12-誤認_前編
数日が過ぎた。
「アナスタシア様、ごきげんよう」
「アナスタシア様、明日には続きの物語をお持ちいたしますね。ではごきげんよう」
私の居場所が変わったとはいえ、学院での立場にあまり変化はなかった……。
学友たちは変わらず親しげに私の名を呼び、微笑みかけてくる。
「なぜかしら?」
「アナスタシア様?」
「私がエルミタージュの馬車で通っているのは皆さまご承知でしょうが……」
「お帰りになる場所と、馬車の徽章が変わっただけでございましょう? アナスタシア様はこれまで通りのアナスタシア様ですから。他の方々が、どう変わられるというのでしょう?私には、アナスタシア様のおっしゃりようの方が分かりかねますが?」
柔らかな口調で答えながら、アンナは東方の白茶を差し出した。
以前とは違い、今では学院内でもアンナが私の傍に控えている。本人はそれを喜んでいるようだ。まぁ、食後のお茶も、侍女科の覚束ない手で入れられた、茶色く色づいただけの湯を飲むより、こうして好みの茶を好きなタイミングで楽しむことの方が確かに嬉しいけれど……
「ユリウスのおじさまも、ザラターヤの姐様も何を気にされていたのかしら?」
「アナスタシア様……」
何か言いたげな淡い苦笑いがアンナの口の端に浮かぶが、物申したいのはこちらの方だ。
屋敷を飛び出したはずの私に、父は後援と称して何不自由ない暮らしを整えた。結局、私を囲む鳥籠だけが、公爵家からエルミタージュへと姿を変えただけとなったのだ。
ただ——
「アナスタシア様、ご移動を」
ヘイリーが言葉と共に手を差し出す。
まるで街歩きのように侍女と護衛が常に張り付いているのだ。そして教室移動のタイミングも他の生徒たちとは微妙にずらされている。
学友と言葉を交わすのが教室内だけなのは以前と変わらないが、学友や他の生徒たちが多々集まる場所とは、一線を画されていた。
「次は東棟でございますが、あちらは下位貴族が多い区画。お気をつけください」
「気をつける……まるで幼子のようですね」
少し拗ねたような声になった。
「アナスタシア様……」
「分かっております。ですが、もう少し——」
「自由があると思われましたか?」
「……ええ」
公娼は人との繋がりこそが原資。
公爵令嬢という枷が外された今こそ、多くの者を知り、繋がる必要があるというものではないか?
それなのに——
「残念ながら卒業までが一番危のうございます。御事解下さい」
身分を問わずの交流には、危険も伴う。
第三王子の婚約者であった頃より、警護は格段に厚くなっていた。
それは、上位貴族には上位貴族の、下位貴族には下位貴族なりのルールが存在し、その領域を越えるにはそれ相応の手順が必要となる。
——その法則の意味を、この時の私はまだ理解していなかった。
東棟へ向かう途中、他学科の校舎へ続く長い回廊を進む。侍女のアンナが斜め半歩前を、護衛のヘイリーが背後に付き従うのはだいぶ慣れただろうか。
廊下ですれ違う他学年、他学科の生徒たちは、私の手袋の飾り紐を見て密やかに言葉を交わす。漏れ聞こえてくるのは婚約破棄と公娼という囁き。
眉を顰め、視線を逸らす令嬢と、妙に値踏みするような目線を送る令息たち。
あぁ、注意とはこの事だったか。
「アナスタシア嬢」
不意に呼びかけられた。
が、声は聞こえるが、姿は見えない。
アンナがいつのまにか間に入っているからだ。
聞き覚えのない声と、そこに混じるどこか下卑た色音にアンナから立ち上る魔力圧が微かに強まる。
「お前ではない、私はアナスタシア嬢に——」
「控えなさい」
凛、としたアンナの声が言い捨てる。
回廊のざわめきが、一瞬で消えた。
「侍女風情が、何を偉そうに。私は将来の客として——」
「お前如きが関われる御方ではない。控えなさい」
冷ややかなアンナの声に、私は少し目を見開く。アンナは確かに学院の制服ではなく侍女服を身に纏っている。が、その襟章は公爵位のもの。どこぞの公爵家の侍女に、貴族とはいえ下位の者が居丈高に振る舞うとは思いもしなかった。
さらには女生徒たちも顔を背け、成り行きを見守っていたはずの中位貴族の子弟たちも、巻き添いを避けるように姿を消していた。
しかし煽る男たちは気づかない。更に距離を詰めてくる。
「待てよ! いずれ俺たちが客となるんだ。顔を覚えるためにも、こちらから声を掛けてやるのが親切と言うものだろう?」
「元は高位令嬢だったかもしれんが、娼婦になるからには少しは愛想を振り撒かないとな。客が付かないぞ」
娼婦?
向けられた思いもしない言葉に、怒りより驚きの方が先に来た。
が、私が声を発するより、ヘイリーが動いた。
「お前はその女が逃げ出さないように見張るのが仕事か? ついでだから俺たちも手伝ってやるぜ——ってぇおいっ! 何を——」
怒声混じりの声は、直ぐに呻き声に変わった。
「アナスタシア様、こちらへ」
アンナは何事もなかったかのように私を促し、私も招かれた回廊を進む。
身体を二つ折りにし、蹲る男の姿が視界の端に入った。
見知らぬ者だ。
その脇に立っていたヘイリーも、何事もなかったかのようにそのまま私の背後に続いた。
「おいっ!」
周辺に居た令息たちが、こちらに鋭い視線を向けてくるのに対し、ヘイリーは辺りに魔力を放った。
冷ややかな暴力の気配に令嬢たちが身を竦ませ、更に数名がこの場を離れた。
ヘイリーの威圧の結果だ。当然だろう。
しかし、痛みに腹を抱えながらも、男は尚も前に出る。周りの男たちも、無駄な矜持が退く足を止めるのだろうか。数名が先を邪魔するように囲んだ。
ヘイリーが折角退く機会を与えたというのに、その意図すら伝わらなかったらしい。
「女衒が邪魔をするのか?」
「それとも娼館下男か? 平民が貴族の令息に手を挙げて許されると思ってるのか?」
「こっちに来い」
「練習相手になってやるっ——」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら不意に伸ばされる手。
驚いた。
許可なく、こんな間近に誰かが近付くなど考えたこともない。ましてや触れようとするなど——
視界に入るその手は、真横から己に向かって伸ばされる。
父や兄、従僕ならわかる。が、見ず知らずの男が、ここまで踏み込むことなどなかったことだ。
息が詰まる。
伸ばされた手の、爪の先までも詳細に見えた。
ゴツゴツとした指先は、目に馴染んだ兄の指先とも、シオたちの手ともまるで違う。
表面は貴族らしく綺麗に磨かれているのに、うっすらと纏ったその魔力の滑るような色。
得体の知れない魔力が己に向かって伸ばされる。
——気持ち悪い。
——触れられたくない。
嫌悪が背筋を這い上る。
そして、思ったところで、触れられることはなかった。
視界がアンナで埋められ、同時に、叫び声が響いた。
「アンナ?」
「アナスタシア様、お目汚しいたしまして申し訳ございません。こちらへ」
アンナの背後で何が起こっているのか。
改めて問うことでもないか。
アンナの横から伺えるのは、
血を吹き出した腕を抱えて蹲る者と、後ずさる者。
一瞬後には慌てふためき、叫ぶ声が響く。
しかし、ヘイリーは無言のまま手にした片刃の剣を一振りして鞘に納めた。
「きさっ! 貴様ぁっ!」
生徒は帯剣を許されてはいない。
一瞬、対峙する男たちの手が腰元に伸び空を掻く。
「誰かっ!」
「警護を呼べっ!」
口々に叫ぶ声。
「拾っておけ。腕の良い者に頼めば傷跡一つ残らん」
「何を……」
ヘイリーが視線で示した先には、男のものと思える右手が落ちていた。
冷ややかな声に、怯えに染まった視線が向けられる。
思った以上に、ヘイリーは荒事に慣れていた。
当然か。
公爵家が、わざわざ選んで私に就けているのだから。
「きっ貴様ぁぁぁぁっ!」
「お前たちっ」
叫び声は続いている。が、その叫び声を打ち消すような鋭い声が響いた。
「ダニールっ!」
「え? あ? はいっ?」
「ダニール、お前たち! 何をしているっ?!」
「マ、マクシム様?」
「ダニール、貴様……いや」
髪を乱し、荒く息を弾ませる男。
金髪に、緑柱石を思わせる瞳は驚きで見開かれている。
この色——あぁ、北方辺境伯家の縁者か。
幾度か夜会で見かけた覚えがある。
……ならば、この場は収まるか。
私の予想通り、男はざっと辺りを見廻し、すぐさまヘイリーの前に進み出る。
「公爵家へは、後日改めて正式に謝罪させて頂きます」
「ああ。こちらも閣下への報告は省く気はない」
ヘイリーの冷ややかな言葉に、マクシムと呼ばれた男の顔色が更に白くなる。
「先生——いえ、学院への報告もこちらでさせて頂きます。今は令嬢の行く手をお止めしたことを深くお詫び申し上げます」
深く低頭しながら、彼の額に浮かぶ汗は急いで来た以外のものもあった。
私は当事者でありながらも一言も発しなかった。
当然だ。
応える義務も必要もない。
彼の額の汗はこめかみから顎を伝い、ぽたりと地面に落ちた。
「アナスタシア様」
アンナに促され、歩みを進める。
そう、私がここに留まる理由は何一つない。
背後では尚も騒ぎが続いてはいるようだが——私は振り返る必要はない。
見るべきものは、もうあそこにはなかった。
公娼の意味を知る。
情報の壁は、本人の意思で超えられる程度だというのに、越えぬ者の多さに少しだけ残念に思った。
次回 14日20時
【13-誤認_後編】




