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救済

「……ということで、今は点滴で落ち着いてはいます。もう大丈夫だとは思いますが、何かありましたらお知らせください」

「本当にうちの子がすいません。ありがとうございました」

 どこからか知らない女性と母の会話する声が聞こえてきた。

(俺は何をしているんだろう……何も思い出せない。それになんだかまぶたが鉛のように重たい……目を開けるってこんなに大変なことだったっけ???)

 いつもより意識して、がんばって目を開けると、そこは見覚えのない天井にカーテンに囲まれた空間だった。目だけで辺りを見回すと美樹がそばにいるのが見えた。

「ここは……どこ??」

 なんだかヒリヒリ痛む喉でやっとの思いで声を絞り出した。

「純平!? あっ……おばさん! 純平、目覚ましたよ!」

横に座っていた美樹は立ち上がった。驚いたような、でもホッとしたような顔をしていた。なんだか、美樹の目がいつもより赤いような気がした。

「ほんと? 美樹ちゃん?」

 母が慌てた様子でカーテンを開けて入ってくる。

「純? お母さんが分かる??」

「……うん」

 まだうまく声が出なくて、かすれるよな声で返事をした。母は安心したのか肩の力が抜けたようで大きく息をついていた。

「よかった……あんたが家の中で倒れているのを美樹ちゃんがたまたま見つけてくれてね、救急車で運ばれたのよ」

 母が何を言っているのか分からなかった。

(倒れた? 救急車? なんの話をしてるんだ)

「美樹ちゃんにちゃんとお礼言いなさいよ。あんたの命の恩人なんだから」

「おばさん、命の恩人だなんて大げさすぎるよ」

「そうかい? でも、美樹ちゃんが泣きながら、「おばさん! 純平が倒れてたの……どうしよう? もしものことがあったら……」って、病院から電話掛かってきた時なんか、おばさん心臓止まるかと思ったわよ」

「おばさん!!!」

 母は笑いながら話していた。その横で顔を真っ赤にした美樹があたふたしている。美樹の反応を見て母は楽しんでいるようでもあった。俺も自然に頬が緩むのを感じた。

 しばらくして、母が真面目な顔に戻り尋ねてきた。

「ところでさ……純、美樹ちゃん。いったい何があったのか教えてもらえる?」

「私はお母さんが、純平の具合が落ち着いてる頃だろうけど、どんな感じか心配だから見てきてって頼まれたんです。チャイム鳴らしたけど留守だったので、お母さんから渡されてた合鍵で開けて入ったら、変な臭いして……その臭いのほうに行ったらトイレのドアが開けっ放しで、中見たら純平が倒れてて……えっと、それで急いで救急車呼んで……」

 最後の方は口ごもっていた。美樹は拳を握り締め、目を泳がせている。

 俺は美樹の話を聞いてもピンとこず、状況が分からないままで混乱していた。

 母は何も言わない俺を見て、一つ大きく息を吐いた。

「純も美樹ちゃんも喉渇いたでしょ? おばさん、ちょっと売店で買い物してくるわね」

 近くの椅子に置いてあった鞄から財布だけ取り出して、母はカーテンに仕切られた空間から出て行った。

 俺は家のトイレで倒れていたところを救急車で病院に運ばれて、今この状態になったということは分かった。だけど、倒れた理由がわからないし、思い出せないでいた。ただぼんやりと恐ろしいことがあったような気がした。

 母が部屋の引き戸を開けて、外に出ていったのをカーテンの隙間から確認していた美樹は、小声で話しかけてきた。

「純平……さっきおばさんが言ったことは誰にも言わないでね」

 美樹は照れているようで言い終わると少しだけ不機嫌そうな顔になった。しかし、混乱してまだはっきりしない頭で聞いていたので何を隠したいのかは分からなかった。

 それからしばらく、沈黙が続いた。俺はなんとなく点滴が落ちる様をぼーっと眺めていた。そこに、母が買い物から戻ってきた。手には売店で買った飲み物とサンダルがあった。母は床にサンダルを置き、スポーツドリンクを俺に、美樹にはホットのお茶を渡した。

 喉が渇きに渇いていた俺はイッキに半分以上飲み干した。喉の痛みと渇きが引いていくのを実感する。喉の違和感が薄れた俺は母に色々聞いてみることにした。

「そういや、母さん。ここは? 病室ってわけじゃないみたいだけど」

「えっと……外来用の処置室のベッドみたいよ」

「へえ。よくわかんないけど、入院とかはしなくても大丈夫なんだよね?」

「そうみたいよ。検査の結果も大きな問題はなかったみたいだし、点滴が終わったら帰っても大丈夫だって」

 まだ頭の中がモヤがかかっているみたいで気持ち悪い。


「ところでさ、なんで俺倒れたの?」


 母も美樹も同時に目を伏せた。重たい空気のまま時間が過ぎる。俺が長く感じただけで、もしかしたら数秒だったのかもしれない。

「それがね、純……詳しくは分からなかったのよ……」

「わからない? そんなことってあるの? 検査したんだよね?」

「お医者さんの話だと、美樹ちゃんが純がインフルエンザだったって救急隊員に伝えていたから、インフルエンザの検査をしたけど陰性で治っていたみたいなの」

「じゃあ、なんで?」

「急激な脱水が原因で倒れたんじゃないかって……」

「脱水??」

「お医者さんが検査結果と救急隊員の話と照らし合わせて、胃に軽い炎症があったからなんらかの原因で嘔吐して、それで急に脱水症状になってショックで倒れたんじゃないかって……」

 それ以上、母は何も言わなかった。母だけでなく誰も言葉を発することも、ほとんど動くことさえしなかった。

 そのまま10分ほど経っただろうか、足音が近づいてきてカーテンの隙間から看護師が入ってきた。それと入れ替わるように母と美樹はカーテンの外側に出て行った。

 看護師は点滴が終わったのを確認して回収して、検温と血圧の測定をした。

「特に問題はないようなので、今日はもう帰ってもらっても大丈夫ですよ。ですが、何かありましたら、無理せず病院のほうにいらしてください」

 俺はベッドから起き上がり、靴がなかったので母の買ってきたサンダルを履いて部屋を後にした。部屋の外には美樹が待っていて、母は先に会計を済ませて車を玄関まで回して来るから付き添いを頼まれたと言っていた。

 病院の中は暖房が効いているにしても、薄手のロンティーにスウェットという部屋着姿にサンダルだったので、寒くて仕方がなかった。

「これ貸したげる。着れなくても羽織ることくらいできるでしょ」

 美樹は持っていたコートを差し出してくる。俺は受け取って肩に羽織る。美樹のコートは暖かくて、なんだかさっきまでの重たかった気持ちも楽になったような気がした。

 しかし、玄関近くまで来ると隙間から入ってくる冷たい風で足元から体が冷えて我慢するのが大変だった。外を見るともう暗くなっていて、病院の時計を見ると6時を過ぎていた。母が玄関のすぐ近くまで車を回してきたのを確認してから、外に出て車に乗り込んだ。帰りの車の中で母が美樹にお世話になったということで、晩ご飯をご馳走すると、半ば強引に決めていた。

「おばさんの料理、ちょっと久しぶりだから楽しみ!」

 美樹もノリノリなようで、晩ご飯がいらないと親に伝えていた。

 家に着いて、「これから準備するから待ってて」と、母は晩ご飯の準備を始めた。美樹も台所に付いていき、手伝おうとしたが、母は今日は大事なお客様なんだからと台所から追い出されていた。

 俺は部屋で上着だけでも着替えようとまっすぐ部屋に向かった。

 しかし、部屋のドアノブに手を掛けたところで動けなくなった。体が無意識にドアを開けるのを拒むかのように、ドアノブを握る手に力が全く入らなかった。

「おばさんに、台所追い出されちゃった。って、純平どうしたの!?」

「なんかさ……ドアが開けられないんだ……」

「嘘? 何で? あんたの部屋、鍵付いてなかったよね?」

 美樹は俺を押しのけ、ドアノブを掴みあっさり回してドアを開ける。

「あれ? 簡単に開くじゃん。純平どうしちゃったの?」

「わかんない……」

 美樹は部屋に入りさっと見渡す。

「それにしても、純平の部屋っていつ来ても変わらないね。それに、いつ来ても変に小綺麗でなんかむかつく」

「あんまジロジロ人の部屋を見んなよ」

 小言を言いながら美樹に続いて部屋に入る。そして、床に無造作に落ちている“それ”を見つけた瞬間、全身の震えが止まらなくなり、膝から床に崩れ落ちた。


 何があったか思い出した……


「えっ? えっ? 何? どうしたの?」

 突然の出来事に美樹は驚き、目の前に座りながら心配そうに覗き込む。俺は震える手で床の“それ”を指差した。美樹は指差す先に目線をやる。

「ん? 携帯がどうかしたの?」

「メー………が………ゆう………」

 唇まで震えていてうまく喋れなかった。

「なに? どうしたのさ? 顔真っ青だよ?」

「メー………ル………」

 今度はちゃんと言葉にすることができた。

「メール?」

 美樹は床に落ちている携帯を拾い上げる。

「純平、勝手に見るよ?」

 震えが収まらないまま頷いて返事をする。美樹はそれを確認してから、携帯を操作する。そして、画面を見て絶句しているようだった。

「えっ……ねえ……なに? これ??」

 美樹はさらに携帯をいじっている、メールを読んでいるようだった。しばらくして、携帯を持ったまま俺の震える肩を掴んで聞いてくる。

「純平! 優子ちゃんって、最初からこんな子だったの???」

 俺は首を横に振った。

「そう……だよね。おかしいよ……この子。こんなの普通じゃない……」

 美樹も手が少し震えているようだった。そして、また携帯の方に目をやる。

「ねえ、もしかして……純平があんな風に倒れたのと何か関係ある?」

 美樹は俺が頷いたのを確認すると形相を変えて携帯をいじりだす。しばらく、美樹が携帯を操作する音だけが部屋に響き、息苦しい沈黙が部屋を包んでいた。

 美樹は携帯を横に置き、震えながらうなだれている俺の肩を正面から力強く掴む。

「純平! 優子ちゃんと別れた方がいい! てか、何がなんでも別れるべき!」

 その言葉に顔を上げ、美樹のほうに顔を向ける。美樹は先ほどの力強い声とは打って変わって、今度は優しく諭すような声で続ける。

「純平。これが普通じゃないことはわかるよね?」

 小さく頷いて返事をする。

「こんなことになっても、あんたはまだ優子ちゃんのこと好きって言える?」

 先ほどよりも強く今度は首を横に振る。

「じゃあ、別れたい??」

 首を何度も縦に振る。いつの間にか、目からは涙が溢れていて目の前の美樹の姿が歪む。

「じゃあ、まずメールと着信履歴全部消すよ? これあったらまた嫌な思いするでしょ?」

 涙が止まらないまま頷く。気が付いたら、自分の涙で床がかなり湿っていた。美樹は手早くメールと着信履歴を消去する。メールの消去には少し時間がかかっているようで、美樹の舌打ちする音が聞こえた。そして、しばらく美樹は「もう、何そんなに泣いてるのよ」なんて言いながら頭を撫でて安心させようとしてくれた。

「純平の口から、優子ちゃんにちゃんと別れたいって言える? ……って、この感じだと無理よね……」

 美樹は俺を見ながら色々考えを巡らせているようだった。

「じゃあ、純平の代わりに私が優子ちゃんに、『別れよう。もう連絡もしてこないで』ってメール送るよ?」

 頷いた。このとき美樹だけが自分を救ってくれる神様のように思えた。

 美樹はメールを作成して送信した。送信するとほぼ同時に電話がかかってきた。優子からのようだった。恐怖でビクッとなり俺は固まった。しかし、美樹は冷静に携帯の電源を切った。

 美樹はすっと立ち上がり、ドアに手をかけながら、

「純平! 今から出かけれる格好に着替えて?」

 急なことで意図がわからず呆然とする。

「今から、携帯解約して新しいのを買いに行くの! おばさんには私から適当に言っておくから。だから、着替えてから来て」

 美樹は俺の携帯を片手に部屋から出て行った。俺は美樹の言われるがまま、とりあえず着替えた。部屋を出て、美樹と母の話し声の聞こえる台所のほうに向かい、ドアのそばで立ち止まった。ドアの隙間から二人が会話しているのが見え、話している内容からも中途半端に出て行かないほうがいいような気がしたからだ。それに、今の俺は母を説得したりする気力も元気も戻ってはいなかったので、美樹に任せることにした。

「だから、おばさん! 純平の携帯が壊れちゃってて、今から買いに行きたいの!」

「さっきも言ったけど、なんで今から行くの? それになんで機種変更じゃダメなの??」

 美樹はとっさにうまい理由が出てこず、うっと言葉に詰まった。美樹は苦し紛れに反論する。

「この機会に純平が私と色違いのやつが持ちたいって。ほら、私の携帯って会社違うじゃん?」

 母はそれを聞いて表情が変わった。

「まあ、買うのはいいのよ、買うのは……それよりお揃いにするってとこ詳しく聞かせてくれないかしら?」

 美樹がやっちゃったという顔をしている。

「美樹ちゃん、いつから純とそんな関係になったの?」

 母が美樹にさらに追い討ちをかけるように迫る。

「違うってば! とにかく買うのはいいんだよね? じゃあ、おばさん、純平連れて行くね」

「はいはい、照れちゃって、かわいい」

 母は今まで見たことのないくらいの笑顔で財布からお金を出して美樹に渡す。

 美樹はお金を受け取り、ドアのところで立ちすくんでいる俺の腕を引っ張って家から飛び出す。途中、立ち止まって何か言いたそうなふくれっ面で睨んできたけど、すぐにいつもの表情に戻った。

 外に出て、美樹が漕ぐ自転車で二人乗りして、まずは今の携帯を解約しに行った。その足で、今度は違う店に行って新しい携帯を契約した。母親に言ってしまった手前、美樹の使っている機種の色違いを選んで買った。そして、新しい携帯を受け取り、今度は俺が美樹を後ろに乗せ二人乗りで家に戻った。

 家に帰る頃にはかなり気持ちも楽になっていた。新しい携帯の手続きで待っている間、美樹と笑って話せるほどに回復していた。美樹は買い物をしている間、ずっと笑顔で話してくれていたので、気を遣っていてくれたのかもしれない。

 家に帰ると、父も帰っていて、テーブルの上にはいつもより気合いの入っている豪華な料理が並んでいた。俺はまだ食があまり進まなかったが、母が終始不気味な笑顔を俺と美樹に交互に向けている以外はいつもと変わらない食事をすませた。

 部屋に戻って少しゆっくりして、落ち着いたところで美樹が話を切り出した。

「じゃあ、とにかくアドレス移すよ? 面倒だけど私がやってあげるね」

「ありがと。助かるわ」

 美樹は古いほうの携帯の電源をつけて、画面を見て顔が引きつった。

「また、メールと電話がこんなに……見ないで全部消していいよね?」

 俺ももう見たくなかったので頷いた。美樹はメールと着信履歴を削除する。それから、赤外線を駆使して、手早く新しいほうにアドレスを移し変えた。もちろん優子のアドレスは除外された。メールアドレスも初期設定から変えた。アドレスも念のためということで俺が思いつかないようなものを考えてくれた。そこまでやる必要がわからなかったけど、「普通の常識が通じない相手なんだから警戒するにこしたことがない」と美樹は言っていた。

 携帯を変えたことを知らせるメールを送る相手も、一人ずつ確認しながら、優子と繋がりそうな人がいないか細かくチェックしながら送った。しかし、優子との出会いが出会いなので繋がりそうな相手の検討が付かず、連絡を取らなくても大丈夫そうな人のアドレスを消すだけの作業になった。


 こうして、俺は美樹のおかげで、優子から解放されることになった。


 しかし、俺と美樹は解約した古い携帯に届いていた優子からの最後のメールだけでも、読んでおくべきだった。消してしまったので優子以外は内容を知らないメールには、こう書かれていた。


『純くんが変なこと言い出したのはあの女が全部原因なんだよね?

きっとあの女に騙されているんだよね?

あの女さえいなければ、純君は私のところに帰ってくるんだよね?

だって、純君は私のことが一番好きだって言ってたんだし、純君のすべては私のモノなんだから。

今、純君の隣にいるその女が全部悪いんだよね?

その女さえいなければ……だから、少しだけ待っててね』

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