第31話
なっちゃんのライブの後、クラスのみんなは興奮冷めやらぬ状態だった。
「このまま一日目の打ち上げいこーぜ!」と盛り上がっていたけれど、私はどうしてもそんな気分になれなかった。
横にいた葵に「ごめん。今日はちょっと疲れちゃったから帰るね」と言い訳をして、そっと輪を抜け出し一人で家に帰ってきた。
ガチャリと鍵を開けて家に入る。
玄関には、履きつぶされた大きなスニーカーが無造作に脱ぎ捨てられていた。
(お兄ちゃんがいるのか)
そう気づきながら、私も自分のローファーを雑に脱ぐ。
「……ただいまあ」
リビングに向かって力なく声をかけると、奥から「んー」と気怠げな返事だけが返ってきた。
父はもちろん、母もまだ帰ってきていないようだ。
洗面所で手だけ洗い、自分の部屋へ向かう。
スクールバッグを床にポンッと置き、制服のままベッドにうつ伏せに沈み込んだ。
数秒間、息を潜めるようにそのままの姿勢でいた後。
私はゆっくりと身を起こし、サイドテーブルの上に置いてあったヘッドホンを手に取った。
スマホを操作して、ある音楽を流し始める。
――なっちゃんがさっき、ステージで歌っていたあのラブソングの原曲。
目を閉じると、スポットライトを浴びてマイクを握りしめる彼の姿が、まぶたの裏に鮮明に蘇ってくる。
二曲目のあのバラードを、優しく、時折目を瞑って切なげに歌い上げていたなっちゃん。
その視線は真っ直ぐ前を見ていたけれど、結局、一度も目は合わなかった。
あの切なそうな表情は、誰かを想って歌っていたんだろうか。
『好きな人とか、いるの?』
『……いるよ』
マンションの階段でのあのやりとり。
そして、『由利さんと手を繋いでいたらしい』という噂が、脳裏をよぎる。
彼らが出番を終えて舞台袖にはけたあと、ステージの大成功を喜び合う姿が、私のいた場所からも少しだけ見えた。
あの、いつも凛としていて大人びている由利さんが、ふわりと表情を崩してなっちゃんを見つめていた。
なっちゃんはどんな顔をして彼女に応えていたのか……私は、こわくて見ることができなかった。
なぜだか、胸が苦しくて仕方ない。
息をするのも辛いくらい、胸の奥がギュッと締め付けられる。
そして、こんな痛みを感じたのは二度目だと気づいた。
遠い記憶が蘇る。
小学六年生の修学旅行、キャンプファイヤーの夜。
なっちゃんからの『付き合おう』は『冗談』だったと言われ、胸にチクリと細い針が刺さったような痛みを感じた、あの時。
でも、それとは比べ物にならないくらい、今のほうがずっと痛い。
私はベッドにうつ伏せになり、ヘッドホンから流れる甘いメロディに耳を澄ませながら、ぼうっと前を見つめていた。
――その時。
スッと、頭からヘッドホンが唐突に宙に浮き、私の世界からメロディが消えた。
お兄ちゃんがいきなり部屋に入ってきたのかと、驚いてパッと背後を振り向くと。
信じられないことに……そこには、息を切らしたなっちゃんが立っていた。
「……ええっ!? なっちゃん!? え!?」
思考が完全に停止し、目を限界まで見開く。
「えっ、なんで!? なんでうちに……!」
「お前がさっさと帰るから……」
パニックになって混乱しながら、彼の手元にある自分のヘッドホンを見た。
シャカシャカと微かに音漏れしている。
(……っ! やばい、流れてる曲を聞かれたらまずい!!)
ハッと我に返り、私は慌ててヘッドホンを取り返そうと手を伸ばした。
「……かっ……返してっ!!」
けれど、なっちゃんはひょいっと腕を高く上げ、私の手からそれを遠ざけてしまった。
なっちゃんの背の高さに敵うわけがない。
彼が、ヘッドホンから漏れる音に耳を澄ませるのがわかった。
「……へー。これ聴いてたんだ」
そして、ポツリと呟いた。
(バレた……)
ただ曲を気に入っただけなら、そう答えればよかったのに。
『なっちゃんが誰かを想って歌っていた曲を、一人で泣きそうになりながら聴いていた』という自分の図星の感情までバレたような気がしてしまった。
(やばい、やばい……っ!)
顔が一気にカーッと熱くなるのを感じる。
耳の先まで、なんなら手の先まで沸騰したように熱い。
今の自分の顔が、なっちゃんから見て一体どんな無様なことになっているのかわからないけれど。
私の顔を見たなっちゃんの目が、驚いたように大きく見開かれた。
(……これ以上、ここにいられない……!!)
「…………っ!!」
逃走本能が発動し、私はなっちゃんの脇をすり抜けて、部屋のドアから廊下へと猛ダッシュした。
(とにかく、どこか隠れられる場所!!)
廊下に出て、目の前にあった、鍵付きのちょうどいい密室。
私はそこに飛び込み、内側からガチャッ! と乱暴に鍵を閉めて、完全に閉じこもった。
――そこはまさかの、トイレだ。
「!? おい、めぐ!?」
ドアの向こうから、ドアノブをガチャガチャと回す音と、なっちゃんの焦ったような声が聞こえてくる。
私は便座の蓋の上に座り込み、両手で真っ赤になった自分の顔を覆って、ひたすら息を潜めた。
しばらくの間、外から「めぐ」「出てこい」「おい」となっちゃんの声が聞こえていたけれど。
絶対に開けるものかという私の粘り勝ちだった。
やがてなっちゃんは諦めたのか、お兄ちゃんに一言二言何か声をかけて、玄関から外へ出ていくドアの音が聞こえた。
それでもすぐには出ずに、私はその後五分くらいはトイレの中で警戒していた。
すっかり静かになったのを確認し、そーっとドアの鍵を開けて外に出る。
抜き足差し足でリビングを覗き込むと、ソファでお兄ちゃんがスマホをいじっていた。
「……なっちゃん、帰った?」
こっそりと尋ねると、お兄ちゃんはこちらを見て、「うん」と頷いた。
「てか、何あれ。トイレに立て籠もるとか、どういう状況?」
お兄ちゃんは呆れたように、苦笑いをしている。
「べ、別に! 何でもないから!」
私は早口で誤魔化し、再び自分の部屋へと逃げ帰ったのだった。




