7-滴、落ちる
春の嵐の中、青毛の馬が中央道を単騎で駆け抜ける。
雨で人通りが絶えていなければ、無理な速度だ。
それでも、雨だからこそ危険な速度だった。
が、その荒天をものともしない駆けぶりは、かえって騎乗者の地位の高さを知らしめていた。
平民は雨の中慌てて脇道に退き、貴族の御者は車体を脇へ寄せる。
平民街の手前、商会前の馬車寄せには――公爵家の紋章入りの馬車は無かった。
心臓が早鐘を打つのは、嵐の中を駆け抜けたからではない。
視線を更に奥へ向ける。
この先にあるのは、旧貴族街の外れ。かつては風変わりな王女の住まう離宮だった。
今は――女の園。夫を持たぬ貴婦人たちの館。様々な呼び名はあるが、そこは王弟が管理する公娼館エルミタージュ。
その建物の方角から、一台の馬車が近づいてきた。
見覚えのある青い房飾りの揺れる頭絡。
嗚呼――
ヴァシリーは反射的に手綱を強く引いた。
ヴォルが短く嘶く。
「ヴァシリー様……」
雨音に混じり、ヘイリーの声が届く。
御者台で濡れそぼる男は、一回り小さく見えた。
「申し訳……ございません」
ヘイリーの声を聞きつつ、視線は雨に霞む屋敷に向く。
黒く沈む館には、まだ灯は入っていない。
「ヘイリーは……アンナを連れて屋敷に戻れ。公爵家の馬車は目立ちすぎる。アナスタシアは、私が連れ戻す」
「はっ」
ヴァシリーは騎上で姿勢を正し、ヴォルの腹を蹴った。
まだ間に合う。
迎えに来たのだと手を差し出せば、アナスタシアは笑ってその手を取ってくれる。
見上げてくる青灰の瞳に映るのは、いつも私の困ったような苦笑だ。
アナスタシア――
◆◇◆
「ヴァシリー公子、随分と無作法な訪れ。今一度戻られては如何か?」
侍従の制止を押し切り、雨の雫を滴らせながら入ってきたヴァシリーの姿に、ユリアスは苦い表情を向ける。
それでも、グラノヴェル公爵本人ではないことは、わずかでも救いか。
「ユリアス殿下、公爵家の宝が誤ってこちらに……こちらへ紛れ込んだと聞き及びました」
「さて……」
「グラノヴェル家の宝は、この館に在ってはならない。ユリアス王弟殿下、このヴァシリー・ヴィクトロヴィチ・グラノヴェルへ、早々にお引き渡し願いたい」
怒りを込め、正式な名乗りに要求を乗せる。
一人の貴族としての抗議に、ユリアスは肩を竦めるしかない。
「……残念だが、ここに……エルミタージュにグラノヴェル家の者は居ないよ」
「殿下っ」
叫ぶ声に魔力が混じる。
普段は冷徹と称されるはずの彼の声は、今は炎のように熱い。
「ひととき遅かった。いや……むしろ幸いか?」
「何を……何を幸と言われるか?! アナスタシアの名を汚す行為、ひと時たりとも許されざることっ!早々に——」
「落ち着きなさい。公子もこの館の意味は理解されているはず」
「だからこそ! 皆でアナスタシアにばかり何を求められるか?!」
「彼女が求められるのは、高位者であるがゆえの宿命。君とて背負っているだろう?」
「アナスタシアは立派に果たしている。放棄したのは王家ではありませんかっ?!」
「確かに……レオニードがアナスタシア嬢を放り出してしまった責は、本来ならば王家が負うべきものである。我々も重々理解している。この帰結、決して許されることではない。が、今、事を荒立てるわけにもいかない。それは理解できるね」
子供を諭すような言葉に、ヴァシリーの視線が更に剣呑となる。時期を逸したのはレオニード。決して誤魔化されるわけにはいかない。
何としてもアナスタシア連れ帰る。彼女は公爵家に囲い、美しく花開かせるのが最上。
しかし——王弟ユリアスは溜め息を返す。
「君の望みは理解できる。だが、アナスタシアの判断もまた正しいのだよ。ヴァシリー、君は少し落ち着いた方が良い。本日の面会の申し込みは受けられん。後日、花を添えて先触れを出したまえ」
「?! 何を——」
「何も。それが儀礼。ただ私はね、アナスタシアが保護を求めに来たのだと思っている」
「保護を? 公爵家では不足だと?」
高位貴族としての義務か、アナスタシアの兄としての矜持か。
ヴァシリーの纏う魔力圧が更に高まる。
が、
「――制度を理解しているのはアナスタシアだけか?」
再び、ユリアスから溜め息が漏れた。
ヴァシリー・グラノヴェル公子、公爵家嫡男として頭は切れるが、こと妹のこととなると理性が消える。
「だから何を……」
「アナスタシアは盤上を降りたに過ぎない――本当にあの子は聡い。しかし、公爵は決して私を許しはしないな」
「殿下?」
「アナスタシアの行動の意味が理解できぬのならば、帰って公爵と話をしなさい。私から君に語る言葉はない」
冷ややかに言い切られ、ユリアスの視線は机上の書類に戻された。
もう、無礼な会話に付き合う気はないという、拒絶だった。
次回
8-護る




