1-黒の夜会
シャンデリアから降り注ぐ光の粒が、様々な色のドレスに身を包んだ淑女たちを輝かせている。
外を渡る秋風など届かぬとばかりに、ホールは熱気に溢れ、人々は笑いさざめいていた。
「――様」
呼びかけに、彼女は青灰の瞳を細め見返した。
若く、この上なく美しい女性だった。
長いプラチナの髪は複雑に結いあげられ、髪飾りは、銀細工の鈴蘭に青みを帯びた黒真珠をあしらったもの。そして蠱惑的な美しい曲線を描く黒ドレスは、絹のとろみを帯びた光沢を放ち、黒く艶やかな刺繍はホールの灯を受けて細かな紋様を浮かび上がらせる。垂らした飾り結びも青灰と銀。その指先は——漆黒の手袋に隠されていた。
「カルヴ、あの女性も?」
北方の小さな領地の継嗣指名を受けたばかりの伯爵令息は驚いたように問い、カレヴィルは何でもないことだというように頷く。
「ああ、彼女らの中でも最高位、エルミタージュの貴婦人だ」
王城の社交シーズン中日の夜会。
初日の夜会が令嬢、令息たちのデビュタントならば、今宵は彼女らの社交界へのお披露目。
「今宵の黒のドレス、黒手袋は皆そうだ。社交界で恥を掻きたくなければ、顔を覚えておけ。手袋の女性は目印にはならないぞ。未亡人、婚約者持ちの令嬢もいるからな」
ほぼ黒しか纏っていないというのに、艶やかに華やぐ女性たち。彼女らは特定の夫を持たぬ貴婦人――公娼と呼ばれる者たちだった。
中でも、殊更華やかな彼女ら。
この日までに【爪紅】の儀を終えた彼女たちは、ここが初舞台とは思えぬほど堂々と挨拶を受けていた。
そしてその中でも異彩を放つのは、ユリアス王弟殿下管理の公娼館エルミタージュの公娼妃たち――この国の社交や外交の一助たる淑女であった。中央より離れた領地ゆえの知識不足をカレヴィルは補うように、そっと伝える。地方と中央、最大の違いは彼女らの存在だろう。
視線の先、色とりどりのドレスの中でも人目を引く彼女らは、大抵歳の離れた男たちのエスコートを受け、微笑みさざめいていた。
「エスコートの相手にも気をつけろ。多少の入れ替わりはあるにせよ、最大の後援者――人脈の源だ」
「はぁ。しかしそれにしても美しいですね」
「ああ。そして極上だ」
マナー、会話、知性。どれを取っても最上級。人と人、人と地、地と地を繋ぐ彼女らは、社交に於いてもどのようなカードを隠し持っているか計り知れない。年齢を、身分を、性別を超えた繋がりを齎す。
従兄弟の誼で、中央官僚や貴族を繰り返し紹介していたが、自身の本命はこちら。彼女らは領地運営に必要な人脈を繋ぐ、重要な架け橋だ。関係を疎かにはできない。
「それに、あの御方は特別だ。声を掛けてみるか?」
「許されるのか?」
「王城夜会の思い出だ。だが、彼女の指先に触れられるとは思うなよ」
小さく笑い、ゆったりと余裕を示すように歩み寄る。
一年前は、大きな身分差にここまで彼女に近づくなど考えもしなかった。
「アナスタシア様」
「カレヴィル様? お声かけいただくのは随分とお久しぶりですわね」
掛けた声に、彼女は優雅な所作でこちらを向き、応えてくださった。
「卒業式以来になりますでしょうか」
「あら、劇場のロビーではたびたびお見かけしていたのですよ。マリエラ嬢を伴われていたので、こちらからは控えさせていただきましたけれど。エインズハース伯爵はお元気でらっしゃいます?」
「はい。ですが領地よりの馬車移動に手間取り、今宵の夜会には間に合いませんでした」
「まぁ! お会いできないのは残念ですが、今時期の北の雨は恵みの雨。今年の燕麦は豊作が期待できますわね」
彼女の言葉に頷く。
考える素振りなど微塵もなく、流れるように返される言葉。彼女の才の一端にすぎない。
「あの……」
「ああ、申し訳ない。アナスタシア様、こちらは――」
「お待ちになって」
彼女は黒繻子の扇で口元を隠し、悪戯な微笑を浮かべる。
「黒髪に翠の瞳。エインズハース家のカレヴィル様のお連れ様――なのにお会いしたことはございませんね」
「あ……はい」
「ふふっ……北方の、シュラーデン伯爵夫人に先日ご指名されたミハエル様でしょう?」
彼女が誇らしげに青灰の瞳を輝かせて語ったことに、些かの間違いもなかった。
思わず目を見開く。
幾人もの庶子の中から勝ち得た継嗣の座ではあるが、王都では噂に上ることもない些細なこと。それを易々と言い当てられるとは、思いもしなかった。
「あの……」
「あら、ごめんなさい。私、間違えてしまったかしら?」
返答が遅れたせいで気まずげに僅かに下げられる眉尻と、困ったような視線の揺らぎ。そんな戯れは、貴族令嬢ならば、ギリギリ許されるか否か。
その覗かせた感情の揺らぎに、全身を巡る血が熱を帯びる。
「アナ――」
「ミハエル・シュラーデン継嗣で合っているよ、アナスタシア。エインズハース伯爵令息、会話中失礼する」
最後まで名を呼ぶことは許されなかった。
当然だ。
彼は――
「ヴァシリー公爵令息。折角お声掛けいただいておりましたのに。横からのお声掛けは、ね。少しお待ちいただけないのかしら?」
扇を揺らして抗議する彼女の髪にそっと唇を寄せるは、彼女に最も近しい者。
「待つわけなかろう? アナスタシア。待ち合わせていたのは私だ。それよりなぜ兄と呼ばず、敬称を付ける?」
「もう、兄とお呼びする間柄ではありませんもの。当然よ」
悲しげな公子の問いに、黒繻子の扇を揺らしてアナスタシアは目を細め、微笑む。
「そんなことを言うものではない。さぁ、アナスタシア、父上がお待ちだ」
ヴァシリー公子の視線を追えば、その先にはグラノヴェル公爵の威風堂々たる姿があった。
伯爵令息たちは慌てて居住まいを正し、黙礼する。派閥こそ違えど、軽々しく引き留めることなどできはしない。
緊張で強張る二人へ、ヴァシリーは冷ややかに一瞥する。彼女への接近、これを快く思っていないことを隠す気もないらしい。
そのままアナスタシアの手を取り、間へ割って入るように前へ出る。
――これ以上の接触を拒むように。
「お待ちになって、兄様」
「アナスタシア?」
「エルミタージュの館でお待ちしておりますわ。ミハエル・シュラーデン伯爵令息」
アナスタシアは、兄呼びでヴァシリーの足を一瞬だけ止めさせ、微笑みと共にさらりと言うと踵を返す。
「アナ……」
「ミハエル」
友に止められ、最後まで名を口にすることはできなかった。
微笑みは視界から消え、ミハエルはただその黒のドレスを見送るだけだった。




