第37話
期末テストもようやく終わり、部活が完全再開して、放課後にコンクールや定期演奏会の練習に打ち込めるのがすごく嬉しい。
今は合奏前のウォーミングアップの時間。
音楽室には、各々で音出しをしているいろんな楽器のいろんな音が混ざり合い、カオスのような大変な音量が響き渡っていた。
ふと前を見ると、指揮台の横で顧問の先生と部長の先輩が何やら真剣な顔で打ち合わせをしている。
その時、顧問の先生が話しながら、自分の胸の前でギュッと両手を合わせた。
何気なくその姿を見た瞬間――ある場面が、急に私の脳裏に鮮明によみがえった。
『……イヤだったら言って』
文化祭の打ち上げの後の帰り道。
初夏のぬるい夜風の中、なっちゃんに手を握られた、あの瞬間の記憶だ。
「…………っ!」
思わず、咥えていたサックスのリードにギュッと変な力が入ってしまい、「ピィッ!」と間の抜けた音が裏返ってしまった。
隣に座るパートリーダーの先輩に「?」と不思議そうな視線を向けられ、私は慌てて「ンンッ!」と咳払いで誤魔化した。
やがてパンパンと手を叩く音がして合奏が始まり、私は必死に邪念を払って、真っ直ぐに先生の指揮棒に集中した。
◇
部活が終わり、下駄箱で「おつかれ〜!」と言い合って同級生たちを見送った。
私は徒歩帰りなので、ひとりで自分の下駄箱を開け、ローファーをトントンと履く。
時刻は最終下校時刻ぴったり。
けれど、真夏で日が長いため、外はまだオレンジ色の夕陽で眩しいくらいに明るかった。
ふと、視線をずらしてなっちゃんの下駄箱を見る。
外靴はもうなく、空っぽだった。
(……もう帰ったんだな)
少しの安堵と、寂しさを感じた。
なっちゃんはここ最近、他クラスの女の子に呼び出されて告白されているようだ。
一応どの子も断っているみたいだけど……。
中学の時、なっちゃんの背が急に伸びて「なっちゃんフィーバー」が到来したときのことが思い出される。
みんな、文化祭での彼の歌声に射止められてしまったのだろうか。
呼び出された場所から彼が教室に帰ってくるまで、私は気にしていないように必死に笑顔をつくりながらも、内心は心ここにあらずだった。
待たせているのは、自分のくせに……。
なっちゃんには、まだはっきりと自分の気持ちの「返事」を伝えられていない。
なんせ、五、六歳の頃からずっと一緒にいる幼馴染なのだ。
近すぎて、当たり前すぎて……だからこそ、余計に感情がこんがらがっている気がする。
「幼馴染として」でいうなら、もちろんなっちゃんのことは大好き。
一緒にいて楽しいし、気を使わないし、どこか抜けている私に呆れながらも助けてくれる。
たとえちょっとそっけなくても、怒っている時も、全部ひっくるめて好きだ。
でも、なっちゃんが私に言った「好き」は、そういう意味ではない。
さすがの私でも、それくらいはわかる。
じゃあ、私はなっちゃんを……「そういう意味」で好きなんだろうか。
夕陽に照らされたアスファルトを歩きながら、自問自答を繰り返す。
ステージで歌う彼の姿から、一秒たりとも目が離せなくなってしまったこと。
彼の言葉に、耳の先まで真っ赤になってしまうこと。
他の女の子に彼が笑顔を向けようとしているところから、いつも目をそらしてしまうこと。
そして……あの夜、繋がれた手を、そっと握り返してしまったこと。
これが、恋愛としての『好き』ってことで、いいんだろうか……。
「めぐちゃん」
ぐるぐると悩みながら校門を出ようとした時、不意に声をかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、織くんだった。
うだるような暑さだというのに、彼は汗一つかいておらず、相変わらず涼しげで爽やかだ。
「織くん! お疲れ。写真部も、この時間までやってたんだね」
「うん。今、文化祭の時の写真を現像して、クラスのアルバム作ってるんだ」
「えーっ、楽しみすぎる! 完成したら見てもいい?」
私が目を輝かせて聞くと、彼は「もちろん」と優しく微笑んでくれた。
織くんはいつも電車通学のはずだが、今日は「こっちの方角に行きたいお店があるから」と言うので、途中まで一緒に並んで歩くことになった。
彼の纏う、ふんわりとした柔らかくて優しい雰囲気に気を許してしまったのか、私は歩きながら、思わずこんな質問を口にしていた。
「……ねえ。織くんって、好きな人とかできたことある?」
「えっ。……急だね」
いつもほんわかしている彼の瞳が、珍しく大きく見開かれた。
「あ、ごめん! 変なこと聞いて……」
私は慌てて謝った。
実は、なっちゃんから告白されたことや自分のこのモヤモヤした気持ちについて、女の子の友達にも、誰にも、葵にさえもまだ相談できていなかったのだ。
自分の中で抱えきれなくなって、ついこぼれ出てしまった。
「……そりゃあ、あるよ」
少し歩いた後、織くんがぽつりと呟いた。
「……どんな感じ?」
私が恐る恐る聞くと、織くんは「うーん」と少し空を見上げて考え込んだ。
「俺は……他の人と比べると、好きな人に対してあまり多くを望まないタイプかも」
ゆっくりと、言葉を探すように紡いでいく。
「その人と会えるだけで嬉しいし、その人が幸せそうだと嬉しい。……たとえ、その人を笑顔にしているのが、自分じゃなかったとしても……みたいな」
「なるほど……。なんか、無償の愛みたいな感じだね」
私が感心して言うと、織くんは「ハハ、そんな偉そうなもんじゃないけど」と照れたように笑った。
「我慢しているとかじゃなくて、ただ単に無欲なのかも。……人それぞれで、好きの形って違いそうだよね」
(人それぞれで、形が違う……)
私はどうだろうか。
もし、なっちゃんが他の女の人と一緒にいて、幸せそうに笑っていたら……。
(…………)
その姿を想像しただけで。
胸の奥を鋭いナイフでえぐられたように痛くて、息が上手く吸えなくなった。
だめだ。
私は、絶対に織くんみたいには笑えない。
あのぶっきらぼうで、口が悪くて、でも誰よりも私を真っ直ぐに見てくれるなっちゃんの隣は――私以外の誰かに取られたくないよ。
「じゃあ、ここで」
歩いているうちに、昔からある写真屋さんのようなお店の前に着き、織くんが立ち止まった。
「うん! バイバイ。また明日ね」
私が手を振って歩き出そうとした時だった。
「……めぐちゃん!」
背後から呼ばれて振り返る。
「? うん?」
織くんはこちらを真っ直ぐに見つめ、いつも以上に柔らかい笑顔で、優しく言った。
「……ファイト!」
「……えっ?」
予想外の言葉に、私はきょとんとしてしまった。
(……もしかして私が考えてること、何かバレてた……?)
少し焦りながらも、彼の温かいエールが不器用な私の背中を押してくれたような気がして。
「……うんっ? ありがと!」
私は、今日一番の笑顔で彼に手を振り返したのだった。




