15-花、香る
アナスタシア・エルミタージュの花紋が決まった。
鈴蘭——だそうだ。
艶やかな薔薇でなく
薫る百合でなく
咲き誇る牡丹でもない。
なぜ? と問うた声には、彼女は微笑むだけだったそうだ。
それでも、瞬く間に王都に広がった花の名。囁く名の花と共に、エルミタージュへ願うは容易。しかし、鈴蘭の描かれたカードを受け取るは至難の業。
花の描かれたカードは新たな繋がりへの切り札。大望を抱く野心家の、最大の『よすが』となった。
そして——この花そのものを返すは、彼女自身の応えとなる。
◆◇◆
花の香りで、室内は咽せ返るほどだった。
アナスタシアとの関わりを願う花——願花を贈ることは誰にでもできること。しかし——今はまだ学院生であるアナスタシアから、鈴蘭の花が返されることはない。
今はただ、カードが返されるだけ。
そこに花紋の鈴蘭が描かれていれば、是。
なければ、否。
分かりやすい応えだった。
ただ、公爵令嬢から公娼となったことで、交流の制限はほぼ取り払われた。派閥を越えてさまざまな階位の令嬢、令息、商会から、茶話会やらサロンの紹介依頼が来る。
後援である公爵家の意向もあるだろうが、それでも中位下位からの誘いにも、アナスタシアの意思で鈴蘭のカードを返していた。
——喜んでお伺いします。
——良き友をお誘いしても?
繋がる縁に喜ぶ者。
頬を染める者。
望む縁は人それぞれだったが、アナスタシアが紡ぐ縁は広く深い。
今は夜会や晩餐会の誘いは減ったようにも思える。が、それは後援の公爵家へ直接出されているからだった。
ただ以前は毎週末に詰め込まれていた様々な夜会晩餐会は土の曜のみとなり、日の曜はグラノヴェル公爵家の家族だけの晩餐となっていた。
アナスタシアは手元の招待カードと予定表に視線を落としたまま口を開く。
「日の曜は、ルリエラ様よりのお茶会のはずですが?」
「………………その日は公子様と観劇となっておりますので」
歯切れの悪いアンナの声に顔を上げる。
「グラノヴェル公子へは、鈴蘭は返さなかったはずよ」
「……先日ザラターヤ様にお願いされて御用立てしました、あの東方の茶葉の代わりだそうです」
溜め息が漏れる。
「茶会には口を出さないお約束のはず」
「ですが、先週のお茶会にルリエラ様の兄君もご参加されましたでしょう? お知りになった公子様が大層ご立腹されまして。それに……午後には観劇用に新しいドレスと宝飾品が届くとのことです」
先程の荷届の先触はこのことか。いつもの実家からの届け物かと思えば——
深い溜め息を漏らす。
「ルリエラ様に謝罪カードを送ります。兄様には直接文句を言いませんと!」
「……それが良うございますね」
◆◇◆
整えられる身支度。
美しい装いと飾られる宝飾品は、公爵令嬢の頃と些かの遜色もない。いや、むしろ華美となったか。第三王子の婚約者としての色で抑えられていたものは、より鮮やかに私を彩るものへと変わっていた。
「あぁ……アナスタシア、やはりその色が一番似合うね。美しいよ」
「兄様、少し……華やかすぎるのでは?」
レオニードの瞳の色を映した青は、もう少し深い色だった。プラチナの髪と青灰の瞳と合わないわけではない。が、どこか抑えられたような圧迫感があったのは事実。
ドレスは光を弾き、白い首元と指先は揃いの薄い水色に染められたシルクレースで覆われていた。
「君の魅力を飾ることに何の遠慮が?」
言葉と共に差し出されたエスコートの手が、そっと私の指を包み込む。
「あぁ……その色が一番映える。今度は絵師も呼ぼう。アンナ、アナスタシアの予定に——」
「公子様」
出立の時間を気にするアンナの声に微苦笑を返す。
「わかっている。さぁ、アナスタシア、行こうか」
「ええ」
二人を乗せた馬車は滑らかに黒門を抜け、大通りを駆け抜ける。
ヴァシリーがエルミタージュに乗り付けた馬車は、公爵家の家紋を掲げた正式なもの。そのままアナスタシアを迎え、王立歌劇場へと向かう。それはアナスタシアが今も変わらず公爵家の令嬢と同列の立場にあることを示している。
ヴァシリーのエスコートを受けて降り立つアナスタシアは、優雅に微笑む。
明かされて久しいアナスタシアの立場。
人々の視線は自然とアナスタシアの左手に向けられる。
白いレースの手袋の紐飾りは黒。夜の社交に関わる観劇だというのに、アナスタシアの爪先は手袋で覆われてしまっていた。
人々は複雑な思いでアナスタシアのその左手に視線を向ける。
誰が最初に染めるのか。そして黒爪に染まるのは——
「アナスタシア嬢、お久しぶりですね」
観劇場のホール脇にある喫茶室。二人は開演までのひと時、そこに足を踏み入れグラスを一つ傾けていた。
細く背の高いグラスの黄金色が揺れ、踊るのは炭酸の細かな泡の粒。
最近流行り始めたフルミント種から作られるものだ。
アナスタシアは掛けられた声に微笑み返すが、ヴァシリーの眉が一瞬顰められる。
「メイリーズ伯爵夫人、お久しぶりでございますね。先日のカナルェア侯爵家の夜会以来でしょうか」
「ええ! 覚えていただけていたようで光栄ですわ。ところで——」
「メイリーズ伯爵夫人? 我が家が後援するアナスタシア嬢に何か御用が?」
伯爵夫人からエルミタージュのアナスタシアに声を掛ける。社交上問題はない。が、今のアナスタシアは公爵家の継嗣ヴァシリーのエスコートを受けている。それは看過できない。いや、してはいけない。
ヴァシリーの冷ややかな視線に、社交に不慣れとも取れる伯爵夫人は目を見開き、言葉に詰まる。
「いえ……決して他意は——」
「ヴァシリー公子様」
アナスタシアは兄の袖をそっと抑える。
今捌くのは彼の仕事ではない。
「メイリーズ伯爵夫人、確かに花札をお返しいたしましたが、お約束は後日。ただ、今の刻はヴァシリー公子様とのお約束でございます」
「あ……申し訳ございません。ただ——」
ただ、伯爵家如きが、アナスタシア元公爵令嬢と繋ぎが取れたのが喜ばしいと。
悪意のない純然たる好意であっても、公の場で受けるわけにはいかない。が、アナスタシアの立場上切り捨てるわけにも行かない。
アナスタシアは柔らかな笑みを湛えてそっと声を抑える。
「私も望外にお会いできたことは嬉しく存じ
ます。ヴァシリー公子様、一言二言のお時間はご容赦下さいませ」
「アナスタシア……」
アナスタシアが願えばヴァシリーも引くしかない。
アナスタシアが公爵令嬢の座から降りたことで、易々と言葉を交わせると思われたくないと思うことと、人脈を広げるということは真逆を示すものなのか。
「メイリーズ伯爵夫人、お話とはカナルェア侯爵領からの薬草茶のことでしょうか?」
「え? ええ! 調合の際に入れる香料ですが、我が領でも上質なものができましたので、是非にも一考していただきたいのです」
「まぁ、しかしあの夜会では?」
「あれは……主人は社交が不得手ゆえ、お話が続かず……」
伯爵夫人は気まずげに視線を下げる。
彼女なりにも努力はしたのだろう。しかし彼女も子爵家からの輿入れ。侯爵家の夫人との縁はなかなかに難しいらしい。
「ですが、私もエルミタージュとはいえ見習いの身。カナルェア侯爵様にまでのお話とは、些か難しいかと」
アナスタシアも聞いた覚えがあったため、小さく溜め息を返す。学園で言葉を交わしたメイリーズ伯爵令嬢も控えめで大人しい気質だった。どうやら伯爵家みな同じような気質らしい。
しかし令嬢は物静かなだけで、決して社交に苦手意識を持っている様子はなかった。
「では、メイリーズ伯爵令嬢が、エドモント子爵令嬢をお茶会にお誘いくださいますよう、お取り計らいください。その際に香料を利用した菓子を。確かお二人は学院内ではご挨拶は交わしているはず」
「エドモント子爵令嬢を?」
「私からお話しできるのはここ迄」
アナスタシアはそっと微笑む。
子爵令嬢はカナルェアの庶子とは気安く言葉を交わす仲。そこからどう繋がりを繰るかは、伯爵家次第だろう。
「ではメイリーズ伯爵夫人、その後のお話は後日楽しみにしております」
開演を知らせる声に差し出されたヴァシリーの手を取ると、アナスタシアは優雅に立ち去った。
次回、20日20時
16-開演




