第33話
文化祭二日目も、一日目と同様に大いに楽しめた。
私は、上級生のクラスの出店で買った、水色の可愛い虎(?)のようなオリジナルキャラクターの手作りお面をすっかり気に入り、一日中ずっと頭の横に付けていた。
遊びに来たお兄ちゃんには「……なにそれ」と呆れたように苦笑いされたけれど。
クラスの子たちと同じはっぴを着て、たくさん笑って、高校生活初めての文化祭の空気を思う存分満喫した。
でも、頭の片隅では、なっちゃんのことばかりがずっと引っかかっていた。
(なっちゃん、なんか話したそうにしてる……)
ふとした瞬間に視線を感じるたび、私は彼が近づいてくるのを察知して、わざとらしく別の作業をしているふりをしたり、友達の輪に紛れ込んだりして、徹底的に目を逸らし続けた。
彼が何を話そうとしているのかわからなくて怖かったからだ。
昨日、なんで真っ赤になってトイレに逃げたのかと追及されるのも嫌だったし。
何より、彼の口から「好きな人」の名前を直接聞かされるのも、嫌だった。
◇
なっちゃんを避け続けているうちに、文化祭はあっという間に終わりの時間を迎えた。
後夜祭のグラウンドで打ち上げ花火を楽しんだ後、みんなで足早にクラスの打ち上げへと向かった。
今回は、学校近くの大きなカラオケボックスのパーティールームを貸し切ることになった。
男子女子ともにカラオケをこぞって希望した理由は……もちろん、この人だ。
「朝井、これ歌って!」
「いや、まずは昨日のアンコールからでしょ!」
部屋の中央で、なっちゃんがクラスメイトたちに囲まれながら、リクエスト曲をタッチパネルに次々と勝手に入れられている。
「……いや、喉死ぬから! みんな自分のも入れろよ」
なっちゃんは苦笑いしながら文句を言っているが、なんだか少し疲れているようにも見える。
(……そうだよね、クラスの準備もやりながら、バンドの練習もずっとしてきたんだもんね)
遠くからその姿を眺めながら、私は密かに少し心配していた。
やがて、なっちゃんの歌が始まった。
昨日のステージで披露した曲ではない、誰かがリクエストした最近流行りのアップテンポな曲も、信じられないくらいすごく上手だった。
私は少し離れた隅の席で、コップの中のメロンソーダをストローで吸いながら、絶対に目が合わないように気をつけつつ、彼の方をこっそりと見ていた。
隣では、葵が「おなかすいたー」と言いながら、大皿のフライドポテトをパクパクとつまんでいる。
三十人も入るパーティールームはぎゅうぎゅう詰めで、冷房がまったく意味をなさないくらい、むせ返るように暑い。
なっちゃんの周りには、クラスの女の子たちもたくさん集まっている。
昨日のライブの圧倒的なパフォーマンスの効果なのか、前よりも明らかにキャッキャと黄色い声を上げられている感じがあった。
そして流れる、昨日のステージで歌ったあの二曲。
昨日と同様、なっちゃんはマイクを握ってとても上手に歌い上げ、室内はまるでライブのアンコールのように大きく湧いた。
みんなも手拍子をして一緒に歌っている。
私は、この二曲の間はなっちゃんの方をどうしても直視できなくて、モニターの画面の歌詞を追いながら、小さく口ずさんだ。
元々普通に好きで、何気なく聴いていた曲だったのに。
なっちゃんが歌っているのを聴いてからというもの、まったく別の曲のように感じてしまうくらい、すべての歌詞がダイレクトに私の心を震わせてくる。
また、胸の奥がツンと痛くなる。
◇
数曲続いたなっちゃんのターンが終わり、彼が「ちょっとトイレ」と部屋を出ていった。
すかさず、ノリのいい学級委員の男子がマイクを奪い、みんなで合いの手を入れられるような定番の『男子の失恋ソング』を入れて、部屋はさらなるカオスと熱狂に包まれた。
数分後、なっちゃんがトイレから戻ってきたのが見えた。
戻ってきてからしばらくは、外に行かないだろう。
つまり、今なら廊下で鉢合わせずに済むはずだ。
私はこのタイミングを見計らって、「ジュースのおかわり行ってくるね」と立ち上がった。
葵のコップも空になっていたので、「取ってきてあげる! 何がいい?」と聞くと、「ありがと。じゃあコーラ」というので、「オッケー」と答えて空のコップを二つ持ち、重い防音扉を開けて外に出た。
廊下に出ると、中の狂ったような喧騒が嘘のように静かだ。
他のボックスから微かに歌声が漏れてくるものの、それも遠くに感じられ、空調がよく効いているせいで一気に肌寒さを覚えた。
廊下の突き当たりにあるドリンクバーのコーナーにたどり着く。
私のメロンソーダ、隣の機械で葵のコーラを注ぎ終わり、コップを持って振り返った時だった。
「…………!」
廊下をこちらに向かって、早足で歩いてくる人影に気づいた。
――なっちゃんだ。
(えっ、なんで!? 戻ってきたばっかりだったのに! タイミングずらしたのに!)
ここは廊下の端の行き止まりで、逃げ場がない。
おまけに私は両手に並々と注がれたジュースを二つも持っているため、走って逃げることもできない。
あたふたとしている間に、なっちゃんは私の目の前まで迫ってきた。
「……ちょっと来て」
「えっ」
有無を言わさぬ低い声。
なっちゃんは、コップを持った私の両手首をそっと、けれど逃げられない強さで掴むと、そのまま廊下から死角になる、非常階段の前の薄暗い踊り場へと私を引っ張っていった。
「……あのさ。なんで避けるの?」
壁際に追い詰められ、なっちゃんが見下ろしてくる。
(……あ)
なっちゃん、最近ずっと優しい顔を見せてくれることが多かったから。
久しぶりにこの、イライラして怒っている冷たい顔を見た。
「いや……えっと……ごめんなさい」
怖い顔に気圧され、私は理由も言わずに反射的に謝ってしまった。
「…………」
「…………」
しばらくの重い沈黙が落ちる。
「……昨日のライブ、どうだった?」
唐突に、彼が探るような声で聞いてきた。
「……感動したよ」
私が素直に伝えると、なっちゃんは不満そうに眉をひそめた。
「それだけ?」
「えーっと……なっちゃんが、本当に歌上手だった」
さらにもう一歩距離を詰められる。
「……それだけ?」
時々、非常階段の重い鉄扉の向こうや、廊下に誰も来ていないか耳を澄ませて警戒しながら、この息の詰まるような会話を続ける。
(なんだか、尋問みたい……)
このままじゃグイグイ追及されそうで、私は一歩踏み込んだ感想を言わなきゃダメなのかなと思い、少し勇気を出して口を開いた。
「……すごく気持ちがこもってたから、好きな人を想って歌ってるのかなって、思ったよ」
私が視線を落としてそう言うと。
なっちゃんは、しばらくの間、じっと黙り込んだ。
そして。
「……好きな人、誰だか知りたい?」
低い声で、そう問いかけてきた。
その言葉に、私の心臓がギュッと縮み上がる。
私は下を向いたまま、か細い声で答えた。
「……知りたくない」
「……なんで」
短く、鋭く聞かれる。
私は黙り込んだ。
……もう、どう思われてもいいや。
わかんないけど、正直に答えよう。
私は腹を括って、絞り出すように言った。
「……イヤ、だから」
私がそう答えても、なっちゃんは何も言わなかった。
不安に思って恐る恐る顔を上げると、なっちゃんは、その黒い瞳をこれ以上ないほど大きく見開いて、私を凝視していた。
またしばらくの長い、長い沈黙のあと。
なっちゃんが、ゆっくりと口を開いた。
「……めぐ」
「……ん?」
名前を呼ばれ、不思議に思って返事をする。
「だから。めぐだよ」
「え?」
「……好きな人」
「…………え?」
思考が、完全に真っ白になった。
なっちゃんの好きな人が、私?
なっちゃんが、私を……好き?
「……冗談? ゲーム?」
気づけば、私の口からそんな言葉がこぼれ落ちていた。
小学六年のトラウマが、無意識に私の口を動かしていた。
すると、なっちゃんは思わずといった様子で「ふっ」と吹き出し、すぐに真面目な顔に戻って首を横に振った。
「いや、違うって。……あの時は、ごめん」
彼は私の目から視線を外さず、ハッキリとした声で言った。
「俺は、めぐが好きなの。……いい加減、気づけって」
「…………」
心臓が、バクバクと破裂しそうな音を立て始め、足元がぐらぐらと揺れて視界が歪む。
「……めぐは?」
逃げ場のない真っ直ぐな問いかけ。
「えっ……あっ……わかんない」
混乱のあまり、私はつい、一番言ってはいけないバカ正直な言葉を口走ってしまった。
「いや……なんだよそれ!」
なっちゃんが、呆れながら大声でツッコむ。
「俺の好きな人聞くの、嫌だったんでしょ? 俺のことで真っ赤になってトイレに逃げ込むし、髪型もハーフアップにしてくるし!」
「……っ!! やっ、やめてやめて!」
痛すぎるほどの図星を連続で突かれ、顔面から火を噴きそうになる。
これ以上言われたら本当に爆発してしまうと、私は慌てて彼の言葉を遮った。
「……ちょっと、待って。今、キャパオーバーなんだよ……」
私はずっと両手に持ったままだったメロンソーダとコーラのコップを顔の前に掲げ、真っ赤になった頬を必死に隠した。
「…………はあ」
なっちゃんは、呆れたような、でもどこか安堵したような深いため息をついた。
「……わかった。じゃあ、めぐの頭がクールダウンできるまでは、待つから」
彼はそう言って、一歩だけ後ろに下がってくれた。
「……戻るか」
なっちゃんが廊下に出ようとして、ふと振り返る。
「あ、今日の帰り、待ってて」
それだけを言い残し、彼は部屋の方向へと歩いていってしまった。
残された非常階段の踊り場。
私はまだ、自分の顔が凄まじく動揺しまくっている気がして、その場に立ち止まって荒い呼吸を落ち着かせようと必死だった。
……なっちゃんが、私を好きなの?
いつから?
冗談じゃないの? 本当に?
じゃあ、あの二曲は……私を想って歌ってくれたの?
「…………っ」
……ダメだ。これ以上考えていたら、また動揺してエンドレスにキャパオーバーになりそうだ。
私は小さく首を振り、自分に気合を入れて、防音扉を開けて喧騒のパーティールームの中へと戻った。
なっちゃんは、すでに元の席に座って周りの人たちと笑い合っている。
私はぼーっとした頭のまま葵の隣に腰を下ろし、炭酸が抜けてしまったコーラを彼女に手渡した。
「……遅かったねえ?」
葵がコーラを受け取りながら、私の赤い顔を見て、意味深に少し微笑みながら言ったのだった。




