第42話
『ちょっと、口が悪いところもあるけどね』
廊下で由利さんから聞いたその言葉が、頭から離れなかった。
なっちゃんが素顔を見せているのは、私だけじゃなかったんだ。
以前、彼は『俺が素を見せてるのは、めぐが特別だから』みたいなことを言ってくれた。
それなら由利さんも、なっちゃんにとって『特別』な存在なのかな。
私に向けるのと同じような気の抜けた顔で、由利さんに笑いかけている彼の姿を想像してしまう。
「自分の今の気持ちを伝えよう」と意気込んでいた決意が、萎んだ風船のようにシューッと音を立ててしぼんでいくのがわかった。
◇
「今日も部活、遅くまである?」
休み時間になっちゃんが私の席までやってきて話しかけてきたが、彼の目を真っ直ぐに見ることができなかった。
なっちゃんが自分の席に戻っていった後。
一緒にいた葵が、両手で頬杖をつきながら私の顔をじっと見て、口を開いた。
「……めぐってさあ」
「うん?」
私が聞き返すと、「……いや。そういえばテストのあの解答って……」と、この前返却された期末テストの話題を振ってきた。
何か言いたげな顔をしていたような気がしたのだけれど。
◇
放課後の部活を終え、私は鉛のように重い足取りで家へと帰っていた。
期末テストもすべて返却され、まもなく夏休みを迎えようとしている。
本格的な真夏の到来を告げるように、ジージーという蝉の声がだいぶ大きく聞こえていた。
自分で鍵を開けて家に入ると、玄関のたたきに、大きくて綺麗なスニーカーが置かれているのが目に入った。
「おかえり」
同時に、リビングの奥から聞き慣れた低い声が聞こえてくる。
「……お父さん!?」
私がひどく驚いて靴を脱いでいると、お父さんがひょっこりと顔を出して微笑んでいた。
「こんな時間にいると思わなくて、ビックリしたー!」
お父さんは動物病院の院長をしているため、いつも帰りが遅い。
平日のこんな明るい時間に家にいるなんて、奇跡に近い。
「今日の午後は診察も早く終わってね。入院も、最近退院した子が多くて、みんな落ち着いてて。夜はお母さんが病院に残って看ててくれるっていうから、早く帰ってきたんだ」
優しい声で病院の状況を教えてくれた。
「ごはん作ったけど、もう食べる?」
「うん! お父さんのごはん、久しぶり!」
私はすっかり嬉しくなって、急いで洗面所へ手を洗いに向かった。
久しぶりに家で一緒に過ごせるお父さんの存在に、冷えていた心がぽかぽかと温まっていく。
手を洗いながら、『家で待ってるから連絡して』というなっちゃんとの約束を思い出したけれど。
(もうちょっとだけ、このむくれた気持ちを落ち着かせてからにしたいな……)
私はそう言い訳をして、連絡を入れるのを少し先延ばしにしてしまった。
◇
お父さんと二人で食卓を囲む。
しばらくの間ゆっくりと話せていなかった分、話したいことが次々と溢れてきて、「それでね……」とマシンガントークになってしまう。
そんな私の話を、お父さんはずっとニコニコしながら聞いてくれる。
文化祭を振り返っていたら、自然となっちゃんのライブの話題に辿り着いた。
美しく響き渡る由利さんのピアノと重なる、なっちゃんの切ない歌声を思い出して少し胸が痛くなりながらも、私は明るく話し出した。
「……それでね、なっちゃんがステージで歌ったんだよ。部活は変わらずバスケ部なんだけど、軽音部のバンドのボーカルに、ゲストで出て」
「へえ! ああ。なんか、『なっちゃんは歌が上手い』って、めぐみが中学の頃に言ってた気がするな」
昔、私が話したことを、お父さんは覚えていたようだ。
「うん、すっごく上手だったよ。初めてちゃんと聴いたんだけど、感動しちゃって……」
そこまで言って、急に言葉が続かなくなってしまった。
「めぐみは昔から、なっちゃんのこと大好きだもんなあ」
お父さんが、目を細めて笑う。
中学生までの私なら、「うん、大好きだよ!」と無邪気に軽く答えていたかもしれない。
けれど、今の私は……その言葉を口にすることが、どうしてもできなかった。
「…………」
顔が熱くなるのを感じ、それがお父さんにバレないように、私は慌てて白米を口いっぱいに詰め込んだ。
◇
お父さんとの温かい時間にすっかり甘えていたら、時計の針はもう二十時近くを指していた。
とりあえず制服からラフな部屋着に着替えたものの、私はリビングのソファから動けずにいた。
(どうしよう……そろそろ連絡しなきゃ)
頭ではそうわかっているのに。
次の一歩が踏み出せず、テレビのバラエティ番組をぼーっと眺める。
――ピーンポーン。
玄関のインターホンが鳴る。
(あ……なっちゃん、かも)
ビクッと心臓が跳ねる。
お父さんが「光かな?」と呟きながら廊下に向かい、モニターも確認せずにガチャリとドアを開けた。
「……おお、なっちゃんか」
奥から聞こえてきたお父さんのその声が、答え合わせとなった。
少しして、お父さんがリビングに戻ってくる。
「めぐみ、なっちゃん来たよ。用事があるって」
「あ、うん」
私は小さく返事をしてソファから降りた。
一度洗面所に寄り、鏡を覗き込んで自分の髪や顔におかしいところがないか確認する。
そして、「ふうっ……」と小さく深呼吸をして、玄関へと向かった。




