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春雷〜つまくれない〜  作者: 碧海 久


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2/18

2-鏑矢

王族への挨拶は、貴族の序列を如実に示す。

本来ならば王妃の実家であるノクティノフ公爵家か、或いは王太子妃の実家オルディネフ公爵家が筆頭であろう。が、現実は夜会冒頭の挨拶は、建国より変わらないままグラノヴェル家だった。


――当然だろう。このホールに集まる貴族たちは皆思う。

今、変えるわけにはいかない。

変えてはならない。


今宵、グラノヴェル家の――否、当主グラノヴェル公爵ただ一人の感情は、雷霆の如く王家へと向けられていた。

それは王家に刻まれた禍胎(かたい)。

それにより王国は歪むのか、軋むのか。

或いは隙を突かれ、外患に晒されての霧散か。


誰にも分からない。

皆、固唾を飲み、成り行きを見守っていた。


「佳き季節の折、王家の御方々におかれましては御健勝と王国の益々の御発展を」


玉座の前に片膝を着いたグラノヴェル公爵の口から、最低限の型通りの言葉が紡がれた。

以前であれば、この後二、三の軽口もあっただろう。

しかし――何の感情も示さず、ただ音が連なるだけの言の葉の後は沈黙が落ちた。

父の後方に控えたヴァシリーもまた、定められた角度で静かに身を折り、アナスタシアもカーテシーのまま。誰一人、僅かな揺らぎもない。


「……ああ、グラノヴェル公爵家も恙無く過ごされることを願う」


王は小さく溜め息をつき、形式に則った声を返す。今は未だ、建国以来の忠誠心で辛うじて繋がっているが、この一年に満たない期間で、王家と公爵家の距離は果てしなく離れてしまっていた。

今は何がきっかけで破断するか分からない不安定さ。そして定型の言葉にさえも、グラノヴェル公爵は皮肉げな視線を向けた。


「恙無く?」


冷え切った青い光。

歴代王族の降嫁、公爵家よりの輿入れもあったため、その瞳の色は王族に最も近しい。

しかしそこには何の温かみもなく、寧ろ纏う魔力が辺りの気温を一気に下げた。


「今……恙無くと下知くだされたか?」


地を這う公爵家当主ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・グラノヴェルの声に、様子を窺っていた者たちの視線がそっと逸らされる。

今、王の前に在るのはグラノヴェル公爵、継嗣ヴァシリー、そして――アナスタシア・エルミタージュだった。

王家の重ね重ねの失態に、全ての帰結を一身に負った公爵家嫡女だ(・)っ(・)た(・)アナスタシア。

グラノヴェル家の挨拶に同行していながら、彼女の立場はグラノヴェル家に後援される者。

その姿を前に、壇上の王妃と王太子妃、王子妃の表情が強張り、己の左手をそっと右手で覆う。彼女らの左手薬指の爪は艶やかな美しい色を纏い、その揺るぎのない立場を示しているからだ。妻紅(つまくれない)――正室の座の証左。

そして、その傍らで第三王子の婚約者となった聖女ラーナは、白手袋に包まれた己の手を強く握り締めていた。


――皆の視線が、誰知らずアナスタシアの黒手袋に注がれる。

彼女は生涯手袋を外すことはない。歳を重ね、その呼び名からエルミタージュが消えたとしても、その爪紅(つまくれない)に染められた色が戻ることは永遠にないからだ。


その立場に追いやったのが、今この壇上に立つ第三王子レオニードと第三王子の婚約者である聖女ラーナ。


本来ならば、アナスタシア、彼女こそが今宵壇上で全ての貴族から挨拶を受ける立場だった。


公爵家の至宝と呼ばれ、王家の希望で結ばれた婚約――なのに解かれたのもまた王家の望みだった。


そこから齎された結末は、誰も予想だにしなかった。

だが、今更覆ることもない。

グラノヴェル公爵の怒りを皆理解していた。


「何を以て恙無く、と仰られるか」

「……父上」


父の凍える声に、ヴァシリーの胸にも抑えていた感情がさざめいた。


が、その凍えた間を、嫋やかな声が止める。


「グラノヴェル公爵、ヴァシリー公子、本日は私のお披露目の場でもございます。どうかご挨拶はここまでに、あちらで皆様にご紹介くださいませ」


アナスタシアの言葉にヴァシリーもふっと息を吐き、目を閉じた。

――我に返る。

全ての帰結を一身に負ったアナスタシア。

彼女が最も冷静だった。


「父上、これ以上は……」


ヴァシリーが低い声で囁く。

この場、この時。

グラノヴェル公爵家の不満を表したのはこれで充分、と。

そしてヴァシリーの動きに、王族側も王太子が動いた。壇を下り、膝を着いたままの公爵の肩に手を添え言葉を掛ける。


「グラノヴェル公爵、今少し時間を……訪問をお許し願いたい」

「……アレクシー王太子殿下」


アレクシー殿下の言葉に、グラノヴェル公爵の渋面が濃くなる。

ひと月前の列冠会議以降、グラノヴェル家は領地に引き篭もり召喚状は悉く断ってきていた。

今宵ようやく——アナスタシアのためだけに姿を現したといって良いだろう。

彼女が今まで通り尊ばれるように、これから先侮られぬように。公爵家は瑣末も見逃さぬという、無言の意思表示。

同時に、それは王家への威圧でもあった。公爵家はこの仕儀決して許すまじ、と。


「誹りは甘んじて受けよう。まずは、対話を」


公爵を見据えるアレクシー王太子の視線には、強い力が籠っていた。


「改めての刻を」


王太子はなおも言葉を続ける。

見守る貴族たちも、敢えて言葉にしないが誰もが気づいてはいる。

王家が件の原因と結果であり、これから起こる全ての責任を王家が負うのも当然。

しかし、ここで公爵が王太子の言葉を拒むは王国をも拒むということ。

そこまでは公爵の本意ではあるまい。

それでも——


「どのようなお言葉をいただこうとも、何が変わるとも思えませぬが」


忠義と感情の揺らぎが収まるまでは、しばしの時間が必要か。公爵は、王太子の言葉に鉾をおさめるでもなく、ただ冷ややかな言葉を残し退いた。その公爵家を、壇上の王族たちは見送るしかなかった。


そして――レオニード第三王子は、強張った表情のまま見ているだけで、身動き一つできなかった。


アナスタシアの黒手袋を間近にして怯えるラーナ。彼女の手は白手袋に包まれている。その手を伸ばすラーナの肩を、抱くことすらできない。自身もまた、間近にした黒手袋に衝撃を受けていた。


そんなつもりは、なかった。

こんなことになるとは、思いもしなかった。


誰よりも美しかった白い指。

誰よりも美しく輝くはずだった彼女の爪が——永遠に隠されるも(・)の(・)とされるなど――


しかし、ラーナを王家に迎えることに迷いはなかった。ラーナを側に置きたいと望んだだけだったのだから。

だが、それ以上に誰よりも優秀で素晴らしいアナスタシアならば、もっと相応しい未来があると思っただけだった。

アナスタシアを、第三王子妃という限られた世界から解放してやりたかった。

だから、あの婚約解消は、自身にも、アナスタシアを自由にするという意味でも――最善だった。

そう信じていた。


アナスタシアが声を震わせながらも婚約解消を受け入れ、毅然と微笑み立ち去る姿を見送った時にも。

あの日の彼女の微笑みは、かつてないほど――美しかったのだから。


喉の奥がひくりと鳴った。

心より、身体が応えた。


過去は——もう変えられない。


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