4-春の嵐
「アンナ、ヘイリーを」
庭園から西の宮へ設えられた公爵家の居室に着き一息つくなり、アナスタシアは伴った侍女に指示を出す。ヘイリーは公爵家の御者だ。
「アナスタシア様、ですが本日は閣下をお待ちになり、ご一緒にお戻りになると承っております」
「会議は終わっていないわ」
「はい……ですが、本日は閣下もヴァシリー様も――」
「でも気分直しに商会に寄りたいの。先日東方から珍しいものを仕入れたと聞いたわ」
茶器をテーブルに戻し、小さなクッキーを摘みながらアナスタシアは微笑む。
いつもと変わらない空気。しかし、アナスタシアの言葉に、専属侍女のアンナは額ずくほかない。
先程のガゼボの件、アンナの立ち位置までは声は届かなかった。が、王子の唇の動きはずっと追っていた。読み取った内容に、アナスタシア以上に気分が悪くなったのは確かだ。
「ですが、ヘイリーですか?」
「お疲れになるお父様と兄様にはシオを残してあげたいの」
いつものアナスタシアは老練な馬車操作のシオを選ぶ。が、自身のことで会議が紛糾し、時間も掛かることが心苦しいのだろう。凛とした彼女にしては珍しく、眉尻がわずかに下がっている。
「かしこまりました。マリーはヘイリーに支度をさせてちょうだい。ヨハンは旦那様に商会に寄ってから帰宅する旨を申し上げてください。ですが姫様、先程から雷が…」
「ええ。だから急いで。でも春の嵐だもの、建物に入ってしまえば問題ないでしょう?」
窓を叩く雨粒は数を増やし、腹の底に響く雷鳴も圧を増すが、春の嵐は足が速い。
アナスタシアが視線を向けると、従僕は静かにその手を取った。優雅に立ち上がったアナスタシアは、アンナに微笑みかける。
「東方のシルクレースの手袋が欲しいわ。飾り結びの色はお父様の蒼か兄様の水色か。もう少し薄い色の方が良いと思わない?」
「……ではいっそのこと他の手袋の飾り結びも全て変えてしまいましょう」
「そうね。この青はもう要らないわ。あなた、もうこれは処分しておいてくださる?」
アナスタシアは手袋から飾り結びを抜き取り、部屋付きの王宮侍女に手渡す。
細かな真珠の縫い込まれた濃紺の飾り結びに、侍女の手は僅かに震えていた。
◆◇◆
「姫様、雨足が……本日は、やはりお屋敷にお戻りになりませんか?」
馬車の窓を叩く雨粒が増している。遠雷も段々と近づく中、アンナはそっとアナスタシアを伺った。
王宮から貴族街を抜けた先に商街があり、今はまだ低位の貴族街だ。行くも帰るも変わらない。
「良いのよ。真っ直ぐ行ってちょうだい」
「ですが……」
「ヘイリー、速度をあげて」
アナスタシアは扇を振り、魔導管を開くと指示を出す。
「姫様?」
「確かに春の嵐に追いつかれるのは面倒ね」
王城から公爵邸までは馬車で少し揺られる程度か。そこからさらに同じほど進めば、貴族街を抜けて商街に出る。
美しく整った街並みと道。
今は悪天候でまばらな人影も、普段は明るい表情の民で溢れている。
「平和は美しいわね」
「姫様?」
憂のない世界。
「今しかない、と思わない?」
「あの……何が……」
「飢饉もない、流行病も戦争もない。今こそ発展を求める最高のタイミングなのよ」
「え……ええ。難しいことはよく分かりませんが、新しい何かを進めるには、何の問題もありませんでしょうね」
けれど第三王子は――
当たり障りのない、無難な選択。
出された案に頷くだけで、更なる掘り下げも、展開もない。悪くはない――が、その程度に何を満足しているのだろうか? 少し手を加えるだけで、更なる改善となるだろうに。
今少し無理ならば、僅かな回り道もあるだろう。
何故問わない?
何故学ばない?
何故変えない?
何故――満足してしまうの?
レオニード殿下は言った。
それは王や兄上の考えることだ、と。
嗚呼……つまらない。
つまらない
つまらない
私の終生の仕事は、こんな男の横で微笑んでいることか?
こんな男の為に、命懸けで血を繋ぐのが私の役目だと言うのか。
何の研鑽も向上も無い男の横で貼り付ける無意味な微笑み。
才も魔力もこの身体も未来も、領地に、この国に捧げてもなんの問題もない。
与えられた義務と責任に不満はなかった。
しかし——このままでは、私は息をするだけの死体だ。
私の世界が色褪せて行く。
家族に愛され、
最高の知識を得る機会を与えられ、
莫大な魔力を誇る。
なのに——返せるものがこの程度なの?
領地を巡り、
領地の最善を探したかった。
国政を語り、
国政に携わり、
父や兄と同じものを目指したかった。
じっと手を見る。
白く嫋やかな手は、ペンや剣を持つことはない。
与えられた未来に唯唯諾諾と従うのが最善。
違う。
私はただ――この熱意の先を、自分のこの手で選びたいだけ。
では、欲しいと伸ばす私の指の先はどこに向かうのか?
――見つけられない。
そんな鬱々とした日々の中、貴族学院の書棚の隅に埋もれていた数枚の手記を手にした。
ただ、一人の女性の悲しみと決意には見覚えがあった。
十年ほど前の話か。
意に沿わぬ上位貴族の無理難題に令嬢自ら公娼館の扉を叩き、市井に逃れたという。
女として、莫大な代償を支払ったと聞かされていたが——
手にした数枚の紙片を持つ手が震えた。
心臓の高鳴りと共に湧き上がる歓喜——これは自由を手に入れた話だ。
「アンナ、私はね、この身で世界を巡りたいの。心惹かれるもの全てを、自分の目で確かめたいのよ」
閉じ込める王宮など檻でしかない。
それらを——身分という柵さえ振り払うために。
「だからヘイリー、速度は落とさないで」
「お嬢様?」
「真っ直ぐに」
「ですが、この先は――」
「急いで。真っ直ぐに進みなさい」
アナスタシアの声に魔力が乗る。
駈ける馬の脚に力が籠る。
「姫様っ!」
「アンナ、私は私を選ぶためにエルミタージュへ向かうのよ」
アナスタシアは、鮮やかな華の笑みと共に謳う。




