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春雷〜つまくれない〜  作者: 碧海 久


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6-記す

公爵家の馬車とはいえ、速度を増したことで揺れが強くなった。アナスタシアに向かって手を伸ばしたアンナは、その揺れに馬車の床に膝をつく。御者のヘイリーは、暴れる馬の引く馬車を横転させないよう、必死に馬を操っている。


「姫様、それはなりません!」


長く仕えてくれている忠義に厚い侍女は、床に膝を付いたまま、アナスタシアの両手にすがりつく。


「なりません。この世で最も幸せになるべき姫様が、何と恐ろしいことをおっしゃいますか?! 閣下もきっと良いように取り計らって下さいます。ですから今しばらく――」

「大丈夫よ。お父様は、いつだって私を理解してくださるわ。それは良くわかっているの」


第三王子の愚行に怒りを示し、私の望みを支えてくださった。


「ですが、閣下は……いいえ、亡くなられた奥様が悲しまれます。誰より姫様の幸せを願われました。そんな奥様が今の姫様のご決断を知れば、御心を痛めるどころではございません」

「……お母様を出されると、確かに辛いわ。でもね、私は私として生きたいだけなの。心配しないで。あなた達が、このことで責めを負うことはないわ」


決意のこもった穏やかな声。

それでもなお、アンナは縋り付く。逆らうことの許されない立場から、必死に。


「わたくしどもの話をしているのではありません。姫様の未来のお話です」


姫様の未来――

私の未来


アンナの言葉に深く息を吐く。


第三王子の婚約者ではなくなるということは、王家の庇護を失うということ。

そして、魔力と血統を備えた未婚の女など、諸国にとってはこの上もない僥倖。


「私の左隣の空席はね、ただの政情不安にしかならないわ」


国内だけならば、筆頭公爵家という盾がある。では国外ではどうか。

どの国も、魔力を継承する器の確保は最優先事項。先を争い得るべきもの――私は野に放たれた極上の獲物でしかない。

魔力が欲しい。

胎が欲しい。

もののように価値だけを求め、私の意思を無視して使い道だけを考える輩。


ふっと笑みが溢れる。


価値ある獲物ほど、その手に収まらないのも事実。

誰が与えてやるものか。

思い知るが良い。

私の使い道は、私自身が決める。


「だからね。無くしてしまうのよ」


孤独な王女の遺産——高貴なる者の隠れ家(エルミタージュ)――それはこの国の王権直轄でありながら、いずれの国にも伏さない大輪の花籠。


「ですが……ですが、アナスタシア様――」

「大丈夫。でも今は時間が惜しいの」


アンナの乱れ、崩れた髪をそっと撫でる。


「折角王子殿下が手放してくださったのよ。私は私の人生を自分で決めたいの。強要も、隠棲も、放逐も――暗殺も真っ平なのよ」


私はそっとアンナの頬を両の手で包み込む。


「アナスタシア・ヴィクトロヴナ・グラノヴェルという貴族が消えるだけよ。私という存在は残るわ」

「姫様……アナスタシア様……」

「私にとっては、ただこの手袋を外せなくなる程度のこと」

「姫……様」


カタリ

微かな振動と共に馬車が停まった。

この建物を守る魔法障壁と、公爵家の馬車に纏わせた魔力。互いに干渉し合い緩衝材となるのか、老練の御者が手綱を捌くように、穏やかに動きを止めた。

雨音だけが耳朶(じだ)を打つ中、鉄門の開く気配が伝わる。


「アンナ、お父様には今までの教育を感謝しています、と伝えてちょうだい」


わたしはアンナの手をそっと外すと、意識を外に向けた。




◆◇◆


――王城では


大理石の廊下を急ぐヴァシリーに続く者はいなかった。

等間隔で並ぶ窓を叩くように降る雨と、黒い空を切り裂く雷光。

この雨の中ならば、馬車での移動だろう。

が――


「グラノヴェル公子様! この雨の中を単騎で出られるのは危のうございます」


王城の厩番は慌てて止めてくるが、私とて領地では魔獣討伐に従事している。この程度は問題ない。

現にシオは先を走った従者の言葉通り、青毛のヴォルを用意していた。

足早に騎乗するが、重い落雷の音にヴォルの蹄が土を掻く。


「シオはこのまま父上を待て。私はヴォルで行く」

「ヴァシリー様、護衛を……」

「要らぬ」


短く応え、手綱を強く引く。

馬首が門に向かった瞬間、腹を蹴った。



◆◇◆


紋の付いた箱馬車(クーペ)が、引き寄せられるように進む。

旧貴族街――かつては王女が住まう離宮だった屋敷は、貴族街を挟んで王宮の正反対に位置していた。鉄門から続く馬車道は、春の陽射しの元ならば色鮮やかに縁取られているのだろう。

が、今は道や建物は雨に煙り、人の影はない。雨に濡れた石畳が緩やかな弧を描き、蒼灰色の石造の屋敷へと続く。

建物正面から大きく張り出した階段は、中央で受け、左右へ緩やかに分かれて弧を描いていた。


馬車寄せに停まる。


窓越しに人影が映る。

男は大扉の前に控えていた。

腰を折るほどではない浅い礼と共に、至極当然のように扉を開け、エスコートの手を差し出す。


貴族の淑女が、公娼館の大扉を叩く――貴族の柵を捨てる決断であることを男は心得ているのか。何も問わず、ただこの決意に真摯な礼を以って応えてくれる。


そして私もまた、今ここで馬車を降りるということは、戻る場所を失うということを理解している。

この一歩の重みを肌で感じる。


だからこそ——自身が選び取った運命の始まりを前に、挑戦的な笑みが浮かんだ。





導かれるまま通された部屋は、豪奢な蒼い空間だった。

大扉からこの部屋まで伴った男も、部屋で茶菓子を用意する侍女もよく教育が施されているのか、無駄な視線も発言も無かった。ただ粛々と己の役目を果たす。良い印象だ。

そして間をおかず現れたこの男も――


「アナスタシア・ヴィクトロヴナ・グラノヴェル公爵令嬢、この館を訪れたその意味、ご理解いただけておりますかな?」


貫禄を作るための口髭も、その目元に寄せる柔和な笑い皺も、この館の主人と認識している私には意味を成さない。


「ユリアス王弟殿下におかれましては、その愚問も無意味、と存じますが?」


私の回答に、ほぅ、という溜め息混じりの笑みで返された。それは、この芝居がかった問答が、ただの互いの意思確認に過ぎないことを意味する。

御年34歳、継承権第二位の現王同腹の王弟殿下はこの公娼館の主人であり、公爵令嬢である私を幼い頃より見守って下さっていた。


「私、アリアズナ王女殿下には感謝しているのです。私のた(・)め(・)に(・)この『場』を作り上げて下さったことに」


満面の笑みを添えて返す。

その笑みに、おじさまは幼い頃に向けて下さったのとは違う、苦い笑みを返して下さる。


「ここを……このエルミタージュを君のための『場』とするか」

「ええ。女が自身で己が運命を決める、素晴らしい場所だとは思いませんか?」

「……己が運命を、ね。君は相変わらず破天荒だ」

「父も流石に諦めて下さるでしょう」


ふわりと笑むアナスタシアに対し、ユリアスの渋面は深くなる。

アナスタシアの決断は、皆の想定外ながらもユリアスの視線は揺れていない。


「考え直しては……くれぬのか?」

「ユリアス・シム・ヴェレスカ王弟殿下、その御言葉は創立者アリアズナ王女殿下の——エルミタージュの理念に反していますわよ」


——己で此処に至る者は拒まず——


「……後のことは任せてくれ、とは、とても言えないのでね」

「あら、公娼館『エルミタージュ』の主人らしからぬ発言ですわ」

「私はエルミタージュの主人である以前に君の縁者だ。グラノヴェル公爵の怒りで王国が揺れる」

「この大陸への波紋に比べれば、小舟の揺れなど誤差でしょう」

「自己評価が相変わらず高いね」

「冷静な判断の結果ですわ」

「……レオニードが理解できなかったのは、アレの責任ばかりではない」

「おじさま?」

「王家の怠慢――としていてくれ」


フッと笑みが溢れる。

王族と呼ばれる者が爪色を変えない女を侍らせ、その意味を計れない者を放置する。

それを怠慢と言うか。


「でしたら最大限のご配慮を賜りたく」


私が満面の笑みを崩さぬまま言えば、おじさまは溜め息をつくしかない。

ですが私の一世一代の決意の邪魔は望んではおりません。

私は笑みを崩さず、おじさまが13歳の誕生祝いに下さった魔充筆を差し出す。


「さぁ、契約書にご署名くださいな」


このアナスタシア・ヴィクトロヴナ・グラノヴェルが新生アナスタシア・エルミタージュとなるこの書類へ。


「あぁ……君は誰よりもこの世界の仕組みを理解している」


溜め息混じりに契約の羊皮紙に伸ばされた手。

立場上、彼は署名するしかない。

私の、この行動力を読みきれなかった大人たちの責任と義務。

今ここで一人対峙する——彼はその不幸を呪うように、小さく肩を落とした。



次回

【7-滴、落ちる】

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