第31話
なっちゃんのライブの後、クラスのみんなは興奮冷めやらぬ状態だった。
「このまま一日目の打ち上げいこーぜ!」と盛り上がっていたけれど、私はどうしてもそんな気分になれなかった。
隣にいた葵に「ごめん。今日はちょっと疲れちゃったから帰るね」と言い訳をして、そっと輪を抜け出して帰路についた。
◇
ガチャリと鍵を開け、家に入る。
玄関には、履きつぶされた大きなスニーカーが無造作に脱ぎ捨てられていた。
(お兄ちゃん、いるのか)
そう思いながら、ローファーを雑に脱ぐ。
「……ただいまあ」
リビングに向かって力なく声をかけると、奥から「んー」と気怠げな返事が返ってきた。
お父さんはもちろん、お母さんもまだ帰ってきていないようだ。
洗面所で手だけ洗い、自分の部屋へ向かう。
スクールバッグを床にポンッと置き、制服のままベッドに沈み込んだ。
「…………」
数秒間、うつ伏せのままでいたあと、ゆっくりと起き上がり、サイドテーブルに置いていたヘッドホンを手に取った。
スマホを操作して、ある音楽を流し始める。
なっちゃんがさっきステージで歌っていた――あのラブソングの原曲。
そっと目を閉じた。
スポットライトを浴びてマイクを握りしめる姿が、瞼の裏へ鮮明に蘇る。
二曲目のあのバラードを、大切に、切なげに歌い上げていたなっちゃん。
その瞳はまっすぐ前を見ていたものの、結局、一度も目は合わなかった。
あの表情は、誰を想って歌っていたんだろうか。
『好きな人とか、いるの?』
『……いるよ』
マンションの階段での、あのやりとり。
そして、『由利さんと手を繋いでいたらしい』という噂が、脳裏をよぎる。
なっちゃんは中等部まで、誰かに想いを寄せられることはあっても、彼自身の好きな人についての話は聞いたことがなかった。
ということは、最近好きになった人、なのかな。
なっちゃんの歌、本当に上手だった。
きっとたくさん練習したのだろう。
いつも、何事にも真面目に取り組む彼ではあるけれど――『頑張りたい理由』が、何かあったのだろうか。
彼らが出番を終えて舞台袖にはけたあと、ステージの成功を喜び合う姿が、私のいた場所からも少しだけ見えた。
あの、凛としていて大人びている由利さんが、ふわりと表情を崩してなっちゃんを見つめていた。
なっちゃんがどんな顔で彼女に応えていたのかは、こわくて見ることができなかった。
なぜだか、胸が苦しくて仕方ない。
息をするのも辛いくらい、胸の奥がギュッと締め付けられる。
そして、こんな痛みを感じたのは二度目だと気づいた。
遠い記憶が蘇る。
小学六年生の修学旅行、キャンプファイヤーの夜。
なっちゃんから『付き合おう』は『冗談』だったと言われ、胸にチクリと細い針が刺さったような痛みを感じた、あの時。
でも、それとは比べ物にならないくらい、今のほうがずっと痛い。
頬杖をつき、耳元で流れる甘いメロディを聴きながら、ぼうっと前を見つめていた。
その時。
不意に、頭からヘッドホンがスッと外され、私の世界からメロディが消えた。
お兄ちゃんがいきなり部屋に入ってきたのかと、驚いて背後を振り向く。
しかし、そこには――息を切らしたなっちゃんが立っていた。
「……ええっ!? なっちゃん!? え!?」
思考が完全に停止し、目を限界まで見開く。
「えっ、なんで!? なんでうちに……!」
「お前がさっさと帰るから……」
パニックになりながら、奪われた自分のヘッドホンを見た。
なっちゃんの手元で、シャカシャカと音漏れしている。
(……っ! やばい、流れてる曲を聞かれたらまずい!!)
ハッと我に返り、慌てて取り返そうと手を伸ばした。
「……かっ……返してっ!!」
けれど、なっちゃんはひょいっと腕を上げ、私の手からそれを遠ざけてしまった。
なっちゃんの背の高さに、敵うわけがない。
そして、彼がヘッドホンから漏れる音に耳を澄ませるのがわかった。
「……へー。これ聴いてたんだ」
ぽつりと呟く。
(バレた……)
ただ曲を気に入っただけなら、そう答えればよかったのに。
『なっちゃんが誰かを想って歌っていた曲を、泣きそうになりながら聴いていた』という感情までバレたような気がしてしまった。
(やばい、やばい……っ!)
顔が一気にカーッと熱くなるのを感じる。
耳の先まで、なんなら手の先まで沸騰したように熱い。
今の自分の顔が、なっちゃんから見て一体どんな無様なことになっているのかわからないけれど。
私を見たなっちゃんの目が、驚いたように大きく見開かれた。
(……これ以上、ここにいられない……!!)
「…………っ!!」
逃走本能が発動し、なっちゃんの脇をすり抜けて、部屋の外へと猛ダッシュした。
(とにかく、どこか隠れられる場所!!)
目の前にあった、鍵付きのちょうどいい密室――それは、トイレだった。
追いつかれるより先に飛び込み、内側からガチャッ! と乱暴に鍵をかけ、閉じこもった。
「!? おい、めぐ!?」
ドアの向こうから、ノブをガチャガチャと回す音と、焦ったような声が聞こえてくる。
便座の蓋の上に座り込んだ私は、熱くなっている顔を両手で覆って、ひたすら息を潜めた。
しばらくの間、外から「めぐ」「出てこい」「おい」と聞こえ続けていた。
それでも、絶対に開けるものかという私の粘り勝ちだった。
やがてなっちゃんは諦めたのか、お兄ちゃんに一言声をかけてから、家を出ていったようだ。
それでもすぐには出ずに、しばらくの間はトイレの中で警戒していた。
すっかり静かになったのを確認してから、そっと鍵を開けて、廊下に出る。
抜き足差し足でリビングを覗き込むと、さっきと変わらずお兄ちゃんがソファでスマホをいじっていた。
「なっちゃん、帰った……?」
小声で尋ねると、お兄ちゃんはこちらを見て、「うん」と頷いた。
「てか、何あれ。トイレに立て籠もるとか、どういう状況?」
呆れたように、苦笑いをしている。
「べ……別に! 何でもないから!」
早口で誤魔化し、再び自分の部屋へと逃げ帰ったのだった。




