第12話
合宿から帰ってきてから、私たちのクラスには目に見えて打ち解けた空気が漂うようになった。
新しい生活の慌ただしさにも少しずつ慣れ、クラスメイトの顔と名前もすっかり一致している。
キーンコーン、カーンコーン。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴り終わっても、教卓には先生の姿がなく、教室はざわざわとした喧騒に包まれていた。
(空き時間の今のうちに……!)
私は自分の席に座ったまま、机の上に広げた楽譜にシャープペンシルで細々とメモを書き込んでいた。
私は吹奏楽部で、アルトサックスを担当している。
夏のコンクールには、よほど飛び抜けて上手い生徒でない限り、一年生は出場できない。
その代わり、コンクールに出ないメンバーだけで作り上げる演奏会が同じ時期に予定されていた。
私は、一人で黙々と練習するよりも、みんなの音が重なり合う合奏の瞬間がたまらなく好き。
だから、放課後の合わせの時間を毎日心待ちにしている。
「井原さん、何してんの?」
ふいに後ろの席から、柔らかい声が降ってきた。
振り返ると、私の机を覗き込むようにして、織くんが少し首を傾げていた。
「楽譜に書き込みだよ!」と答えると、彼は「そっか、吹奏楽部だもんね」と言って微笑む。
織くんこと織田くんは、高校からの外部入学生だ。
最初は少し人見知りをして緊張している様子だったけれど、合宿あたりからよく喋るようになった。
全体的にふんわりとした空気を纏っていて、いつも少し眠たそうな目をしている、なんだか日向ぼっこをしている猫みたいな男の子だ。
「楽器は?」
「アルトサックスだよ!」
そう答えると、織くんの少し眠たげな目がパッと見開かれた。
「あー! 一番カッコいいよね」
その言葉に、私は思わず前のめりになった。
「えーっ! わかるの!? カッコいいよねえ!」
音楽をやっていない人にアルトサックスと言っても、ピンとこないことが多い。
だから、すんなりとその魅力をわかってもらえたことが嬉しくて、テンションが上がってしまった。
「演奏会とかあるの?」
「夏にあるよ! よかったら聴きに来て!」
そのテンションのまま彼を誘ってみた。
「行く行く。井原さんと金森さんの勇姿、撮りに行くわあ」
写真部の織くんはそう言いながら、自分の後ろの席に座る葵にも視線を向けて笑いかけた。
話を振られたことに気づいた葵も、小さく微笑み返す。
「ていうか、クラスメイトなんだし『さん』付けいらないよ! 呼び捨てでいいからね」
私がそう提案すると、織くんは少し困ったように眉を下げる。
「呼び捨てかあ……。なんか、女の子を呼び捨てってしづらい」
そう呟いた後、彼はふと思いついたように顔を上げた。
「じゃあ、『めぐちゃん』でいい?」
「……えっ!?」
(め、めぐちゃん!?)
予想外の提案に、私は思わず変な声を出してしまった。
家族や女友達、そして幼馴染のなっちゃんには『めぐ』と呼ばれているけれど、同年代の男の子から下の名前で、しかも『ちゃん』付けで呼ばれたことなんて、今まで一度もない。
私を『めぐちゃん』と呼ぶのは、なっちゃんの両親くらいだった。
「あっ、まずかった……?」
彼が不安げに首をすくめる。
「いや、全然! 織くんが呼びやすい呼び方でいいよ!」
私が慌てて了承すると、彼は「よかった」と安心したようにふわりと笑った。
私は友達からよく『コミュ力おばけ』なんて言われるくらい人懐っこい性格だけれど、誰の懐にもするりと自然に入り込む織くんは、私よりずっと上をいくコミュ力の持ち主かもしれない。
妙に感心してしまった。
「……ンン!! ゴホッ……ゴホンッ!」
その時、私の前の席から、鼓膜をつんざくような大きな咳払いが聞こえてきた。
なっちゃんだ。
真新しいネイビーのブレザーに包まれた広い背中が、微かに揺れている。
(……風邪でも引いちゃったのかな)
合宿の時に持っていったレモン飴が、たしかまだ残っていたはずだと思い出す。
私は急いで自分のスクールバッグを引き寄せ、中をゴソゴソと漁り始めた。
その時、ガラッと教室の前側のドアが開き、授業担当とは別の先生が足早に入ってきた。
「えー、今日は先生が家庭の用事で急遽こられなくなってしまったので、この時間は自習とします!」
それだけ言い残すと、先生は嵐のように去っていった。
教室に「よっしゃー!」という歓声が響き渡る。
バッグの底から見覚えのある黄色い個包装を見つけ出した私は、なっちゃんの広い背中をトントンと指先で叩いた。
「なっちゃん、これ!」
振り返ったなっちゃんの大きな手のひらに、レモン味ののど飴をぽいっと乗せる。
彼は、自分の手のひらに置かれた飴玉をじっと見て、数秒間固まっていた。
やがて何かを察したのか、深く息を吐き出して目を伏せた。
「……あー。ありがと」
どこか呆れたような、疲れたような声でそう言うと、のど飴をブレザーのポケットにしまった。
「…………」
合宿帰りの夜にチョコレートをくれた時はなんだか優しかったのに、またいつものぶっきらぼうななっちゃんに戻ってしまっている。
ちょっと寂しい。
私は気を取り直し、自分の椅子をズルズルと引きずって、斜め後ろにいる葵の机の隣へと移動した。
「ねえねえ、夏の合奏の曲さあ」
葵はトロンボーンを担当している。
背が高くてクールな彼女が長いスライドを操る姿は、惚れ惚れするほどカッコいいのだ。
ぽかぽかとした春の陽光が差し込む教室の中、消しゴムのカスやノートの紙の匂いに包まれながら、みんなそれぞれが思い思いの時間を過ごしていた。




