5ー心づく
一報は、列冠会議前に交わされる帝国との新たなる通商審議の最中だった。
「第三王子レオニード殿下及びアナスタシア・ヴィクトロヴナ・グラノヴェル嬢の婚約解消、互いに了承確認されたとの報告、『王の手』より成されました」
飛び込んできた文官の一言。
議場のざわめきが一瞬で消え、場の空気が不自然なほど止まる。
壇上の王と王太子が目を閉じた。
しかし、ここからが始まりだ。
「よって通商審議は一旦中断とし、神殿聖女ラーナ殿への第三王子レオニード殿下婚約申請について、再審議を提起する。併せて、筆頭公爵令嬢アナスタシア・ヴィクトロヴナ・グラノヴェル殿に対する周辺諸国からの婚姻打診の扱いを審議事項とする」
改めて配られた資料が一斉にめくられ、紙の擦れる音が広がる。
第三王子の起こした密やかな波紋は、周辺諸国ではうねりとなり、巨大な波となってこの国に返ってきていた。
元より、側妃腹の第三王子は頭脳、魔力量ともに突出したところはなく、政治的価値は王族というだけ。世代交代時に魔力量に見合った領地を一代限りで貸与され、その血を諸貴族にばら撒くだけのもの。
対して王女不在のこの王国、婚姻外交は第二王子が隣国皇女を娶ったまで。ここで筆頭公爵令嬢アナスタシアという札が出されれば、飛びつく国、貴族は数多。外交、政治バランスは忽ち崩れる。
席を動かし、身を傾けて交わされる囁きが再び議場に広がる中、グラノヴェル公爵はゆっくりと立ち上がり、口を開く。
「改めて提案は聞く。しかし筆頭公爵の嫡女たるアナスタシアの輿入れ先に、正室以外はあり得ぬ。それを確と心に留め置き発言せよ」
議場に朗々と響き渡る声。
誰にも抗えぬ強さ。
しかし同時に、居並ぶ者たちの表情が引き締まる。
公爵家が令嬢の輿入れ先を第三王子の許と、不承不承ながらも認めたのは9年も前のこと。当時は他に釣り合う先は国内外を含めて複数あったが、王室――とりわけ側妃の強い後押しで議会を通過し、承認された。
それが現在は、国内のめぼしい貴族の正室の座はほぼ埋まっている。互いに時期を逃してしまった、としか言いようがないが、かろうじて保っていた均衡は、王家により破壊された。
今になって解放された公爵家との縁を欲すれば、権力の天秤は容易く傾き、辛うじて保たれていた均衡は覆されるだろう。
新たな派閥か旧来のものか。天秤軸を崩した諸家は、互いに喰い合い潰し合い、たとえ長い歴史を誇る名家であっても無傷とは済むまい。その軋轢は周辺諸国をも巻き込み、やがて牙を剥く。
納め先のない身分。
欲するには、強すぎる魔力と血統。
無視するには、大きすぎる存在。
他国への輿入れについても問題が多々ある。
グラノヴェル公爵家の高魔力血統。国内ならば何の問題もない。が、国外となると——現在の同盟国が未来永劫同じ関係を続けているとは限らない。あからさまに敵対していなくとも、いつ牙を剥くかわからぬ相手に、あの魔力豊富な血統を与える訳にはいかないのだ。かと言って申し入れを素気無く断るのも角が立つ。
「ヨナカーム王国の使者と思しき人物は一週間前から王都内に滞在されている」
「シェラサム国もな」
「どちらも、既に王弟や太子は婚姻済みだ」
「ならば外交とはいえ、王子妃では、利はない」
皆の声はグラノヴェル公爵の耳には届いている。が、公爵が頷くにはほんの少し、僅かに足りない。
「第二王子妃は、隣国皇国の皇太子と同腹の皇女であったな。すでに話は漏れていると見て間違いはない」
「だが、皇太子には国内高位貴族の婚約者がいる。今更覆しはしないだろう」
「ああ。しかし、側近でもある従兄弟の公爵家次男は未婚のはず」
「家格は釣り合うな」
「正室とはいえ次男。釣り合いで見れば、天秤はこちらの方が重い」
第三王子の婚約者としてアナスタシアの存在は諸国に知られている。以前は彼女の才を諸外国に誇っていたが、今はそれが仇となっていた。
第三王子の仄暗い動きを察知し、蠢く諸国は数多ある。その勢力図からも、次の輿入れ先を安易に決められない。
「帝國は?」
「皇帝の帝妃は不在なれど皇妃は数多。今更こちらから差し出す謂れはなし。また帝弟は16歳。敢えて年上の、それも国外の公爵令嬢を選ぶことはない。帝國内で処理するだろう?」
「それより共和国の貿易商の方が——」
「あそこが欲しいのは交易権だ」
探るような声が公爵に向けられるが、沈黙で即座に切り捨てられた。
国力、魔力バランス。考えれば際限がない。
「もう、修道院にお入りいただくしか……」
呟く文官に、グラノヴェル公子は冷ややかな視線を向ける。
「何の瑕疵もない我が妹に退け、とおっしゃるか?」
「い、いえ……そのような……」
「たしか他家へ嫁がれた貴公の妹御も、婚約破談を経ておられたはず」
文官はヴァシリーの言葉に口を噤む。
「他の花に迷うた男との婚約が破談になった程度で修道院に入るべしと言うのは、随分と狭量。それが罷り通るならば、アナスタシアだけの問題では済むまい?」
ヴァシリーはさらりとあたりを見回す。
どの家も多少の行き違いを抱えている。ましてや姻族問題は燃え上がる火種。愛妾、庶子問題は常に燻っていた。誰もこれ以上、余計な火種を燃え上がらせたいとは思わなかった。
議場は瞬く間に諸国の名で埋め尽くされ、再び喧々轟々となる。
誰も彼もが分かっていたことだ。
そして誰も彼もが――アナスタシアを第三王子妃の座に納めることに不満を持っていた。
彼女ほどの魔力と能力ならば、もっと他に――しかし、ではどこに?
問うことも、答えもないまま時は過ぎたが——微妙な時期に王子は動いてくれた——
確かに、第三王子の婚姻に最も執着していた側妃ナターリヤは、実家である南の辺境伯領に宿下りしている。第三王子もその隙を狙い動いたのは判る。
ただ、なぜこの時期を選ぶのか。
なぜもっと早くに決断を下さなかったのか。
もしくは、なぜもっと後に——
今年、隣国に於いて列国戴冠者並びに主権諸侯連合大評議会——いわゆる列冠会議が開催される。三年に一度、加盟国持ち回りで行って執り行われるが、隣国開催であることから、数多の国の重鎮、主幹がこの国に滞在する。その最も警戒すべき期間に——第三王子レオニードが動いた——最高位の魔力を誇る淑女の左席を空けてしまったのだ。
突然降って湧いた婚姻未定のアナスタシアの存在は、嵐の中の小舟。議場から外れた社交の場で、どのような無理難題、駆け引きが繰り広げられるか。
できる限り早く、彼女の左隣は埋めなくては。
分かっていたことだからこそ、予想のつく未来に、みな阿鼻叫喚となっていた。
「シアが退屈しているでしょうに」
小休憩で入れ替えられる茶と共に、ヴァシリーは傍らの父に囁く。
どうせ今日中に決まることではない。
今日は第三王子と公爵令嬢の破局の確認だけで解散しても良かったが、アナスタシアを再び下らない策謀の札にされる前に、釘は刺しておかねばならない。
「あぁ、アナスタシアは商会に向かうそうだ。新しい手袋が欲しいと言ってな」
「手袋、ですか?」
「あの色は要らぬと、飾り結びは居室に捨てて行ったそうだ」
公爵がうっそりと嗤う。
会議中に従者ヨハンより差し入れられた紙片には、そこまで書かれていたのか。
笑いを含んだ父より渡されたその紙片には、ヘイリーとアンナを伴い商会に向かう旨と、言葉通り王子色
の飾り結びを侍女に託したと端的に書かれていた。アナスタシアなりの拒絶の表し方にこちらも笑みが漏れた。
「では新しい首飾りも贈りましょう。シアにはあの色は似合わぬと思っておりました」
「そうだな。明日にでもお前が選んでやれば良い」
「でしたらこの会議も早々に切り上げたいですね」
議会再開の声を聞きながら、ヴァシリーは父の耳元に囁く。
アナスタシアの貴重な時間を浪費した者たちへの制裁は、この程度では済ませるつもりはない。
精々こちらの顔色を窺いながら、愚案を捏ね回していれば良い。
凡庸でありながら、不遜にもアナスタシアを煩わせ続けた第三王子。その足りない頭でも何とか己に見合う下級聖女を娶ることに辿り着いた。その判断は褒めてやろう。
元より公爵家はアナスタシアを一族から出す気はなかった。あの子が生まれた時、王太子は既に次席公爵令嬢と婚約を結んでいた。王国への貢献は、自身が王太子側近となり、次期宰相となることで果たせば良かったのだ。
母エリザヴェータは、運命に翻弄されるしかなかった自身を振り返り、自身によく似た娘の運命をも憂いた。父は母の望みを聞き、寄子から沿う者を選ぶとした。
それを王家は——
領内で穏やかに過ごすはずだった妹を思い、頭を振る。
魔力だけを望み、あの子のあの才に気づかない王族よ。無為無策に第三王子妃程度に押し込め、満足していた無能ども。
なぜ気づかない?
あの子の才。
青灰の瞳と共に、グラノヴェル家が代々守り伝えしもの。
あの子には、物事の意味ではなく“繋がり”が見えている。方々に散りばめられた事象は、あの子の中では最初から一本の線だ。
誰も気づかぬか。
この公爵家の隆盛の理由を。
西方の砂嵐の噂は東方の絹へと繋がり、やがて街道整備と荷の増加へ変わった。あれは予測ではない。あの子が見ているのは結果ではなく、その先に続く未来だ。
公爵家は、その道を整えるだけで良い。
望むならば隣国の取引も整えよう。
砂漠の民の品でも、流浪の民の珍品でも、あの子の瞳が輝くものなら世界の果てからでも集めてみせる。
ほぅ、と息を吐く。
全て今更。
どうでも良いことだ。
あの子の才は、公爵領の政に振るえば良い。
その才を見誤った王家は、公爵領が益々隆盛を極める様を、指を咥えて見ていれば良い。
アナスタシアの青灰の瞳に宿る熱を測り違える者など不要。存分に羽ばたけるよう場を拡げる者を――
いや。淑女の手袋に添える飾り結び、今しばらくは父と私の色で良い。
そう、飾り結びの色は——
ふと、違和感を覚えた。
先程読んだ紙片――気晴らしに商会に顔を出すのはいつものことだ。
商会へ行く?
商人とは本来、屋敷に呼ぶもの。
それを、入荷報告のたびに喜び勇んで向かうアナスタシア。
いつもと変わらない。変わらないが——
眉尻を下げるだけのアンナ。
無茶はしないように、の言葉には、シオがいるからできないわ、と笑った。幼い頃より慣れ親しんだシオの言葉を、アナスタシアはよく聞く。
ヘイリーでは、魔力の強いアナスタシアの願いを退けることは難しい。
――何故、今になって――
心臓が軋む。
約束は守っている。
少なくとも、ここ最近は。
最後にシオが強く諌めたのは、
――姫様は商会より奥に、旧貴族街まで行きたいと仰せでした――
シオの報告が頭の中で繰り返される。
旧貴族街の外れは、商街に飲み込まれて久しい。
だが、奥には――外れに建つ離宮は――
余計なものが目に入らぬよう、アナスタシアの行動範囲は精々商会までに留めていたというのに。
今になって、シオを伴わぬ、ということは——
あの妹は、手袋を――
「ち……父上……」
深く息を吐き、動揺を覆い隠す。
が、視線の揺れは誤魔化せないようだ。
父上の眉が僅かに潜められる。
「シアに……やはりアナスタシアに付いていてやりたいと思います」
頭の中に白い靄がかかる。
一つの冷たい予感が背を這い上がり、喉をそっと締める。
息が苦しい。
冷や汗が、こめかみを伝った。
「ヴァシリー?」
「父上、シアが……」
自分の動揺に、父上は何を読み取ったのか。眉を顰め、視線を扉に向ける――行けということだ。
あぁ……
取り越し苦労でも良い。
私の読み違いでも構わない。
この場は父上に。
ヴァシリーは――先を急ぐ妹の後を追う。




