第13話
ゴールデンウィーク真っ只中。
連休に入ってからというもの、僕は半日を部活で汗を流し、もう半日は友達と遊ぶといった過ごし方をしていた。
今日は朝からやけに気温が高く、湿気がこもったサウナのような体育館で、それこそ滝のような汗をかいた。
さすがに気持ち悪くて、帰宅してすぐにシャワーを浴びた。
タオルで適当に拭っただけの濡れた髪のまま、昼飯の素麺を五分ほどで胃に流し込む。
連休が明ければ、まもなく高校に入って初めての中間テストが迫っている。
そろそろ軽く勉強でもしておくか、と自室の机に向かった矢先のことだった。
――ピンポーン。
間の抜けたインターホンの音が、静かな家の中に響いた。
母は息抜きにショッピングへ行き、小学生の弟は習い事に出かけている。
今日休みで家にいるのは、リビングでゴロゴロしていた父さんだけだ。
父さんが「はい」とインターホンに出た直後、「おおっ!」という弾んだ声に変わった。
(……まさか)
ある予感がして耳を澄ます。
玄関のドアが開く音とともに、「久しぶりだなあ!」と喜ぶ父さんの声に重なって。
「なっちゃんパパ、お久しぶりですー!」
明るく聞き慣れた声が、鼓膜を揺らした。
――めぐみだ。
「…………っ!」
僕はガタッ! と大きな音を立てて椅子から跳ね起きた。
慌てて部屋を見渡す。
まず、床に脱ぎ捨ててあったジャージやスウェットを引き戸のクローゼットの中に手当たり次第にぶち込んだ。
そして、捨てるのをサボって机の上に散乱していたゴミを両手でひとまとめにくるんで、ゴミ箱へと一気にシュートした。
なんとか最低限の清潔感だけは担保できた……と息をついた瞬間。
「おーい夏樹! めぐちゃん来たぞ〜」
ノックもせずにガチャッと、嬉しそうな父さんが僕の部屋の扉を開け放った。
父さんの背中の後ろから、ひょこっとめぐみが顔をのぞかせる。
「なっちゃん!」
その姿を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
初夏らしい爽やかな半袖のポロシャツに、ふわりとしたロングスカート。
そして何より、普段はおろしているかポニーテールにしていることの多いその髪が……今日は、綺麗なハーフアップにまとめられていた。
(……やめてくれ。俺は一番、めぐのその髪型に弱いんだ……!)
動悸が激しくなりそうなのを必死に抑え込み、僕はあくまで平静を装って言い放つ。
「……どうしたの」
「あのね、お父さんが職場でたくさんゼリーもらったんだけど、うちじゃ食べきれないから、なっちゃんちもどうかなって思って……」
そこまで言って、めぐみは顔の前でパンッと両手を合わせた。
「あと……なっちゃん! 数学教えて!」
すがるように、大きな瞳で僕を見つめている。
数分後。
僕はリビングのテーブルで、めぐみと横に並んで座っていた。
休みの日に会えるのは、純粋に嬉しい。
しかも、僕の大好きな髪型。
……嬉しいのだけど、至近距離から漂う甘い香りといい、これはひどく心臓に悪い。
そしてもうひとつ解せないのが、テーブルの向かい側だ。
なぜか父さんが、ニコニコしながら一緒に座っている。
「……なに、父さん」
僕がジト目で見ると、父さんは手元に仕事の専門書らしきものを広げながら言った。
「いやあ、俺も助けられるかもしれないだろ!?」
本を読むフリをしているが、チラチラとこちらを見て、明らかに自分の出番(活躍の機会)を待っている。
我が家において、めぐみの好感度は両親ともに異常に高いのだ。
呆れながらも、気を取り直してめぐみのノートに目をやる。
僕は何の教科から手をつけるか決めていなかったが、めぐみに合わせて数学をやることにした。
試験範囲のページをパラパラと見ていけば、大体なんとなく解き方を思い出してサラサラと進められた。
しかし、隣のめぐみはシャーペンを握ったまま「うーん……」と小さく唸り、完全に手が止まっている。
「……どこ?」
短く声をかけると、めぐみはこちらへ教科書をすり寄せてきた。
「……ここ。なんでこの公式になるのか、わかんなくて……」
彼女の細くて白い指先が、複雑な数式を指差している。
その箇所に視線を落とそうと顔を近づけると、自然と彼女の華奢な肩と僕の肩の距離が縮まった。
ふわりと、また良い香りがする。
(集中しろ、俺……)
あらゆる邪念を頭から必死に振り払い、僕は数字の羅列だけを睨みつけた。
「……たとえば、これはこう分解できて……」
適当な図を書きながら噛み砕いて説明してやると、めぐみは「あ! そういうことかあ!」と、思った以上にスムーズに理解していった。
キリのいいところまで進んだところで、めぐみが持ってきてくれたお土産のゼリーを三人で食べることにした。
「なんか、二人とも順調に進んでて、父さんの出番なかったな〜」
結局ずっと本を読むフリしかできなかった父さんが、ひどく残念そうに肩を落とす。
「ふふっ。なっちゃんの教え方がうますぎて! 学校でも、なっちゃんに授業してもらいたい〜」
めぐみは鮮やかな紫色の葡萄ゼリーを美味しそうに頬張りながら、屈託なく笑った。
「高校に入ったら、数学だけちょっと躓いちゃって。最初で躓くと後で大変そうだから、今のうちに解消しておきたいなあって思ってたの。そしたら、こんな近くに頼れる先生がいるなんて!」
手放しで褒められ、僕はなんとか無表情の仮面を保ちながらも、内心ではガッツポーズをしていた。
「めぐちゃん、ご両親は今日も仕事?」
ゼリーを食べながら、父さんがめぐみに尋ねた。
「はい。ゴールデンウィークも関係なく病院開けてるので」
めぐみの両親は二人とも獣医師で、このマンションからすぐ近くの場所で動物病院を営んでいる。
病院の休診日は基本的に週に一回だけ。
けれど、入院している動物たちもいるため、結局その休診日にも様子を見に行かなければならず、ご両親にはほとんど休みがない。
そのため、家でめぐみは兄の光くんと二人で過ごすことが多いようだ。
だが、今年から大学生になった光くんは、自由気ままなキャンパスライフを満喫しているらしく、家に帰ってこない日も多い。
結果として、めぐみが広い家の中で一人で過ごす時間が増えていそうだった。
「寂しい時は、いつでもうちに来ていいからな!」
父さんが自分の胸をドンドンと叩いて請け負うと、めぐみは「へへ、ありがとうございます!」と嬉しそうにお礼を言った。
ただ、めぐみは実際、そんなに頻繁に我が家に来るわけではない。
「晩ごはんも食べていけばいいのに」と母が誘っても、いつも遠慮して一人の家に帰り、適当に済ませているらしい。
母がどうしても、と「これ持っていって!」とタッパーにおかずを詰めて持たせた時だけ、ありがたく受け取っているくらいだ。
(あんなに人懐っこいのに、そういうところ、変に遠慮するんだよな……)
隣で笑うめぐみの横顔を見つめながら、僕は少しだけ胸の奥がチクリとするのを感じていた。
「よし、父さんが冷たい麦茶を淹れてこよう」
立ち上がった父さんが、キッチンへと向かっていく。
リビングのテーブルには、僕とめぐみの二人だけが残された。
ふと視線を感じて顔を向けると、めぐみがじーっと僕の横顔を見つめていた。
「……何」
「いや、なっちゃん今日なんか髪型違うなあと思って」
「ああ……さっき部活から帰って、シャワー浴びたからかな」
まだ完全に乾ききっていない前髪を誤魔化すように触る。
すると、めぐみが平然としながら言った。
「いつもよりおでこ出てて、カッコいいね」
「!?」
突然の攻撃的な言葉に、僕は激しく動揺した。
(……かっ……)
「……カッ……」
(かっ……『カッコいい』……!?)
「…………っ!?」
……もし、めぐみが一般的な価値観を持つ普通の女子高生だったなら、僕は今の言葉を最大限ポジティブに受け止めていただろう。
しかし、こいつは『あの』めぐみなんだ。
この言葉に、恋愛的な深い意味など微塵もないことは、過去の経験から痛いほどわかっている。
(落ち着こう……深呼吸だ)
肺に空気を送り込み、なんとか高鳴る心臓を落ち着かせる。
そして、極めて冷静な、低い声を作って尋ねた。
「お前……他のやつに、そういうこと軽々しく言ってないよな?」
「そういうことって?」
キョトンとするめぐみ。
「……その、『カッコいい』とか……」
口に出すのが恥ずかしくて、声が尻すぼみになる。
めぐみは「んー」と宙を見上げて考え込んだ。
(まさか……言ってるのか!?)
つい先日、『これからはめぐみに不機嫌になるのはやめよう、優しくしよう』と決意したばかりだというのに、早くも自分との約束を破り、理不尽な怒りを爆発させてしまいそうになる。
少し考えた後、めぐみは「言ってないかな?」と答えた。
「そもそも、なっちゃん以外の男の子と、そんなにたくさん話さないし」
その答えに、不覚にも少し嬉しくなってしまう。
だが、その直後。
先日の教室での出来事が脳裏をよぎった。
織田とめぐみが楽しそうに話し、『めぐちゃん』とかいうふざけた呼び方を了承したり、『演奏会に来て』とか誘ったりしていたあの光景。
わざとデカい咳払いをして威嚇したのに、めぐみは僕の喉を心配してのど飴を差し出してきた、あの腹立たしい一件だ。
「……織田とは仲良くね?」
めぐみの方を見ず、前を向いたまま吐き捨てるように言った。
「織くん? んー……」
めぐみは少し考えてから、あっけらかんと言った。
「織くんは今席が近くてよく話すけど、なんだろう……同性の友達って感じだね」
「…………!」
その『同性の友達』という完璧なキラーワードに、僕は心の底から安堵した。
(じゃあ……俺は?)
一番気になっていることを聞くなら、この流れしかない。
心臓の音が急速にスピードを上げていく。
勇気を振り絞って口を開いた。
「じゃあ……お」
「お待たせ〜!」
僕の渾身の問いかけは、ひどく間の抜けた明るい声によって、見事に上書きされた。
(くそっ、そうだった! 父さんがいるんだった……!)
キッチンから戻ってきた父が、お盆に乗せたグラスをコトコトとテーブルに置く。
わざわざ食器棚の奥から引っ張り出してきたであろう、普段は全く使っていない、来客用の花柄のガラスのコップ。
その中で、カランと涼しげに氷が鳴っている。
(めぐがいるからって、無駄に丁寧にやりやがって……)
僕は恨めしい目で、ニコニコと上機嫌な父の顔をただ睨みつけることしかできなかった。




