9-萌芽
すべやかな敷布の感触は、家のものとは違う。
意識が眠りから覚めた時、真っ先に感じたことだった。
——ここはもう公爵邸ではない。自分で選んだ道の先にあるもの。
そのはずなのに——
「おはようございます。姫様」
「……」
「よくお休みいただけたようで、安心いたしました」
聞き慣れた声は、確かにアンナとマリーのものだった。
少しばかり恨めしげとも取れる声音に、思わず掛布の中に潜り込みたくなった。
が——
「お支度をお急ぎください。まもなくユリアス様がお越しになられます」
柔らかな声とともにサイドテーブルに置かれたカップからは、毎朝頂くハーブティーの爽やかな香りが漂う。
「アナスタシア様、とても良いお天気ですよ」
マリーが開け放つ窓からは、春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
「朝早くから申し訳ないね」
「……いいえ」
続き部屋の応接ソファーに腰を下ろしたユリアス様は、少し楽しげな笑みを浮かべていた。
「不慣れな場所での生活が始まる。不安や要望は、君付きの侍女たちに申し伝えれば良い」
「……ええ」
その侍女は慣れておりますから問題ありませんね、とは言わない。
面白がっているとしか思えない王弟ユリアスの表情に、わずかに恨めしげな視線を向ける。
昨夜、一大決心と共に署名した時には、たった一夜でこんなにも盤上の駒の配置が変えられてしまうとは思いもしなかった。
私の読みもまだまだ……小さく溜め息が溢れた。いや、そんなことを言っている場合ではなかった。
「その侍女ですが……」
アナスタシアの声に、アンナとマリーが深く頭を垂れる。
「昨夜のうちに、この部屋と同様手配したよ」
「そのようですわね」
昨夜は客室に通された。
が、朝食後に案内された新しい居室は、まるで最初から自分の部屋のような設えだった。
私好みに整えられた室内と、公爵邸に置いてきたはずのお気に入りの小物たち。改めて部屋を見回せば、サイドテーブルには昨日まで刺していた刺繍枠と読み掛けの本が置いてあった。
まぁ、着替えとして用意されたのが普段自分が好んで着ていたモーニングドレスだったので、もう何も言うまい。
「紹介しよう。君の専属侍女になる——」
「アンナでございます」
「マリーでございます」
二人とも公爵邸で良く見知った顔である。
「……」
「あと、君の護衛として付けたい」
「ヘイリーでございます」
流れるように騎士の礼を取る彼は、見慣れた御者の服装では無い。が、護衛騎士としての空気と完全に一体化していた。
「彼、彼女らの籍はグラノヴェル公爵家。費用を気にすることはない」
「費用?」
「ああ。エルミタージュ所属となれば多少の揉め事は避けられない。常に——学院内に於いても専属の護衛騎士、護衛侍女を伴うのだが、それらの費用は全て己で賄うのが決まり」
自身が賄うか、縁者が申し出るのかは人それぞれ。ただ、館に出られない学院生は確実に借財を積み上げていくだろう。
「昨夜君が休んだ後に、公爵家から後援の申し出があった。私は……受けるべきだと思う」
アナスタシア自身の自由になるものは、今の所自身の身体のみ。しかし、その所有権は期限付きとはいえ、エルミタージュに譲渡している。
「……御面倒をお掛けいたします」
目を伏せるしかない。
この身を、籍をエルミタージュに移したというのに、公爵はその縁を断ち切る気はないらしい。
これでは籠が公爵家からエルミタージュに移っただけではないか。
「それと昨日、公爵の帰宅を待たずに公爵邸へ釣り書きが届いたそうだ」
顔を上げる。
予想はしていたが昨日の今日どころか、昨日の昨日か。
「まぁ、聡い方ですわね。どちらの領の——」
「オルセイン帝國の……レオンティウス皇帝だ」
目を見開く。
本当に僅かの差だったということか。
「当然、エルミタージュ籍である君が、この申し出を受けることはない。わかっているね」
「はい。ユリアス様」
公爵家単独では、帝國の要求を穏便に退けるのは多少なりとも難しい。王国に申し入れられたとしてもだ。
しかし、王弟が主とするこの公娼館は別格。
おかげで王族という盾を失ったあの瞬間から喉元に迫っていた帝國という牙は、掠めるだけで済んだようだ。
「昨日の嵐、あれが無ければ恐らく——」
「春の女神の一扇——女神はこちらに微笑んだのでしょう」
己の署名でエルミタージュの公娼妃となった者は、全ての意思、責任は自身のもの。
それは王権であっても覆すことはない。
このエルミタージュの礎となったアリアズナ王女殿下が、周辺諸国にまで認めさせた砦。
「アリアズナ王女のヴェールには感謝ですね」
「問題をより先送りにした感も否めぬのだが?」
「おじさまは考え過ぎです」
「あの男はしぶとい」
「しぶとい、ですか?」
らしくない渋面に小首を傾げる。
「あの国の——いや。そんな話ではなかったな。これからの君について話そう」
「これからの私……」
「君が衝動だけで動かないことは理解している。が、先ずは決心は変わらないかね?」
「はい。私は公娼となって、この国の発展の一助となりとうございます」
深い溜め息が返される。
「君ならば……他のことで役立てると思うが?」
「この国の——公爵領の領政も、私が手伝えば父も兄も随分助かるでしょう」
アナスタシアの視線は、自然とテーブルの上の茶器に向かった。
美しいカップは、公爵領の特産の一つで、アナスタシアが生まれた時に記念として作られた白磁器のシリーズだった。
これら産業の統制も、領政の仕事の一つだ。
そして父は国の政にも深く関わっている。兄も王太子補佐のため、王都と領地を頻繁に往復していた。王都に残されたアナスタシアが、かなり早い段階で家政を取り仕切っていなければ、彼らの負担も言わずもがな。
「しかしそれも兄が妻を娶るまでの、あと数年。私が次の場を求めることに何の問題がありましょうか?」
小姑がいつまでも居座るものではない。
「いっときは、王城文官も考えましたわ」
「それは……止めてくれ」
僅かに顔を顰めたユリアスに、アナスタシアは苦笑する。
「ええ。現場の混乱しかないでしょうね」
「君の……能力に問題があるわけではない」
「ご評価ありがとう存じます。ですが、私も理解しております。世の仕組みは、未婚の高位令嬢を拒む——ただそれだけのことなのです」
その場に居るだけで意味を持つ者とその影響を受ける者。良いことばかりではない。
「高度な案件ほど、人・物・金以外の要素が増えます。噂一つ、婚姻一つ、疑惑一つで全てが止まってしまう」
人事は止まり、判断は遅れ、不要な派閥だけが生まれる。
自然と視線が落ちた。
「王宮女官も候補でした」
「……君は仕えられる側だ」
「だから外しましたわ」
どちらともなく溜め息が漏れる。
「ならばいっそ、その構造を前提に立場を選ぶ方が合理的でしょう?」
ユリアスは眉を顰めたまま、視線で先を促す。
「家政を預かる正妻の立場も、結局は家の内を守るためのもの。しかし、その境界線は飽くまでも内と外。私は——外に出たいのです。もっと広い世界というものを見てみたいのです」
窓越しに眺める風景は美しい。その美しさだけを愛でる生き方は息が詰まるようで——つまらないのだ。
「君は——」
「高位魔力保持者としての責務は理解しております。私もいつか子を産み育てましょう。けれど、私にとって爪の色は問題ではないのです」
爪紅の儀を行い、公娼となれば、その爪はやがて黒く染まる。幾人もの魔力を受け入れた証として。夫の唯一としての妻紅——美しい爪のままではいられない。
それが公娼という立場。
しかし、爪色一つ違うだけでどれ程の制約から解放されるか。男たちは考えたこともないのだろう。
薄い笑みが浮かぶ。
私にとっては、得られる繋がりの方が遥かに魅力的だった。
「私の想いはご理解いただけますでしょう?」
義務は果たす。
暫しの自由を、己が身を以った責任で贖う、と。
「だが、アナスタシア……」
ユリアスの逡巡がうかがえる呼びかけに、艶やかな花の微笑みで返す。
数多の偏見や揶揄を理解した上でも、やはり飛び立ちたいと願うのだと。
「君が……いや、君の願いは理解しよう。しかし、抗いたいと願う君の父上の気持ちも理解して欲しい」
「ええ。父は私のために、出来る限り両腕を広げてくださいましたわ」
「それでも足りぬ、と?」
「レオニード殿下が手を離して下さったのですもの、もう少し広いところを見たくなるのは当然では? それに私の左隣の空位、皆様はどのようにお考えでしたの?」
「……グラノヴェル家は——」
「父が選んだベルジャーエフ伯爵家のイリヤ様は存じ上げております。ベルジャーエフ伯爵夫人からは何度かお声もいただきましたからね。ですが、王家は、どうなさるおつもりだったのか」
「私の口からは……」
「側妃ナターリヤ様不在を狙いすましたかのように動かれたレオニード様と議会。王と王太子、お二人はナターリヤ様の行いに、これ以上目は瞑らないとご判断されたのでしょう? ですが私を解放するおつもりもなかった」
「それは——」
「ユリアス殿下、でしょうか?」
「……」
「沈黙は肯定といたします」
溜め息が一つ溢れた。
「確かに王は私を推した」
「…………」
「ただ、第二王子のメルキオールは、隣国との今後の関係を考えれば王子妃エキドゥナの兄、皇太子との縁組を臨むべきだと」
「王家も一枚岩とは行かないのですね」
「君は……拒まぬのか?」
「ええ。貴族の義務は義務。理解しております。ただ皆様は駒を並べる順番を間違えなければ良かった。そして私が動く前に籠の扉を閉ざすだけでよかったのです」
アナスタシアは微笑む。隙を与えた方が悪いのだと。
「その点、皇帝は随分と良い動きをなさいましたね。まぁ、何というか……お父様——グラノヴェル公爵のお怒りが手に取るようですが」
「……面識が?」
「当然ございますけど?」
「あぁ……前々回の議会はこの国であったからな」
「ええ。六年前の列冠会議の折に、第三王子の婚約者として——ホスト側の一員として内々にご挨拶を」
本来ならば11歳の、デビュタント前の令嬢が出るところでは無い。が、帝國側たっての申し入れで、非公式の晩餐会が行われた。それだけでも異常事態だが——
「皇帝とは一頻りお話をいたしまして」
「ああ、その話は聞いたことがある。レオニードが拗らせ始めたのも、その辺りだったな」
「ええ、まぁ」
レオンティウス・アルカイオス・オルセイン帝國皇帝。数多の皇妃は在るものの皇子、皇女、帝妃は持たず。継嗣には今年16歳になる帝弟が就いている。歳は目の前の王弟ユリアスと一緒の34——当時は28歳であったか。
筋骨隆々というより、猫科の巨大な生き物を連想させる。黒髪に金眼の魔豹と呼ばれる男は、あの日アナスタシアの言葉に笑った。
当時の内輪での晩餐会、席は遠かった。が、食後のシガータイムに何故かテラスで行き合い、ややしばらく言葉を交わした。その後、別れ際に問われた。
皇弟妃になる気はないか、と。
第三王子の婚約者として挨拶したはずが、まさかの申し入れに笑ってしまった。
「いずれにせよ、今回は君の判断が早くて助かった。帝國皇帝相手では、流石のグラノヴェル公爵でも一筋縄では行くまい」
ユリアス様はホッと一息吐くと、優しく笑う。
「今日は一日休みなさい。学院へは——」
「明日からにしますわ」
「明日か。……ならば他の娼妃たちと話をするが良い」
名が変わった。
それだけではない、ということだ。
「……はい」
マリーがユリアス様を送り出すのをぼんやりと眺める。
初めて見る光景なのに、少しの違和感もない。
こうなることを、心のどこかでは予想していたのかもしれない。
でも————助かった、とは?
誰が何の助けを得たというのか。
「ああ、あの時初めて感じたのでしたわ」
小さく呟く。
あの日、帝國皇帝という人物と言葉を交わしただけなのに——皆が眉を顰め口々に言った。婚約者を持つ未婚令嬢たる者、みだりに男性と言葉を交わしてはならぬ、と。
婚約者でもない者と——
夫以外の——
この家は——
あの事業は——
幾度となく耳にした言葉、肌で感じた空気が繰り返される。
私は——厚い透明な檻の中で、重い鎖に繋がれる。
私は足掻くことは許されないのか。
足掻くためには、私は何を変えれば良いのか。
見回した先に見えた一つの可能性。
私は——一歩退くことで、場所も関係も格段に広がるならば、その道を選ぶ。
黒爪の正妻は外聞が悪いと退けるのは、彼らの勝手なのだから。
「ねぇアンナ、私を繋ぐ鎖は一体幾つあるのかしらね」
「アナスタシア様?」
「何でもないわ。お茶を入れ替えてちょうだい。東方の花茶が良いわ」
「かしこまりました」
アンナもマリーも変わらず、良く仕えてくれている。身の置き所を変えた所で、自身の役目は何も変わらないのか。
「アナスタシア様」
訪れは、花の澄んだ香りとともにあった。
呼びかけられ、意識が内から表に動く。
テーブルには、一枚のカードが差し出された。
『花霞月二十八日 陽の中刻 白霞の間にて』
上質なカードに描かれているのは、美しい飾り文字。華やかでいて上品な筆致。これだけで教養の高さが窺えるものだ。
「主人は、なるべく中刻を迎えるころにはお越しいただきたい、とのことです」
カードを携え腰を折る従僕は、幼さのうかがえる少年。挨拶の際に覗いた薄緑の瞳の色は、北領の大家——カーメニン辺境伯家の血を思わせる。
「本当にエルミタージュは面白いですわ」
エルミタージュを肉欲の館と見るのは下賤。それは上位貴族ならば誰もが知る常識だった。内包する人員はこの国でも稀有なる人材の坩堝。いや、国外から迎えられた者もいる。
「令嬢?」
「アナスタシアよ。貴方は?」
「ザラターヤ様付きのエドアルドでございます」
やはり、ね。
ザラターヤ様は前カーメニン辺境伯の庶子にして、このエルミタージュ随一の公娼妃。盤面は、また一つ動く。どのように変わるのかはまだ見えなくとも、立ち止まることはない。
「この館についてご案内したいと申しつかっておりますので、そのおつもりでお願いいたします」
「ええ」
アナスタシアはエドアルドに微笑みかけると、アンナより差し出された返礼用のカードに、参加の旨を書き記す。
アナスタシアもまた流れるような美しい筆致で未来を描く。
「喜んでお伺いいたしますわ」
次回
【10-茶話会始め】




