第22話
部活が終わり、下駄箱に向かっていた僕は、ハッと立ち止まった。
明日提出しなければならない化学のプリントを、机の中に忘れてきたことに気がついたのだ。
「わり、ちょっと教室戻るわ。先帰ってて」
「おー、じゃあなー」
一緒にいた葉山たちと別れ、来た道を戻る。
放課後の喧騒が遠のき、しんと静まった夕暮れの廊下。
自分のクラスの前に着き、ガラッと引き戸を開けた。
「うわっ!」
教室の中から、上ずった声が響く。
その声の主は――肩を跳ねさせて驚く織田だった。
「……朝井か! お疲れ!」
僕の顔を見るなり激しく焦りだし、机の上に広げていた何枚もの写真を、おぼつかない手つきで紙袋に詰め込み始める。
「お疲れ。もしかして、クラスの写真?」
プリントを取り出しながら尋ねると、ぎこちなく頷いた。
写真部である織田は、文化祭の準備と並行して、クラスメイトの様子を撮ってくれている。
「あとで振り返れるから嬉しいね」とみんな楽しみにしていた。
「あっ、そうそう、今撮ってる分は先に現像して……まだ仕分けてないんだけど……」
誰も急かしていないのに、なぜかひどく焦りながら言い訳を並べていたとき――手元が狂ったのか、紙袋から何十枚もの写真が滑り落ちていった。
バサバサッと乾いた音を立て、床にぶちまけられた。
「あ……」
固まる織田の元に歩み寄り、僕はしゃがみ込んで拾い始めた。
一枚、また一枚と、散らばった写真を重ねていく。
そのうち、あることに気がついた。
めぐみの写真が――やけに多い。
ヨーヨーすくいの紙紐を通している真剣な横顔、カメラに向かって無邪気にピースサインをしている姿、友達と笑い合っている何気ない瞬間。
たしかに、あいつはああいう性格だから、カメラを向けられれば嬉しがって写りたがることは多い。
けれど、風景や他のクラスメイトの枚数に比べて、明らかに偏りがあった。
顔を上げ、織田を見る。
彼は、完全にバツが悪そうな表情をしていて、目を逸らした。
(……これは)
僕の中で、点と点がカチリと音を立てて繋がった。
ファインダー越しにめぐみを追いかけていたであろう視線。
めぐみに対する織田の想いを――決定的に確信してしまった瞬間だった。
お互い無言のまま写真を拾い集める。
「……はい」
最後の一枚を手渡し、僕は立ち上がった。
これ以上、この空気に長居したくなくて、足早に教室を出て行こうとした、その時。
「……あのさ」
背中越しに、呼び止められた。
ゆっくりと、振り返る。
「……何?」
夕暮れの斜陽が差し込む教室。
織田は少しだけ躊躇ったあと、意を決したように僕の目をまっすぐに見て言った。
「……俺も、『めぐ』って呼んでいいかな」
(…………!)
確定的な言葉を重ねられ、心臓がドクンと重く鳴った。
黙ったまま、じっと睨みつける。
ほんの数秒が、永遠のように長く感じられた。
冷たい空気が二人の間を流れる。
沈黙の後、僕は極めて低い声を絞り出した。
「……ダメ」
「……っ」
織田の細長い目が、微かに見開かれた。
「って言ったら、どうすんの?」
逆に問いかける。
「…………」
織田は何も言い返さず、黙り込んでしまった。
「……めぐに聞けよ。じゃあな」
それだけ言い捨てて踵を返し、その場を去った。
◇
夕闇が迫る帰り道。
生ぬるい風を浴びながら、行き場のない苛立ちを抱えて歩いていた。
(あー、やっぱあいつも好きなんか……くそ……)
足元の小石を軽く蹴り飛ばす。
めぐみは以前『織くんは同性の友達って感じ』とあっけらかんと言っていた。
でも、状況が絶対に変わらないとは言い切れない。
現に、あの写真はどれも、めぐみが織田に気を許している証拠みたいなものだった。
教室でめぐみが織田と楽しそうに笑い合っていた姿が、脳裏によぎる。
(……くそが)
焦燥感と嫉妬が入り交じった黒い感情で、心の中で毒づいた。
◇
マンションに着き、エレベーターではなく階段で自分の階まで上がる。
そして、ドアの前まで来た。
「……ん?」
リュックのいつものポケットに手を入れるが、鍵の感触が見つからない。
(どこ入れたっけ……)
舌打ちをしながら、ナイロンの生地をガサゴソと漁っていると。
「なっちゃん」
不意に頭上から声が降ってきた。
驚いて振り向くと――上の階へと繋がる階段の真ん中に、めぐみがいた。
ちょこんと体育座りをして、こちらを見下ろしていた。
「……え、どうしたの」
彼女は既に制服から着替えており、ミントグリーンのTシャツにジーパンというラフな格好をしていた。
薄暗いマンションの共有灯に照らされたその顔は、心なしか元気がないように見えた。
めぐみは立ち上がってトントンと降りてくる。
そして、僕の目の前まで来た。
「あのさあ……」
先ほど見えた表情は気のせいだったのか、いつも通りの明るいトーンで切り出してきた。
「なっちゃん、彼女できたの?」
「…………はっ!?」
あまりにも予想外の言葉をぶつけられ、素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
「だからー、彼女できたの? って」
大きな瞳で僕を見上げたまま、同じ質問を繰り返す。
(……何の話?)
一体どこからそんな突拍子もない話が湧いて出たのか、思考が全然追いつかない。
「……できてないけど」
混乱しながらも、事実を短く答える。
めぐみはあっさりと「そうなんだー」と頷いた。
そして、さらに爆弾を投下してきた。
「じゃあ、好きな人とかいるの?」
「…………!?」
息が、止まるかと思った。
どうしよう。
なんて答えたらいいんだ、これ。
脳内コンピューターが、かつてないほどフル回転し始める。
「いる」と答えたら?
彼女は、僕が別の誰かを好きだと勝手に勘違いし、応援モードに入ってしまうかもしれない。
じゃあ「いない」と答えたら?
「めぐみも含め、誰も好きじゃない」という宣言になってしまい、彼女が僕の気持ちに気づくための最大の障壁を自ら作ってしまうかもしれない。
突然、究極の二択を突きつけられている。
この選択を誤れば、これまでの地道な前進がすべて水泡に帰し、一気にゲームオーバーになるような気がして、リュックを握る手にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
さっき知ってしまった織田の気持ちが蘇る。
(このまま曖昧にしてたら……本当に、持っていかれるかもしれない)
得体の知れない焦りが、背中をぞわりと駆け上がる。
僕は、目の前にいるめぐみをじっと見つめた。
一体どういう気持ちで、こんなことを聞いてきているんだろう。
表情からは、その意図や奥底にある気持ちを探りきれなかった。
脳が答えを出す前に、口が勝手に動いていた。
「……いるよ」
空気が、ピタリと止まった。
めぐみは、その瞳を一切揺らさずに言った。
「……へえ! そうなんだ」
いつも通りのにこやかな表情と声。
「ただ、急に聞いてみたくなったの。それだけ! じゃあねっ」
それだけ言うと、くるりと背を向け、小走りで階段を駆け上っていってしまった。
「…………!?!?」
完全に混乱の渦に置き去りにされた僕の頭上で、ギー、ガチャン! と、めぐみが扉を開けて家に入る音が響いた。
(一体……なんだったんだ、今の)
無神経に「えーっ! だれだれ!?」とか言って、目を輝かせて食いついてくるかもしれない、と身構えていた。
いや、もしそう聞かれたら、それは百パーセント自分ではないと思っている証拠……つまり脈なしということだから、聞かれなくて本当によかったのだが。
でも……何も聞かれなかったら聞かれなかったで、めちゃくちゃ怖い。
僕の回答は、これで合っていたのか……?
「いない」と誤魔化して逃げることもできたはずなのに。
まっすぐな視線に、嘘がつけなかった。
激しい不安と動揺で心臓をバクバクさせながら、再びリュックを激しく漁った。
普段と違うポケットに紛れ込んでいた冷たい金属の鍵をようやく見つけ出し、逃げ込むように家へと入ったのだった。




