14-鈴蘭
14-鈴蘭
私の筆頭公爵令嬢に生まれた責は、第三王子との婚約で果たした。
父公爵は、立場上は王太子との縁を望むべきだった。が、いかんせん、8年の時の差は次席公爵令嬢のリディヤ様が席を埋めた後だった。
囁かれる「あと一年早く生まれていれば——」はただの希望でしかなく、実際そうであったとしても、赤子の未来は血統しか示すものはない。国家はそこまで無謀な賭けに出るはずもなく、結局、策略家の側妃の根回しで、筆頭公爵家令嬢の私には第三王子の妃の席が用意されてしまったそうだ。
しかし、その根回しも王子本人の暴走で砕け散ってくれた。
その後の議会の際は、言葉少なくも他の貴族たちを煽っていたらしい父グラノヴェル公爵。しかし第三王子を引き剥がした彼が、掌中の珠である私を手放すはずもない。爵位はなくとも貴族籍のまま領地で囲い込むのは分かりきっていた。その前に動くはずだった王と王太子は、機を逸し、今は沈黙を守っている。
とはいえ、名ばかりの聖女——下位の令嬢に婚約者を奪われた高位令嬢の嫁ぎ先など、いくばくもあるまい。大人しく高位貴族の後妻に収まるか、諸外国との政略の駒となるか。派閥の均衡を揺さぶるための王や王太子の側妃案も未だ燻っているようだ。
どれもこれも御免蒙る。
私は自分を貫くという意志を示す――公娼となる。
そしてこの道を選ぶということは、あらゆるところで波紋を広げる。
公爵家の嫡女から、公爵家の後見を受ける公娼。
父と兄から注がれる情に変わりはない。
が、他者からの温度は明らかに変わった。
主家の姫ではなくなった私の、公娼という新しい身分は、一部の寄子子女にとって格下と断じられたようだ。
送られた封書の宛名の綴りをそっとなぞる。
エルミタージュという名の重さ、社交の闇に深く沈みすぎたか。
「カサンドラ侯爵令嬢からのお誘いは、僭越ながら私から返させていただきました」
「アンナ?」
「公爵閣下から申しつかっております。『状況が理解できない者は不要。煩わせることなく、その場判断で処理せよ』と。今後の招待状は、そのままお返しいたします」
確かに——彼女からの招待カードの紙質が僅かに落ちていた。
たったそれだけのことながら、アンナの目は鋭く光る。
「メルラード侯爵家の夜会は、ヴァシリー公子からドレスの用意とエスコートの打診が来ております」
「あら、公爵からのお許しが出たの? 侯爵の——あちらの派閥の夜会など、よくお許しくださったわね」
「閣下からは、姫様のお立場上、多少なりとも人脈を広げても構わないとのお言葉です。また、護衛も兼ねて公子様が付き添われると」
兄の贈ってくれるドレスならば、意匠は公爵家の色だろう。鉄壁の公爵家の盾は、相手派閥には何と見られるか。過剰防衛とも取れる父や兄の行動に、笑みが浮かぶ。
「ドレスとエスコートのお礼状は出すけれど、公爵様と公子様へは、あなたからも私がとても喜んでいたとお伝えしてちょうだい」
「……閣下にしろ公子様にしろ、呼び名を変えられるのは……」
「でも、私はエルミタージュよ」
「……お二人とも泣かれます。せめて公の場以外では、お戻しして差し上げてくださいまし」
「あらあら」
笑みをこぼし、白磁の茶器に手を伸ばす。
私の籍はもうエルミタージュだというのに、父も兄も、いくら言っても容易く線を飛び越える。
言葉然り。
贈り物然り。
私の生活は、第三王子の婚約者と筆頭公爵令嬢の座を退いたというのに、今まで以上に華やかに彩られている。
今使っている茶器も、先日公爵領より届いたばかりの新しいシリーズだ。
王都でも既に手に入りにくい一品。カップ一客手に入れられたと嬉しげに語っていた学友を思い出す。
一言こちらに言えば融通するのに。
伯爵令嬢の彼女は、揃うたび、笑みと共に伝えてくる。
——この曲線が指に馴染むのです。
——このお色が、このお茶の色を引き立てるのです。
そうね。
彼女には、西の領の茶葉を贈りましょう。
あの茶葉を扱う地には、落ち着いた声音の良き人が思い出される。
「アンナ、西のフリュートス伯爵にお願いする茶葉を少し増やしてちょうだい。マリーベル様に贈りたいの」
「マリーベル伯爵令嬢へですね。かしこまりました」
アンナの復唱する声を聴きながら、ほぅ、と吐息を漏らす。
手に取る茶器の愛らしい曲線は鈴蘭を表すという。
この茶器のデザインにはずっと携わっており、ようやく形になったものだ。
銀で縁取られた曲線をそっと撫でる。
本当に、生活の場が公爵家からこのエルミタージュに移っただけ——とは言わないが、友も父も兄も、誰もが、どこまでも心を砕いてくれる。
気安い友。
理解してくれる父。
過保護な兄。
そして——
窓辺で揺れる紗の微かな影が、茶器の上で踊る。記憶の底では、優しい声が、私の書いた手紙を読み上げていた。
『お手紙を上手に書けるようになりましたね。ヴァシリーのお土産のお花は私もいただきましたよ』
『私、早く御領地に行ってみたいです』
『そうね……今度お父様にお願いしてみてごらんなさい』
『お父様はお母様がお健やかになられたら、皆で向かうと申されました。だからお母様も早く馬車の旅ができるようになってくださいませ』
『ええ、そうね』
そうね
そうね——
記憶の底にある、清らかで透明感のある甘さが香ったような気がした。
母が好んで纏っていた微かな鈴蘭の香り。
嫋やかな指が髪を梳くたびに香る——母の思い出。この香りだけは色褪せない。
「アンナ、グラノヴェル公爵へ鈴蘭の絹花をお届けして。香りも添えて頂戴」
「アナスタシア様——」
「それとユリアス様へお伝えして。私の紋花は鈴蘭にします、と」
次回18日20時
【15-花、香る】




