第18話
初めてのバンド練習を終えて帰宅し、晩ごはんを食べ終えた僕は、自分の部屋のベッドに寝転んで適当にスマホをいじっていた。
――ピーンポーン。
静かな家の中にインターホンが鳴る。
それに応える母の声が弾み、廊下をパタパタと駆けていく足音が聞こえた。
(……めぐだな)
母の足取りの軽さとテンションの高さで、容易に察しがつく。
僕はばっと跳ね起き、部屋の中を素早く見渡した。
よし、今日は散らかっていない。問題なさそうだ。
サッと机の前の椅子に座り、適当なノートを開いてシャープペンシルを握る。
これで、なんともない顔をして『勉強中だった感』を装う準備は完璧だ。
玄関の扉が開いた音がして、賑やかな声が響いてきた。
「これ、お母さんに渡すように頼まれてたやつ〜!」
「助かる〜! めぐちゃんありがとう! さあさあ、上がって!」
二人のやりとりが、廊下を通ってどんどん大きくなり、僕の部屋に近づいてくる。
トントン、とノックされた直後、ガチャリとドアが開けられた。
「なっちゃん」
ドアの隙間からひょっこりと顔をのぞかせた後、めぐみが部屋に入ってきた。
「……なに?」
僕はあくまでノートに向かったまま、そっけなく答える。
めぐみは僕の机に近づいてくると、少し興奮したような声を出した。
「ねー、今日びっくりした! まさかなっちゃんが歌うなんて!」
放課後、プレハブの防音室で見つかった時の話だ。
「何歌うの?」
興味津々で聞いてくる彼女に対し、僕はノートから一度だけ目を離してめぐみを見上げた。
「……秘密」
短くそう告げて、再びノートに視線を戻す。
「えー! 気になる〜」
めぐみが不満そうに唇を尖らせる。
「……本番になればわかるじゃん」
『観に来てほしい』とストレートに言うのが恥ずかしくて、僕はわざと遠回しな言い方で誘ってみた。
すると、めぐみはパッと花が咲いたような笑顔になった。
「うんっ! めっちゃ楽しみにしてるね!」
無邪気なその声に、ノートを見つめる僕の口元が自然と緩んでしまう。
その時、めぐみが机の上の小物をいじろうと手を動かした拍子に、端に置いてあったプリントがハラリと床に落ちた。
「あっ、ごめん!」
めぐみがしゃがみ込んでプリントを拾う。
上から見下ろす形になり、彼女の頭の、小さなくるんとしたつむじが見えた。
(……可愛い)
無意識にそんな感想が頭に浮かび、慌てて咳払いをして思考を誤魔化す。
プリントを拾い上げためぐみは、それを机に戻しながら「ふう」と小さくため息をついた。
「文化祭、めっちゃ楽しみ! だけど、終わったらすぐ期末テストだから、今のうちに勉強進めとかなきゃだよねえー」
ぶつぶつと言いながら、彼女は僕の部屋の中をウロウロと歩き回る。
「……そういえば」
ふと立ち止まり、めぐみがこちらを見た。
「今日プレハブにいたピアノの人、先輩?」
由利さんのことだ。
「いや、一年だよ。高校からの外部入学だって」
僕はシャープペンシルを回しながら答えた。
「コンクールとかもたくさん出てるらしくて、ピアノめちゃくちゃ上手かった」
「へえ!」
めぐみは感心したように声を上げた後、自分の肩にかかる、くるんとした毛先を指で掴んでじっと眺めた。
「……髪、めちゃくちゃサラサラな子だったよね」
ぽつりと、ひどく羨ましそうに呟く。
「……羨ましいの?」
僕が尋ねると、めぐみは「うん」と大きく頷いた。
「コンプレックスだもん。ストパーかけてみたいけど、生え際はクルクルのまま生えてくるわけだから、そんなのとんでもない髪型になっちゃうし……」
自分の髪をいじりながら、ぶつぶつと不満を並べている。
僕は、少しだけ呆れたようにため息をついた。
「……そのままでいーじゃん」
「えー?」
めぐみが、心底不服そうな、納得のいかない声を出す。
(……全然伝わってねーな)
僕は回していたシャープペンシルを机に置き、くるりと椅子を回転させてめぐみの方へ身体ごと向き直った。
「……だから」
彼女の大きな瞳を、真っ直ぐに捉える。
「……めぐは、それがいーんじゃん」
少しだけトーンを落として、ハッキリとそう言った。
すると、めぐみは少しだけ目を見開き、ふいに瞬きを止めた。
いつもは無防備な彼女の頬が、ほんのりと赤く染まり、明らかに照れているような表情を見せる。
(え……珍しい)
いつもなら流されるか勘違いされるところだが、今回は僕の言葉が、意図した通りにまっすぐ伝わった気がした。
胸の奥に、じわじわと嬉しい感情が込み上げてくる。
よし、この調子で少しずつ――と、僕が内心で手応えを感じていた、その瞬間だった。
ハッと気がついた。
めぐみが今、どこにいるのかということに。
ウロウロと部屋を歩き回っていた彼女は、いつの間にか、僕のベッドの縁にちょこんと腰掛けていたのだ。
「……っておい! そんなとこ座んなよ!」
僕は動揺のあまり、変に大きな声を出してしまった。
めぐみはきょとんとした顔で瞬きをした後、「えっ? あっ、ごめん」と慌ててベッドから立ち上がった。
女子が男子の部屋に一人で入ってきて、よりによってベッドに座るなんて……ありえないだろ!
こいつには危機管理能力というものがないのか!?
心の中で盛大にツッコミを入れながら、ドッと疲労感が押し寄せる。
だが、そこまで考えて、僕の思考は最悪の方向へと急旋回した。
(……いや、待てよ)
もしかして、僕が彼女にとって『危機管理をする必要が一切ない相手』だからなのか?
つまり、僕のことを一ミリも異性として見ていないから、平気でベッドになんて座れるということじゃ……。
「…………」
そこまで想像したところで、ギュッと目を瞑り、その思考を頭から全力で振り払った。
いや、やめとけ。ネガティブになっても虚しいだけだ。
さっきの照れたような可愛い顔だけを記憶に留めておくんだと、自分に強く言い聞かせながら、僕は嫌なものを振り払うように再びノートへと向き直ったのだった。




