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春雷〜つまくれない〜  作者: 碧海 久


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8-護る


雷鳴が響く中、ヴァシリーはヴォルをゆっくりと進ませる。

もう急ぐことはない。

小さなアナスタシアは、檻が開かれ、枷が外れた瞬間を狙い澄ましたように飛び立ってしまった。


「私たちの手の中は、そんなにも窮屈だったのか?」


誰に聞かせるでもなく、小さな呟き。


大切に——真綿で包み、精一杯広げたつもりだった彼女のための世界。

公爵領を越え、諸国に交易を広げた。西の砂漠も、南海の小島も、東の小国も、北の山脈も、アナスタシアが望む先すべてへ手を伸ばした。

それでも——アナスタシアにとっては、まだそれでも狭かったというのか。


鉄門が開き、侍従たちが口々に何か言っているが、応える気にはなれない。促されるままヴォルから降り、屋敷を見上げる。

雨に濡れ、稲光に浮かび上がる黒い建物は、酷く陰気に見えた。




◆◇◆


暖炉には火が入っていた。

見た途端、酷く身体が冷えているのに気づいた。

そして暖炉の灯りに照らされ壁に揺らめき映るのは、跪き項垂れる三つの影。


アンナとヘイリー、そしてシオだ。

父上は――机上で手を組み、顔を伏せていた。


「……父上、アナスタシアは……」

「あぁ」


ヘイリーの報告、そして私のこの様子。何よりアナスタシアの不在が全てを物語っているのか、父は何も尋ねない。

責めず、ただ声を返すだけ。


そして父の低い声にヘイリーが身体を揺らすと、シオがゆらりと立ち上がった。


「ぼっちゃま、姫様はお休みですか? あぁ……わっしの手綱じゃないと、姫様は体調を崩される。アンナ、姫様のお世話に行きなされ。今夜は雨で特に冷える」

「シオ、アナスタシアは戻らない」

「ぼっちゃん、年寄りを揶揄わんでくだせぇ……」

「違う。……間に合わなかったんだ」


私の言葉にアンナは声もなく崩れ、シオは拳を固めて立ち尽くす。


「わっしの姫様が戻られない、と申されますか?」

「シオ……」

「わっしが幼い頃よりお守りしていた姫様が、ほぉんの少し目を離した隙に――」


ぶわりと魔力圧が高まる。

痩せた初老の男から吹き上がる圧は、貴族当主である父とはまた別種の底冷えの魔力だった。ギラギラした赤茶の視線が項垂れるヘイリーを射抜く。


「何故、お止めしなかった?」

「シオ様……」

「ヘイリー、何故馬車を進めたっ?!」


シオはいつも手にしている短鞭を振り上げ、短い音と共にヘイリーの肩に振り下ろす。


「お前がっ! 付いていながらっ!」


一見枯れ木のような老体が、鋭い音を立てて短鞭を振り下ろすのを止められなかった。

いつも見せる好々爺然とした姿はどこにもなく、ただ己よりも一回り近く大きな男の身体を、重い音と共に鞭打つ。


低い呻き声と共にヘイリーの膝が崩れた。

どれ程の力か。

本気のシオの怒りに、一歩踏み出す。


「シオ、ヘイリーでは無理だ。アナスタシアの声(・)には逆らえない。馬車を横転させなかっただけでも充分」


立場による命令だけでない。

駈ける馬さえも、彼女の魔力を乗せた声には従うしかない。


「ならば馬を屠れば済む話! 姫様をっ! アナスタシア様をあの様な場にお連れするなどっ!」

「シオ、もう良い」


低い声に、シオははたりと動きを止め、ヘイリーと共に傅く。


「王城から戻ると同時に届いた」


ぱさり


乾いた音を立て、一巻きの紙が机に投げ出された。

見るからに古風な――羊皮紙の巻物(ロール)


「父上? これは――」

「帝國の腹黒からだ」

「腹黒――ですか?」

「レオンティウス・アルカイオス・オルセイン――30も過ぎた男が17のアナスタシアを娶りたいとは」

「父上っ!」

「断れば、以前と同様に帝弟を差し出してくるのだろうな。年廻りだけなら、そちらの方がまだマシか……本当に執念深い國だ」

「……以前?」

「いや……その話は既に終わっていたな。ヴァシリー、他の者も心配ない。アナスタシアは一時(いっとき)預けただけ。あの離宮には誰も手出しできぬ。帝國であろうと、皇帝であろうと」


父の声音は――酷く静かだった。


「むしろアナスタシアの判断は、正しかったのかもしれぬな」

「父上……」

「あと半年の学院生活。公爵家では学院内で護衛は付けられん。エルミタージュならば、王弟権限で再び『王の手』が付く。更に目に見える護衛、教室にも護衛侍女が付き添い、決して一人になることはない」


悔しいかな、エルミタージュ所属となれば、その身体には直接値が付く。

アナスタシアほどの身分ともなれば、その価値は値千金どころではない。


そして王家の思惑、他家の思惑。

アナスタシアという存在を求めるのか、排除するのか。

彼女と、彼女が属するエルミタージュにどれほどの価値を見出すのか――その判断は誰にも読めなかった。


今も婚約解消を惜しいとは思わない。だが、『王家の婚約者』という立場が最も安全な守りであったこともまた事実。


「守りが薄くなるのは断じて避けねばならぬ」


レオニードの動きは把握していた。

側妃ナターリヤも、王と王太子も、各国の動きも全て把握していた。

しかし帝國皇帝自身が動くとは。

いや、ただ一点、見落としていたのは——


「アナスタシアは――」


父は首を振る。

この父にも読めなかった動きをあの子は——


公爵家の至宝に相応しい求婚であろうと、しかしそれを受ける未来はない。

それを跳ね除けるということを踏まえても尚も、彼女は——


握りしめた爪が掌に食い込む。


「アナスタシアが下賤に晒されるなど……」

「見るは暗愚に過ぎず。アナスタシアは風のそよぎなど気にはしない。むしろ付き従う護衛に不満を持とう」


自由に動けない、と。

父は笑う。


「しかしっ!」

「一時エルミタージュに在ろうとも、アナスタシアに無用の色を付けなければ良いだけだ。今度は王弟が盾になる。そして我が家は壁となる。一目(いちもく)たりとも触れさせるな。公爵家の至宝、王家、悉く断て」


公爵は嗤った。

王家の愚行と判断を。







次回

【9-萌芽】

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