第20話
文化祭のすぐ後には期末テストが控えている。
少しでも勉強しておこうと机に向かったものの、どうにも身に入らなかった。
開いたままのノートとシャープペンシルを放り出し、僕はそっとスマホを手に取った。
頬杖をつきながら、さっき通学路で撮ったばかりのめぐみの写真を画面に映し出す。
夕焼けの強いオレンジ色を背にして、彼女は少しだけ照れたような、はにかんだような笑みを浮かべていた。
スワイプして、カメラロールを少し遡る。
今度は、中学の卒業式の日、誰もいない教室で撮った二人のツーショット写真を開いた。
僕が無愛想な真顔で写っている横で、めぐみは一切の屈託なく、まるで小学生の子供のように無邪気な満面の笑顔を向けている。
二つの写真を見比べ、「はあ……」と息を吐き出した。
普通の人から見たら、「これで?」って思われるレベルかもしれないけれど。
僕の長く、ひたすらに一方通行だった片思いの歴史の中で言えば、これは間違いなく、今が最も「いい感じ」の時期なのではないか……?
だって、めぐみはいつだって、僕に対しては「ただの幼馴染」に対する無防備さや無邪気さしか持ち合わせていなかった。
最近のように、僕の言葉に少し照れたり、はにかんだりして見せるなんていうことは、僕からすれば一気に百歩くらい前進したような、とんでもない進歩に感じられた。
ただ、ここで難しいのが今後の立ち回りだ。
このまま自然に接していれば、もっと前進していけるのだろうか。
それとも、今が最高値のチャンスで、ここで踏み込まないと、後になって『あの時、このタイミングを逃さなきゃよかった』と激しく後悔することになるのか。
その見極めが、恋愛経験値ゼロの僕には絶望的に難しかった。
(……いや、待てよ)
ベッドに仰向けに寝転がり、天井の壁紙を睨みつけながら思考を巡らせる。
焦るのは禁物だ。
まずは、来週に迫った文化祭のステージ。
それをきっちり成功させて、めぐみからの好感度を確実に上げることに最善を尽くそう。
考え抜いた結果、僕はその極めてまっとうな結論に至った。
そうと決まれば、少しでも歌の完成度を上げなければ。
僕は制服を脱ぎ捨てて風呂場へと向かった。
湿気のこもった浴室で、熱いシャワーを頭から浴びながら、タイルの壁に向かって発声練習をしていた、その時。
「うるさい! 近所迷惑でしょうが!」
脱衣所のドアの向こうから、母のお叱りの声が飛んできた。
◇
週が明け、いよいよ今週末が文化祭だ。
朝からすでにじっとりとした湿気を帯びた空気が、肌に纏わりついてくる。
家にいる時も通学中も、僕は両耳にイヤホンを突っ込み、文化祭で演奏する曲をひたすらリピートして流し続けていた。
(ここはこう息継ぎをするのか)
(このフレーズはもう少しこう歌ってみよう)
ボーカルの声を集中して聴き込み、頭の中でシミュレーションを重ねていく。
登校し、下駄箱が並ぶ生徒昇降口へと足を踏み入れた。
ゴム底の靴が擦れる音と、少し埃っぽいような古い木材の匂いが漂う中、ふと視線の先に違和感を覚えた。
他クラスの下駄箱の隅のあたりで、小さな背中がうずくまっている。
(……あれは)
見覚えのある長く真っ直ぐな黒髪。
僕はイヤホンを片方だけ外し、足音を忍ばせて近づいて、その細い肩を小さくトントンと叩いた。
「……由利さん?」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、僕に気づいた。
振り向いた由利さんの顔を見て、僕は思わず眉をひそめる。
色白の彼女の顔は、血の気が引いて真っ青になっていたのだ。
「……どうした? 大丈夫?」
屈み込んで尋ねると、由利さんは力なく首を横に振った。
「……朝、電車混んでて酔っちゃって。あと、少し貧血で……」
消え入るような声でそう言うと、彼女は額を押さえた。
「あー……」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の辛さが痛いほど理解できた。
乗り物酔いのあの逃げ場のない吐き気と、頭から血の気が引いていく冷たい感覚。
もし僕が自転車や徒歩ではなく、満員の電車通学だったなら、同じ目に遭っていたかもしれない。
自分自身の体質が重なり、強烈な同情が湧き上がる。
僕は由利さんの足元に落ちていた重そうなスクールバッグをひょいと拾い上げた。
「立てる?」
彼女の目の前に、スッと手を差し出す。
由利さんは少し躊躇うように目を伏せた後、震える冷たい指先で、僕の手をそっと握った。
ゆっくりと立ち上がらせ、フラつく彼女の歩幅に合わせて、保健室へと続く静かな廊下を歩き出す。
すれ違う何人かの生徒たち――中には顔見知りもいた――が、僕と由利さんの姿を見てチラチラと好奇の視線を向けてきたけれど、そんなものを気にしている余裕はなかった。
保健室の引き戸を開けると、消毒液のツンとした清潔な匂いと、冷房の効いたひんやりとした空気が体を包み込んだ。
奥から出てきた養護教諭の先生に事情を説明し、彼女を受け渡す。
「あらあら、顔色が悪いわね。この暑さのせいもあるかもしれないから、とりあえずこれ飲んで」
先生が紙コップに注いでくれた冷たい水を、由利さんは両手で受け取り、一口、二口とゆっくり飲み込んだ。
しばらくすると、こわばっていた彼女の肩の力が抜け、少しだけ呼吸が落ち着いたように見えた。
「ちょっと奥のベッドで休んでいきなさい。あなたも、連れてきてくれてありがとね」
先生の言葉に、「いえ」と短く頷いて返す。
ベッドに向かおうとする由利さんの背中に、僕は声をかけた。
「じゃあ、お大事に。今日の昼休みの練習は無理すんなよ」
そう言って背を向け、保健室を出ようとした、その時だった。
「あの……っ」
背後から、衣擦れの音とともに声が飛んできた。
振り返ると、由利さんが僕の方を真っ直ぐに見つめていた。
青白い顔のままだけれど、その黒い瞳には、はっきりとした光が宿っている。
「……ありがとう」
小さな、けれど芯のある力強い声だった。
「……おう」
僕は少しだけ驚きながらも、短く手を上げて応え、静かに保健室の扉を閉めた。
扉の向こうの冷気を背に受けながら、教室に向かった。




