第30話
――ピーンポーン。
めぐみの家のインターホンを鳴らすが、誰も出ない。
「…………っ」
全速力で走ってきたせいで、息がひどく上がっている。
ステージで全力を出し切った直後に走るもんじゃない……肺が焼けるように苦しかった。
あの後、体育館から教室へ走り向かったものの、めぐみの姿はおろか、彼女のスクールバッグすらなかった。
慌てて生徒昇降口へ向かい下駄箱を確認しても、見慣れた小さなローファーはすでに消えていた。
それで結局、彼女の家まで走ってきてしまったのだ。
しばらく待っていても、ドアの向こうから反応はない。
もしかして、どこか別のところに寄ってるのか……?
諦めて引き返そうかと踵を返しそうになったところで、ガチャッと重いドアが開いた。
「……あれ、夏樹じゃん。久しぶり」
気怠そうな顔で顔を出したのは、めぐみの兄の光くんだ。
大学生になってからあまり見かけていなかったが、相変わらず緩い空気を纏っている。
「……久しぶり。……めぐは?」
荒い息を整えながら尋ねると、ふと玄関の隅に、さっき学校になかったはずのめぐみのローファーが脱ぎ捨てられているのが見えた。
「さっき帰ってきて部屋にいるけど、反応ないから寝てるかも」
光くんは欠伸を噛み殺しながらそう言うと、そのまま「上がったら?」とだけ残し、奥のリビングへと戻っていってしまった。
ご両親は、どうやらまだ帰ってきていないらしい。
僕は靴を脱ぎ、めぐみの部屋の前に立った。
中から物音はまったく聞こえない。
「……めぐ?」
扉越しに声をかけてみるが、反応がない。
(光くんの言う通り、寝てるのか……? さすがに勝手に開けないほうがいいよな……)
ドアノブに手をかけたまま躊躇する。
だが、ここまで必死に走ってきたのだ。
どうしても、一言だけ文句を言ってやりたい。
いや……本当はただ、彼女の顔が見たかった。
「……開けるよ?」
少しだけ声を張り、思い切ってガチャッ……と、そっとドアを開けた。
明かりがついた部屋の中。
めぐみは……起きていた。
部屋の入り口に背を向ける形で、ベッドの上にうつ伏せに寝そべっている。
制服のままで、鞄はベッドの端に脱ぎ捨てられていた。
(…………っ)
彼女が短めのスカート姿であることに気がつき、僕は慌てて足元に目をやらないよう、細心の注意を払って視線を上に向けた。
めぐみの頭には、大きめのヘッドホンが装着されている。
どうやら何かを大音量で聴いているらしく、僕が部屋に入ってきたことにも、声をかけたことにもまったく気づいていないようだった。
僕はそっとベッドに近づき、彼女の頭からそのヘッドホンをヒョイッと外した。
「っ!!」
急に音が消えたことに驚き、めぐみがバッと背後を振り向いた。
「……ええっ!? なっちゃん!? え!?」
目を限界まで丸くして、信じられないものを見るように僕を見上げる。
「えっ、なんで!? なんでうちに……!」
「お前がさっさと帰るから……」
僕が言いかけたその時、めぐみはハッとして、僕の手にあるヘッドホンへと慌てて手を伸ばしてきた。
「……かっ……返してっ!!」
「…………?」
何をそんなに必死に慌ててるんだ?
不思議に思い、僕はヘッドホンをひょいと持ち上げて彼女の手から遠ざけた。
シャカシャカと、ヘッドホンのイヤーパッドから漏れ聞こえてくる微かな音楽に耳を澄ませる。
(……え)
それは……ついさっき、僕が体育館のステージで歌い上げたばかりの、あのラブソングの原曲だった。
「……へー。これ聴いてたんだ」
僕がヘッドホンを見下ろしながらポツリと言うと。
自分が何を聴いていたのかバレたことに気づいためぐみは――その顔を一瞬にして、耳の先まで真っ赤に染め上げた。
「…………っ!!」
(……え?)
僕が、その異常なまでの動揺と照れ顔の意味にハッと勘づいた、次の瞬間。
めぐみは弾かれたようにベッドから離れ、僕の隣をスルッとすり抜けて猛ダッシュで部屋を飛び出した。
「……!? おいっ!?」
慌てて追いかけて廊下に出ると、彼女はある扉の中に逃げ込み、内側からガチャッ! と激しい音を立てて鍵を閉め、完全に閉じこもってしまった。
――そこはまさかの、トイレだ。
「!? おい、めぐ!?」
ノブをガチャガチャと回すが、当然開かない。
中からは、微かな衣擦れの音すら聞こえてこない。
「……どした?」
騒ぎを聞きつけたのか、リビングから光くんが不思議そうな顔をして出てきた。
僕は扉を指差し、呆然としたまま答えた。
「……めぐが、トイレに立て籠った」
「は?」
光くんは訳がわからないという顔をして、頭を掻きながら再びリビングへと戻っていった。
「……めぐ。出てこい」
外から何度か話しかけ、そのまま扉の前で二十分くらい待っていたが。
結局そのまま、めぐみがトイレから出てくることはなかった。
◇
これ以上お邪魔をしているわけにもいかず、僕は諦めて自分の家へと帰った。
「おかえりー。どう? 初めての高等部の文化祭。楽しかった?」
リビングに入ると、母が上機嫌で話しかけてきた。
「……ん」
僕はまだ完全に上の空のまま、適当に生返事をする。
「めぐちゃんのお母さんに会った? 午前中に行くってメッセージもらったけど」
「…………」
何も言葉が出てこず、無言で突っ立っていると、母は「もー。うちの子たちはほんと話さないんだからー」とため息をつき、それ以上話しかけてこなくなった。
自室にリュックを放り投げ、すぐに風呂場へ直行した。
シャワーから熱いお湯を出し、頭から勢いよく浴びる。
水音の中で、僕は今日起きたことを、ひとつひとつ冷静に整理していった。
まず……ライブが成功してよかった。
それは間違いない。
そして、めぐみは僕のライブを見た後、何のコメントも残さずすぐに帰ってしまった。
でも、家に帰ってベッドに寝転がりながらあの曲を聴いていた。
単に、曲自体を気に入っただけの可能性はある。
有名だし、メロディも歌詞もいい。
ただ、気になるのは……それが僕にバレた時の、めぐみの反応だ。
もし単に曲が好きなだけなら、「これ、いい曲だよね」と笑って言えば済む話だ。
それなのに、あいつは顔を真っ赤にして、僕から逃げるようにトイレに立て籠った。
(あれは……)
シャワーのお湯が、顔を伝って床へと流れ落ちていく。
あれは……僕への好意を含めてあの曲を聴いていたから。
それが、他でもない僕本人にバレてしまったから、限界を超えてパニックになったのではないか……?
……つまり、めぐみも、僕を好きになったのではないか?
その結論に行き着いた瞬間――。
「………………っ!!」
僕は両手で顔を覆い、風呂場の中で思い切り叫び出したくなる衝動に駆られた。
また母に怒鳴られると思い、歓喜の叫びをなんとかぐっと腹の底に我慢する。
けれど、心臓の奥底から込み上げてくる熱と、抑えきれない笑みはどうしようもなかった。
歴史が……動いた。
十年近くに及ぶ僕の長く苦しい片思いが、今、確実な両思いへと進もうとしているんだ。
風呂から上がってベッドに潜り込んでも、異常なまでの心拍数は一向に治る気配がなく、僕はその日、全然寝つくことができなかった。




