の頃は遠足のたびにダウンしていたが、中学に入ってからはだいぶマシになっていたはずだった。
なのに、どうしてこんなことになっているのか。
心当たりは二つある。
一つは、キャンプ場へ向かうこの山道がとにかくうねっていて揺れること。
そしてもう一つは……昨日の夜、なかなか寝つけず、明らかな寝不足状態だということだ。
中学の時の林間学校や修学旅行では、めぐみとはクラスが別だった。
クラスの男子と楽しそうに喋っていたり、京都の班行動で一緒に回っている姿を遠くから見かけるたび、僕は行き場のないイライラに支配されていた。
それが今回、高校に入って同じクラスになり、あろうことか同じ班だ。
恥ずかしい話だが、僕は浮かれていた。
小学生のように気分が高揚して、無駄に目が冴えてしまったのだ。
その結果が……この惨状である。
すっかり酔いにも強くなったと過信していたため、酔い止めの薬なんて持ってきていなかった。
ひたすら冷たい窓ガラスに額を押し当て、外の景色を眺めながら耐え凌ぐしかなかった。
そんな限界寸前の僕に気づいためぐみが、薬と飴をくれた。
消費期限はギリギリだったけれど、そんなことはどうでもいい。
あいつ自身は車に弱くないのに、なんでわざわざ酔い止めなんか持ってきたんだろう?
ただの持ち前のお人好しで、クラスの誰かが酔った時のために準備していたのか?
それとも……僕が車に弱いことを、覚えていてくれたのか?
(……いや、さすがに自惚れすぎか)
けれど、めぐみと話して少し笑ったら、張り詰めていた気分が少しだけマシになった。
薬に眠くなる作用があったのか、その後キャンプ場に到着するまでの三十分ほど、僕は揺れる車内で穏やかに仮眠をとることができた。
「朝井、着いたぞ」
隣の席の男子に肩を揺すられて目を覚ました。
「……おー。ずっと黙っててわりい、酔ってたわ」
短く詫びを入れてから、重い身体を引きずってバスを降りる。
開け放たれたドアの向こうには、見渡す限りの大自然が広がっていた。
空気がひんやりと澄み切っていて、肺の奥まで山の濃い緑の匂いが入ってくる。
あちこちの木々から聞こえる様々な鳥のさえずりが、癒しのBGMのように賑やかな合唱を作っていた。
クラスメイトたちが広場に集まっていく中、前方を歩く見慣れた背中を見つけた。
高めの位置で揺れるポニーテールに、ゆったりとしたオフホワイトのパーカー、そして動きやすいジーパン。
やる気たっぷりのアウトドアな格好をした彼女の背後に、僕は足音を忍ばせて近づいた。
「……めぐ」
背後から声をかけると、彼女はパッと振り返った。
「あの薬、めっちゃ効いたわ。ありがとな」
僕が素直に礼を伝えると、めぐみは顔をほころばせ、太陽みたいな笑顔を見せた。
「よかったあ!」
無邪気に笑う顔を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
中学の時は、変な噂を立てられたり陰口を言われたりするのを避けるため、学校ではめぐみと距離を置いていた。
だが、高校に入ると周囲の様子が少し変わった。
半数以上が持ち上がりのはずなのに、なぜか男女関係なく気さくに話す連中が増えたのだ。
その雰囲気に便乗する形で、僕も以前よりめぐみとだいぶ話しやすくなっていた。
だから今みたいに、ちょこちょことお互いに自然に話しかけに行ける。
ただそれだけのことが、僕はものすごく嬉しかった。
◇
まずは合宿の定番、飯盒炊爨とカレー作りから始まる。
男子はかまどの組み立てや火起こしなどの力仕事、女子は野菜のカットなどの料理系と、ざっくり担当を分けて作業を進めていく。
「朝井、そっちの石頼むわ」
「おう」
かまどの土台にする重い石を両手で運びながら、ふと女子の調理スペースに目をやる。
すると、めぐみがポロポロと涙をこぼしているのが見えた。
どうやら、玉ねぎが目に染みたらしい。
それ自体はよくある光景だが、問題はその隣だ。
同じ班になった高校からの外部生、織田が、めぐみの隣に立っている。
めぐみは手が玉ねぎの汁まみれで目を擦れないらしく、あろうことか織田が、持っていたタオルでめぐみの涙を拭ってやっているではないか。
(おいおいおいおい、それはダメだろ……)
僕は両手に重石を抱えたまま、心の中で大声でツッコミを入れた。
距離が近すぎる。
いくらタオル越しとはいえ、めぐみの頬には触れてほしくない。
というか、その係は僕がやる。
沸々と湧き上がるどす黒い怒りを必死に堪えていると、同じく重石を持った葉山がニヤニヤしながら近づいてきた。
「朝井〜、バスの中で男子で駄弁ってたんだけどさ。井原さん可愛いって言ってるやつ、何人かいたぞ?」
「……は?」
「そろそろ本気でアピールしないと、マジでやばいかもな!?」
けしかけるように笑う葉山を、僕は鋭く横目で睨みつけた。
(こいつ……俺が焦るのを確実に面白がってやがる)
僕は葉山をその場に置き去りにして、重石を抱えたままめぐみのいる班のスペースへと大股で歩いていった。
ドンッ! と、少しわざとらしい音を立てて土の上に石を置く。
「……玉ねぎ、俺やろっか? めぐ」
横にいる織田にハッキリ聞こえるよう、あえて『めぐ』と名前呼びを強調して話しかけた。
僕なりの精一杯の牽制だ。
しかし、めぐみは涙目のままパァッと明るい声を上げた。
「ありがと! でももう切り終わったから大丈夫だよ!」
「……そ。ならいいけど」
……あっさりと断られてしまった。
その後も、僕はめぐみの近くでできる力仕事を積極的に巻き取って動き回った。
決して、彼女に近づこうとする男がいないか見張っていたわけではない。
◇
「いただきまーす!」
班ごとに円になって座り、出来上がったカレーを食べ始めた。
市販のルーを使ったごく普通のカレーだけれど、澄んだ空気の自然の中で食べると、なぜか格別に美味しく感じる。
何より、めぐみが切った野菜が入っていて、めぐみがよそってくれたものだ。
不味いわけがない。
「そういえば、中学の修学旅行どこだったー?」
銀色のスプーンを口に運びながら、めぐみが織田に話を振る。
「俺のとこは京都だったよ」
織田が答えると、めぐみは目を輝かせた。
「あっ、うちらもだよ! 織くんのところもだったんだ!」
(…………『織くん』!?)
はあああ!? と、口に含んだカレーを危うく吹き出しそうになった。
必死に喉の奥に流し込み、咳き込むのを堪える。
話を聞いていると、織田は中学時代から周囲にそう呼ばれていたらしい。
そして、このクラスでも関わりのある奴らはすでにそのあだ名を使っているようで、同じ班の女子、金森も自然にそう呼んでいた。
めぐみが彼に頻繁に話しかけるのは、きっと外部生の織田が班の中で孤独にならないように気遣っているからだ。
それはめぐみの長所だし、そういう優しさが好きなところでもある。
けれど……この無自覚な人たらしが。
心の中で彼女を盛大に恨みながら、手のひらにある銀色の皿をひっくり返さないように必死だった。
楽しくお喋りしながらカレーを食べているめぐみの頬に、茶色いルーがちょこんと付いているのを見つけた。
「おい、めぐ。付いてる」
僕は自分の頬の同じ場所をトントンと指差して教えてやる。
「わっ! ありがと」
めぐみが恥ずかしそうに慌てて、自分の頬を手の甲で拭った。
そんな僕らのやり取りや雰囲気をぼんやり見ていた、中学から顔見知りの男子が、ふと思い立ったように口を開いた。
「……そういや、二人って幼馴染なんだっけ? まさか、付き合ってたりすんの?」
ピタリ、と僕の心臓が止まりかけた。
どう答えるべきか――僕の脳内がフル回転した、その時。
「えっ? 違うよ!」
僕が口を開くより先に、めぐみが何の迷いもない明るい声で即答したのだ。
(……即答かよ!)
あまりのあっけなさに、僕はスプーンを握ったまま固まった。
……まあ、たしかに違うけど。
違うけどさ。
もう一秒くらい、動揺したり、間を開けてくれたっていいじゃないか。
春の森の中、心地よい陽気とは裏腹に、僕の心には冷たい木枯らしが吹き荒れ、見えないダメージを受けていた。




