第26話
いよいよ文化祭当日の朝。
集合時間ぴったりくらいに自分の教室の引き戸を開けると、中はすでにクラスの連中で溢れかえっていて、僕はむしろ遅いくらいだった。
窓枠に飾られた提灯や、ダンボールで作られた屋台のセット。
一晩でさらに完成した「非日常」の空気が、これから始まる文化祭への高揚感を伴って教室中に充満している。
ふと視線を巡らせると、はっぴとハチマキを身につけためぐみが、屋台のレジカウンターの裏側で金森と一緒にお金を整えているのを見つけた。
(……ん?)
その水色と黒の背中から視線を上に移し、僕は思わず二度見した。
くるんとした焦茶色の髪が、両サイドからすっきりとまとめられている。
僕が以前「一番似合っていると思う」と伝えた――あの大好きなハーフアップだったのだ。
ドクンッ! と。
心臓がいきなりうるさい音を立てた。
(……ハチマキを巻きやすいように、ただ邪魔だったから結んだだけかもしれない。でも、まさか……俺が似合うって言ったから?)
そんな都合のいい自惚れが頭をもたげ、途端に冷静でいられなくなる。
「なあ朝井。あの提灯、傾いてないよな?」
背後から、葉山が声をかけてきた。
「……あー、うん」
めぐみの背中を見つめたまま、上の空で短く返す。
すると葉山は、何かを思い出したように「あ! そういえば……」と含み笑いを見せた。
「なんか、お前が他のクラスの女子と付き合ってるって噂聞いたぞ?」
「……は」
一気に現実に引き戻される。
おそらく、昨日もプレハブで嶋から聞かされた、あの由利さんとの噂のことだろう。
「いや、それガセだから」
深い溜め息をつきながら否定した、その瞬間。
(……あっ、やばい)
血の気が引いた。
めぐみにも、あれは誤解だとまだハッキリ言えていないことに気がついた。
昨日の夕方、空き教室で二人きりで話す絶好のタイミングがあったというのに。
僕は目の前にいるめぐみのことで頭がいっぱいになり、一番肝心な噂の否定をすっかり忘れていたのだ。
(どこかのタイミングで、絶対しっかり言っておこう……)
僕が内心で冷や汗をかいていると、葉山がポンッとと僕の肩に手を乗せた。
「だよな!? お前は『めぐ』一筋だもんな!」
「…………」
普段はめぐみのことを「井原」と呼んでいるくせに、わざと僕の呼び方を真似して面白がってからかってくる。
「いてっ」
僕は悪びれない葉山の脇腹を軽く小突き、開会式が行われる体育館へと向かった。
◇
むせ返るような熱気の開会式が終わり、外部の客が入ってくる前にと、各クラスは一斉に教室へと戻った。
僕は、ダンボールで作ったレジの屋台の裏側に回り込み、一人でしゃがみ込んだ。
この手作りのカウンターは軽すぎて、少しぶつかっただけですぐに倒れそうだった。
足元を安定させるため、隠れるように水の入ったペットボトルをガムテープで固定していく。
「わっ!」
頭上から、不意に声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、めぐみが目を丸くしてこちらを見下ろしていた。
「……何してるの?」
「これ、軽くて倒れそうだから。安定させるために、下に重し乗せようとしてんの」
手を動かしながら答える。
「あ、ほんとだ。ありがと……」
見上げると、目が合った。
ハーフアップに、白いねじりハチマキ。
背中には『祭』の文字を背負った、本来ならカッコいいはずのはっぴ姿。
なのに……どうしようもなく可愛い。
彼女はスッと僕の隣にしゃがみ込んできた。
「…………」
なぜか何も言わずに黙っている。
至近距離で見つめると、いつもはすっぴんの彼女の唇が、今日はほんのりと色づいていることに気がついた。
リップでも塗っているのだろうか。
色素の薄い彼女に、ぴったり似合っている桜色。
――たまらなくなって、僕は無意識のうちにスッと手を伸ばし、彼女の肩にかかっていた髪先を、指先でそっと摘んでしまった。
「……へー」
誤魔化すように、わざと意地悪く短い息を吐く。
「……髪型、これにしたんだ」
「……っ」
言葉を詰まらせたままのめぐみ。
その大きく見開かれた瞳と、みるみるうちに赤く染まっていく頬。
それはいつも僕に向ける「幼馴染への無防備な顔」ではなく、明らかに異性からの接触に対する戸惑いと、恥じらいを含んだ反応に見えた。
(…………っ)
期待以上のその反応に、逆に僕が狼狽えてしまった。
「あれ、めぐは?」
その時、教室の入り口から金森の声がした。
「……あ、あっ! ごめん葵、今行く!」
めぐみは弾かれたように立ち上がり、真っ赤な顔をして慌てて走り去っていった。
「…………」
残された屋台の裏側。
めぐみの反応の一部始終を至近距離で浴びた僕は、完全にキャパオーバーを起こしていた。
しゃがみ込んだまま、膝の上に組んだ腕に深く額を擦り付ける。
「……ふーっ……」
大きく、長く息を吐き出して、異常な速度で暴れ狂う心臓の動悸を必死に抑え込もうとした。
頭の中で、二人の僕が激しく主張し合い、討論を始める。
『見ろ! 俺が触れてもまったく嫌がっていなかった! それどころか照れて恥じらっていたぞ! どう考えても、めぐも俺を意識し始めている! 史上最大のチャンスだ、このまま一気に行け!』
アクセルをベタ踏みしようとする楽観的な僕に対し、もう一人の僕が慌ててブレーキをかける。
『いや待て、落ち着け! 長年の片思いの歴史を思い出せ! ここで油断は禁物だ。あんな顔しておいて、後になってから「? あの時は開会式の後で暑くて顔が赤かっただけだよ?」とか、平気で言うのがあいつなんだぞ!?』
そんな不毛な脳内会議をぐるぐると繰り返していると、背後から足音が近づいてきた。
シフト一番のレジ役を担当する男子だった。
屋台の裏で、頭を抱えて丸くうずくまっている僕の姿を見つけ、彼はギョッとした。
「うわっ! お前、何やってんだよ! 腹でも痛いの!?」
「……いや。なんでもない」
僕はゆっくりと顔を上げ、平静を装いながら立ち上がった。
まだ顔が熱い。
次にめぐみを前にした時、果たして自分の心臓は持ちこたえられるのだろうか。




