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第10話

一人数杯分くらいの量があったはずのカレーは、男子連中のブラックホールのような胃袋へ瞬く間に消え去った。

「ごちそうさまでした!」の声が重なり、食器を持って立ち上がる。


僕はちゃっかりと、めぐみと洗い物に向かう自然な流れを作り出し、その隣をキープした。


「カレー、ほんと美味しかったね!」

めぐみがくるんとしたポニーテールを揺らし、隣を歩く僕を見上げて屈託のない笑顔を向ける。


山の夕暮れの澄んだ空気の中で、彼女の弾む声が、小鳥のさえずりや川の音と混ざりあって耳へ響く。


『美味しかったな』って、笑顔のひとつでも返せたらいいのに。

けれど今の僕は、さっきの『二人って、付き合ってたりする?』という問いに対して、彼女が即否定したことを、根に持っていた。

それがどうしても隠しきれずに表に出てしまう。


「……ん」

僕は視線を合わせず、ぶっきらぼうに短く応えた。


他の女子相手なら、多少の感情コントロールなんて朝飯前だ。

我ながら、どうしてめぐみにはいつも子供じみた対応をしてしまうのだろうと自己嫌悪に陥る。


反応の悪い僕を見て、めぐみは空気を読んでおとなしくなった。

隣を歩く彼女の気配が少し縮こまったのを感じ、さらに自分への嫌気が増していく。


そんな複雑な渋面を浮かべたまま、僕は大きな洗い場へと向かった。


洗い場はすでに、食後の食器を抱えた他のクラスの生徒たちでごった返していた。

冷たい水が勢いよく流れる音と、賑やかな話し声がシンクの金属音と混ざり合っている。


「あ、じゃあ私、あっちで洗ってくるね!」


めぐみは離れた場所にある、ぽつんと空いたスペースを見つけ、あっさりと行ってしまった。


「……あ、うん」

渋々、僕は目の前のひとつ空いている洗い場に、重いお鍋をガタンと音を立てておろした。


「……あっ、夏樹くん!」


隣の水道に立つ影が、僕に気づいて声をかけてきた。

小学校から一緒で何度か同じクラスになったことがある女子だった。


「おー、久しぶり」

僕はいつもの『学校用スマイル』を即座に貼り付け、世間話を始める。


何組になったとか、カレーはうまくできたかとか、たわいない会話だ。


手元のお鍋は、焦げ付きがひどくてなかなか汚れが落ちない。

彼女も同様に苦戦しているようだった。


めぐみの洗い物は、お玉やスプーンなど小さなものばかりだったはずだ。

もう先に終わっているかもしれない。


そう考えながらも、洗い場の喧騒に紛れて、意地悪な感情を膨らませた。

……僕がこうして、他の女子と楽しそうに話しているのを見たら、めぐみはどう思うだろうか。


(ちょっとは、嫉妬でもしろよ)


そんな浅ましい当てつけの気持ちが湧き上がり、僕は意識して普段以上に笑顔を多めに、隣の彼女との会話を続けた。


洗い終わってお鍋を抱え、振り返る。

めぐみは、いなかった。

先ほど彼女が向かった洗い場にも、すでに別の生徒が立っている。


(……先に戻ったのか)


班のスペースの方へ向かうと、そこには他の班員たちと談笑しながら、楽しそうに片付けをしているめぐみの姿があった。

僕の意図などまったく虚しく、織田や金森と笑い合う彼女の姿を見て、ひどい虚しさが胸を突く。


(……もういい加減、懲りろよ、俺)

自分で自分に呆れ果てる。


「……おい。なんで先に戻ってんの」

僕はわざと不機嫌な声を絞り出し、めぐみに声をかけた。


「ごめん! なっちゃん、友達と話してたからさ。……あ、なっちゃんのほうが洗う量多かったよね? 手伝わなくてごめん」


面倒な洗い物を押し付けられて僕が怒っていると勘違いしているのか、めぐみは慌てて両手を合わせた。


(ちげーよ! そんなことどうでもいいんだって……。なんでわかんないかな……いや、わかるはずないか)


ため息をついて、僕は何も言わずにその場を離れた。



飯盒炊爨の片付けが終わった後は、広場でレクリエーションのクラス対抗大縄跳びが行われた。

学級委員が声の大きいノリのいいやつで、クラスのまとまりもよく、順調に対決前の練習が進んでいた。


「背が低い人は縄を持つ人に近い方、高い人は真ん中の方がいいだろう」ということで、160センチないくらいのめぐみは近い方へ行った。

めぐみと仲の良い金森が、僕の近くに移動してきた。

彼女はだいぶ背が高い。170センチはあるように見える。


「あ、どうも」

「どうも〜」

練習の合間に、僕たちは挨拶を交わした。


彼女とは中学から一緒だが、これまで同じクラスになったことがなく、高校に入ってから初めて喋った。

めぐみと同じ吹奏楽部で以前から仲がいいようで、一緒にいるところは何度か見たことがあったけれど。

クールな外見に違わず、どことなくつかみどころのない雰囲気がある。


しばらくして、会話が聞こえる距離に他の人がいないことを確認した金森が、そっと声をかけてきた。


「朝井くんって……めぐのこと、だいぶ特別扱いだよね」


「……え!?」

僕はいつもの女子に対するなんでもない、スマートな対応を心がけていたのだが、いきなりで、しかもめぐみの話題で図星だったからか、動揺を隠せなかった。


焦る僕の反応を見て、金森はにっこりと、何かを察したように微笑んだ。

「……あんまり意地悪しないでね」


追求はしてこない。

けれど、すべてお見通しだと言わんばかりのその態度。


「…………」


僕は黙って肯定しておいた。


(こいつ……ちょっと苦手だ)

僕は心の中でそう独白し、冷たい風を頬に感じながら、再び縄跳びの輪へと戻った。



大縄跳びは、大変盛り上がった。

クラス対抗の勝負は2位で優勝は逃したけれど、高校から入ってきたメンバーの緊張もだいぶほぐれてきたように見えて、親睦を深める良い機会となった。


日が落ちるとキャンプファイヤーが始まった。

僕は葉山や、他にも仲良くなった男子たちと無駄話をしながら炎を見つめていた。


めぐみの姿を探すと、すぐに見つけることができた。

彼女は結んでいた髪をおろし、寒くなってきたのかネイビーの女の子らしいデザインのブルゾンを羽織って、夜空の星を見上げて感動していた。

炎に照らされ、頬にふわふわと髪がかかる彼女の横顔は、いつになく大人びて見えた。


男どもの話は、「誰が可愛い」「彼女がほしい」そんなことばっかりだ。


「……そういや、井原ってよく見ると結構可愛くね? あんな感じだったっけ?」


中学から一緒の男子の一人が、ふと思い立ったようにそう口にした。


……はあ?と、僕はそいつに目を向ける。


そいつは僕の気持ちなんて露知らず、純粋な感想として述べている。

文句が言えず、もどかしい独占欲と苛立ちを我慢するしかなかった。


めぐみは、子供の時からずっと可愛い。

『結構可愛くね?』なんて頓珍漢なことを言うやつが、今更変な目で見るな。


「……プッ」

心の中で毒づく僕を察しているのか、隣で葉山が吹き出し、ニヤニヤと笑っていた。


炎を眺めがら、僕は遠い記憶を引っ張り出していた。


小学校六年の修学旅行。


こんなような燃え盛る炎の前で、僕は……彼女への二度目の失恋をしたのだ。


『修学旅行前に、彼女つくる競争しようぜ!』

クラスメイトの男子が、ふざけてそんな提案をしてきた。

僕はそんなのスルーするつもりだったけれど。

いや待てよ……と。


他の男子が、その相手にめぐみを選んだらどうする?

それより。

たとえゲームでも、それをきっかけに、実は僕とめぐみが両思いだということが判明したりしないだろうか……。


そんなことを考えたら居ても立っても居られなくなり、僕は急いでその日の夕方、マンションの薄暗い共有廊下へめぐみを呼び出した。


『……俺と付き合って』


ゲームのはずなのに、緊張して声が震えてしまった。


廊下の、少し湿ったコンクリートの匂いと、ひんやりとした冷気。

初めて見るめぐみの、少し強張った表情。

目を丸くして、僕を見つめる大きな瞳。

それを前にした瞬間、僕は激しい後悔に襲われた。


(……やばい)


もし断られたら、ゲームだと誤魔化せばいいと思っていたのに。

僕が緊張しているせいで、まるで本気の告白みたいになってしまった。


これで断られたら、僕の心は木っ端微塵に打ち砕かれる。

恐怖で息が止まりそうになった、その時。


『……うん、いいよ』


めぐみは、あっさりとそう返事をしたのだ。


その夜、僕は人生で一番浮かれていた。


ずっと自分の部屋のベッドで、声にならない喜びを上げながらボンボン飛び跳ねていた。

『うるさい! 壊れるでしょうが!』

リビングから飛んできた母の甲高い声に叱られたが、全然耳に入ってこなかった。


実はその時のせいで、僕のベッドの中央のスプリングは、今でも少しへこんでいる。


ゲームだとしても、めぐみが僕の彼女!?

ありえない!!

そして何より、めぐみはゲームのことを知らないのにOKしたのだ。

……もしかして、実はめぐみも僕を好きだったのではないか!?


そんなことをエンドレスで考えて、その夜はちっとも眠れなかった。


そして数日後、修学旅行のキャンプファイヤーの時間。

炎の前で男子と遊んでいたら、めぐみに話しかけられた。


『……なっちゃん。この前の付き合ってって、冗談だったりする?』


ゆらめく炎に照らされためぐみの瞳は、僕の反応をうかがっていた。


どうしよう。なんて答えるのが正解なのだろうか。

僕は焦ったまま、口を滑らせた。

『……誰かに何か聞いた?』


それを聞いた瞬間、めぐみの顔には、怒りや悲しみではなく……安堵の色が浮かんでいるように見えた。


(あ……めぐみは、冗談であってほしいのか……)


――それが、僕が二度目の失恋をした瞬間だった。


『……そう。冗談だから、なかったことにして』

僕は嘘をついた。

自分の本当の気持ちに、蓋をした。


案の定、めぐみは僕を責めることもなく、少しホッとしたように『あ……うん。わかった』とだけ言った。


この件は、そうやって終わったのだった。



そんな苦い過去を思い出していたが、ふと見ると、めぐみの隣から金森が離れてコテージの方へ向かっていった。

忘れ物か何かだろうか。


金森は立ち去りながら、僕の方をチラッと見た気がした。

(……アシストか? ……いや、気のせいか)


僕は迷わず、男子の輪を抜けてめぐみの方に近寄って話しかけた。


「キャンプファイヤー、懐かしいね」

炎を見つめながら言うめぐみ。


彼女は、あの時のことを覚えているんだろうか。

僕は、昨日のことのように覚えている。

『冗談だから、なかったことにして』と、自分の気持ちに嘘をついてしまった、あの日。


「……ねえ。私、いつもなっちゃんをイライラさせてる?」


唐突に、めぐみがそう聞いてきて、僕は心臓を鷲掴みにされたように驚いた。

不安そうにこちらを見る彼女。


(……そうだよな。めぐみから見たら、そう見えるよな……)


好きなのは僕だけなんだから、めぐみは僕の苛立ちの原因なんて、想像できるわけがない。


めぐみの真っ直ぐな瞳を見ていたら、二度目の失恋の、あの苦い気持ちが思い返される。


今は、嘘をつきたくなかった。

同じ過ちを、繰り返したくなかった。


「……素が出てるだけ。めぐが……特別だから」


口にしてから、少し焦る。

大丈夫だよな?これ。

『めぐが好きだから』みたいな、マジな響きになってないよな?


幼馴染だから素を出せる相手、という意味に捉えてくれるだろうか。


黙ったままの彼女を見る。

炎の光に照らされた、いつも屈託のないめぐみの瞳が……いつもと違って、少し揺れたように見えた。


(……ん?)


もしかして……僕は今、少しくらいは、めぐみの気持ちを揺さぶることができただろうか。


逃げ場のないくらいに彼女をしっかりと捉えた僕の視線。

時間が止まったような、その沈黙。



「めぐ、お待たせ〜」


金森がコテージから戻ってきて、僕は我に返り、めぐみのそばを離れて元の場所に戻った。


薪が爆ぜる音と、賑やかな話し声が再び聞こえ始める。

僕の胸の奥で、微かな期待と、相変わらずの臆病さが、複雑に絡み合っていた。

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