2-鏑矢
王族への挨拶は、貴族の序列を如実に示す。
本来ならば王妃の実家であるノクティノフ公爵家か、或いは王太子妃の実家オルディネフ公爵家が筆頭であろう。が、現実は夜会冒頭の挨拶は、建国より変わらないままグラノヴェル家だった。
――当然だろう。このホールに集まる貴族たちは皆思う。
今、変えるわけにはいかない。
変えてはならない。
今宵、グラノヴェル家の――否、当主グラノヴェル公爵ただ一人の感情は、雷霆の如く王家へと向けられていた。
それは王家に刻まれた禍胎。
それにより王国は歪むのか、軋むのか。
或いは隙を突かれ、外患に晒されての霧散か。
誰にも分からない。
皆、固唾を飲み、成り行きを見守っていた。
「佳き季節の折、王家の御方々におかれましては御健勝と王国の益々の御発展を」
玉座の前に片膝を着いたグラノヴェル公爵の口から、最低限の型通りの言葉が紡がれた。
以前であれば、この後二、三の軽口もあっただろう。
しかし――何の感情も示さず、ただ音が連なるだけの言の葉の後は沈黙が落ちた。
父の後方に控えたヴァシリーもまた、定められた角度で静かに身を折り、アナスタシアもカーテシーのまま。誰一人、僅かな揺らぎもない。
「……ああ、グラノヴェル公爵家も恙無く過ごされることを願う」
王は小さく溜め息をつき、形式に則った声を返す。今は未だ、建国以来の忠誠心で辛うじて繋がっているが、この一年に満たない期間で、王家と公爵家の距離は果てしなく離れてしまっていた。
今は何がきっかけで破断するか分からない不安定さ。そして定型の言葉にさえも、グラノヴェル公爵は皮肉げな視線を向けた。
「恙無く?」
冷え切った青い光。
歴代王族の降嫁、公爵家よりの輿入れもあったため、その瞳の色は王族に最も近しい。
しかしそこには何の温かみもなく、寧ろ纏う魔力が辺りの気温を一気に下げた。
「今……恙無くと下知くだされたか?」
地を這う公爵家当主ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・グラノヴェルの声に、様子を窺っていた者たちの視線がそっと逸らされる。
今、王の前に在るのはグラノヴェル公爵、継嗣ヴァシリー、そして――アナスタシア・エルミタージュだった。
王家の重ね重ねの失態に、全ての帰結を一身に負った公爵家嫡女だったアナスタシア。
グラノヴェル家の挨拶に同行していながら、彼女の立場はグラノヴェル家に後援される者。
その姿を前に、壇上の王妃と王太子妃、王子妃の表情が強張り、己の左手をそっと右手で覆う。彼女らの左手薬指の爪は艶やかな美しい色を纏い、その揺るぎのない立場を示しているからだ。妻紅――正室の座の証左。
そして、その傍らで第三王子の婚約者となった聖女ラーナは、白手袋に包まれた己の手を強く握り締めていた。
――皆の視線が、誰知らずアナスタシアの黒手袋に注がれる。
彼女は生涯手袋を外すことはない。歳を重ね、その呼び名からエルミタージュが消えたとしても、その爪紅に染められた色が戻ることは永遠にないからだ。
その立場に追いやったのが、今この壇上に立つ第三王子レオニードと第三王子の婚約者である聖女ラーナ。
本来ならば、アナスタシア、彼女こそが今宵壇上で全ての貴族から挨拶を受ける立場だった。
公爵家の至宝と呼ばれ、王家の希望で結ばれた婚約――なのに解かれたのもまた王家の望みだった。
そこから齎された結末は、誰も予想だにしなかった。
だが、今更覆ることもない。
グラノヴェル公爵の怒りを皆理解していた。
「何を以て恙無く、と仰られるか」
「……父上」
父の凍える声に、ヴァシリーの胸にも抑えていた感情がさざめいた。
が、その凍えた間を、嫋やかな声が止める。
「グラノヴェル公爵、ヴァシリー公子、本日は私のお披露目の場でもございます。どうかご挨拶はここまでに、あちらで皆様にご紹介くださいませ」
アナスタシアの言葉にヴァシリーもふっと息を吐き、目を閉じた。
――我に返る。
全ての帰結を一身に負ったアナスタシア。
彼女が最も冷静だった。
「父上、これ以上は……」
ヴァシリーが低い声で囁く。
この場、この時。
グラノヴェル公爵家の不満を表したのはこれで充分、と。
そしてヴァシリーの動きに、王族側も王太子が動いた。壇を下り、膝を着いたままの公爵の肩に手を添え言葉を掛ける。
「グラノヴェル公爵、今少し時間を……訪問をお許し願いたい」
「……アレクシー王太子殿下」
アレクシー殿下の言葉に、グラノヴェル公爵の渋面が濃くなる。
ひと月前の列冠会議以降、グラノヴェル家は領地に引き篭もり召喚状は悉く断ってきていた。
今宵ようやく——アナスタシアのためだけに姿を現したといって良いだろう。
彼女が今まで通り尊ばれるように、これから先侮られぬように。公爵家は瑣末も見逃さぬという、無言の意思表示。
同時に、それは王家への威圧でもあった。公爵家はこの仕儀決して許すまじ、と。
「誹りは甘んじて受けよう。まずは、対話を」
公爵を見据えるアレクシー王太子の視線には、強い力が籠っていた。
「改めての刻を」
王太子はなおも言葉を続ける。
見守る貴族たちも、敢えて言葉にしないが誰もが気づいてはいる。
王家が件の原因と結果であり、これから起こる全ての責任を王家が負うのも当然。
しかし、ここで公爵が王太子の言葉を拒むは王国をも拒むということ。
そこまでは公爵の本意ではあるまい。
それでも——
「どのようなお言葉をいただこうとも、何が変わるとも思えませぬが」
忠義と感情の揺らぎが収まるまでは、しばしの時間が必要か。公爵は、王太子の言葉に鉾をおさめるでもなく、ただ冷ややかな言葉を残し退いた。その公爵家を、壇上の王族たちは見送るしかなかった。
そして――レオニード第三王子は、強張った表情のまま見ているだけで、身動き一つできなかった。
アナスタシアの黒手袋を間近にして怯えるラーナ。彼女の手は白手袋に包まれている。その手を伸ばすラーナの肩を、抱くことすらできない。自身もまた、間近にした黒手袋に衝撃を受けていた。
そんなつもりは、なかった。
こんなことになるとは、思いもしなかった。
誰よりも美しかった白い指。
誰よりも美しく輝くはずだった彼女の爪が——永遠に隠されるものとされるなど――
しかし、ラーナを王家に迎えることに迷いはなかった。ラーナを側に置きたいと望んだだけだったのだから。
だが、それ以上に誰よりも優秀で素晴らしいアナスタシアならば、もっと相応しい未来があると思っただけだった。
アナスタシアを、第三王子妃という限られた世界から解放してやりたかった。
だから、あの婚約解消は、自身にも、アナスタシアを自由にするという意味でも――最善だった。
そう信じていた。
アナスタシアが声を震わせながらも婚約解消を受け入れ、毅然と微笑み立ち去る姿を見送った時にも。
あの日の彼女の微笑みは、かつてないほど――美しかったのだから。
喉の奥がひくりと鳴った。
心より、身体が応えた。
過去は——もう変えられない。




