16-開演
「アナスタシア、少し甘くないか?」
「フルミントワイン、私にはちょうど良いお味でしたが……兄さまのお口には合いませんでしたか?」
ボックス席に収まり、演目録を捲るアナスタシアの視線は冊子から離れない。
随分と前から、アナスタシアが楽しみにしていたからこそのこの誘いだったが……
「……分かっているだろう? 伯爵家が社交不得手だからとシアを頼るのは——」
「お気に召しません?」
「ああ、気に入らぬ。社交が苦手と言い続けてのあの体たらく。夫人もこの程度で君を頼るなど」
「兄さま、ですがあの香料、私にも色々使い道があるのです」
「使い道? そのようなもの、公爵領で作れば——」
「採算が合いません。試しに使いたいだけですのでほんの少しで良いのです。でも、もし使えるようでしたなら、兄さまにお願いしますね。ただ、今はまだそこまでは行ってませんわ」
見上げてきた青灰の瞳は、どこか悪戯気な色がある。
「ね、兄さま。決して私を安く見積もっているのではないのです。ご機嫌を直してくださいまし。折角の観劇、私、とても楽しみにしておりましたの」
豪華絢爛な緞帳に視線を向ける。
国立劇場での演劇、グラノヴェル家ではボックスを押さえているが、こうして二人で出掛けるのはいつぶりだろうか。
「シアが楽しみにしていたのは、この演目の再演を、であろう?」
「あら、私が楽しみにしているのはいつだってヴィーシャとのお出掛けをですわ」
「相変わらずお前は小狡いな」
不意に呼ばれた愛称に、笑みで返すしかない。小狡いと呟きながらも、肩口に垂れていた髪に指を絡め、滑らかな手触りに目を細める。
絡めた指先から立ち昇る香油の柔らかな香り。鼻腔をくすぐる甘やかさに、自然と笑みが浮かんだ。
「アナスタシア、何かあれば必ず私に言いなさい。お前の望みはこの兄が全て叶えてやろう」
「ええ、では先ずは私の隣に。幕が上がりますわ」
余りにも小さな望みに小さく溜め息を漏らす。目を離すと、何処かに飛んでいってしまいそうになるこの可愛い妹を、いつまで捕まえていられるだろうか。
柔らかな調べと共に美しい織り目の緞帳が静かに上がる。それを視界の端で捉えながら、アナスタシアから目を離すのが、とても恐ろしいと思った。
◆◇◆
アナスタシアとの邂逅を願う声は花となって積み上がる。
先日の下位貴族のやらかしと処分は、学院内どころか王都を駆け抜けた。
親世代は青ざめ、改めて公娼について言い含める。
全ての始まりは公娼。
夫を失った社交上手の未亡人が仲立ちとなり、数多の領地、人々との仲立ちとなったのが始まりだと。子を成さぬ胎故に、望まぬ閨事にも関わったが——彼女が呑んだ涙の数だけ、世の中から荒事が無くなったのだと。
やがて彼女は王家により保護された。新たな職種——公娼として。
娼婦はその公娼の仕事の一部を切り取り歪めたものだと。
ただ、絶対的人数と関わる案件の少なさに、平民の言う娼婦という存在が幅を利かせている。しかしながらこの世界、今も公娼達の仲立ちで諍う領地、国、人が繋がるのだと。
未通の淑女が公娼となる時、爪紅の儀を行うことで、子を巡る争いから降りることを宣誓する。その尊き儀を穢すことは、少なからぬ恩恵を受けてきた貴族たる者、許されざることだと。
そしてアナスタシアの場合、国政的な意味合いでエルミタージュに一時的に身柄を置いている可能性があるのだと。しかし、王子妃とまで望まれたアナスタシアならば、このまま、国と国を繋ぐことも可能ではなかろうかとの思惑も否定できなかった。
「側妃が動いた」
「ナターリヤ様が? 今更?」
「ああ。今更だ。朝議の折、東の渡り廊下で捕まった」
渋面を作る父に笑ってしまった。
ルートを固定せず避けまくっていたが、約1ヶ月。よくもったものだ。
「それで何と?」
「第三王子には言い含める故、再度の婚約を」
「シアがエルミタージュに駆け込んだのは想定外ですが、元より婚約解消はこちらも望むところ」
「ああ、ひと睨みで逃げ出すかと思ったが、実家のベリンスカヤ南方辺境伯が出てきた」
「今の辺境伯は——」
「ナターリヤ側妃の実兄。昔から妹に振り回されている。その上自分の孫のお披露目で宿さがりさせていた最中の出来事。無碍にはできなかったのだろう。魔石鉱山を二つ付けてきた。一つは今回の解消の慰謝料、もう一つは再婚約の手付だそうだ」
「なりふり構ってませんね」
「よほど魔力が欲しいらしい」
「魔石は在れど、中身は無し」
「辺境伯の血筋、魔力量も決して少なくはないが……」
「グラノヴェル家ほど……アナスタシア程はなかなか」
領地を持たぬ弱小下位には縁のない話。
しかし治める領地が広がれば広がるほど必要とする魔力量は格段に増えていく。
「父上、今期、領地の方は?」
「問題ない。アナスタシアも王家との縁も切れ、我々が納める魔力量に忖度はない」
「辛いは王家のみ、ですか……」
「あの第三王子に付ける薬を渋った結果だ。我々が気にすることではない」
「王領を取るか、下賜する量を減らすか」
「その程度、王妃のノクティノフ家か王太子妃のオルディネフ家が何とかするところであろう?」
父は嗤う。
第三王子の愚行は王家が統制を取らなければならなかった。全てはそれを怠った結果。
「それと父上……アナスタシアのデビュタントドレスですが——」
視線が突き刺さる。
「最上のものを」
「ええもちろんです」
「白を」
「ですが……」
「黒は……致し方ない。アナスタシアの意思を尊重しよう。しかし白も用意しておくように」
何の意味があるか。
しかし、父の拳に力が籠るのが見て取れる。
どちらの考えも、気持ちも、想いも解るだけに——
「アナスタシアは黒を望むでしょう」
「夜会へはアナスタシアが望むものを」
父も理解している。
しかし家族だけの夕食会は——
次回、22日20時…にできればイイナ
17-優しい社交




