吾輩、帰還する
「ん……?」
自分の声が、妙に掠れて聞こえた。プリシラお嬢様の膝の温もりはどこへ行ったのだろうか。鼻腔をくすぐるのは、最高級の茶葉の香りでも、ましてや鍛錬場の汗とプロテインの匂いでもない。ツンと鼻を突く、無機質な消毒液の匂いだ。
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた公爵邸の豪華な天井ではなく、白く無機質な病院の天井だった。動かそうとした右腕には、点滴の針と管が繋がれている。
「な、んだ……?」
人の言葉を話せる。猫語じゃない。
視線を落とすと、ベッドの脇で、一人の少女がこちらの手を握りしめたまま、小さな肩を震わせて泣いていた。プリシラお嬢様か? いや、お嬢様は金髪で、目の前の少女は栗毛色の髪だ。そう、自分と同じの。
彼女は、たった一人の我が妹だ。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん、目が覚めたの!?」
妹の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出す。
そこで、我が身に怒ったことを思い出した。妹を塾に迎えに行った夜の帰り道、ダンプカーに引かれたのだ。その後病院に担ぎ込まれたという記憶が、おぼろげだが蘇ってくる。
生死の境を彷徨う長い夢の中で、必死に猫になってプリシラお嬢様を救うために奔走していたらしい。しかしスクワットやベンチプレスの感触は今でも身体に残っている。
あの過酷な特訓は、我が肉体が死と闘い、現世に這い上がるための鍛錬だったのかもしれない。
「お兄ちゃんのバカ! もうずっと目が覚めないかと思ったんだから……っ!」
妹が僕の胸に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きだしてしまった。泣き虫なのは昔から変わらないようだ。
たかが兄、されど兄。
兄にはいついかなる時でも、愛する妹を守るという義務がある。
まだ力の入らない右腕をゆっくりと動かし、妹の頭をそっと撫でた。夢の中のティアラとは違い、人の手というものは繊細な動きができて素晴らしい。
「すまない……」
妹の顔は晴れない。その曇った顔をどうにかしてやりたくて、夢の中の話をした。
「兄ちゃんな、夢の中で猫になったんだ」
「猫?」
兄の唐突な話に、妹はころんと首を傾げた。その頭を撫でながら、夢の中……いや、異世界での出来事を語ってやる。あれは確かに現実だった。だからこそ、妹にも教えてやりたかったのだ。プリシラお嬢様とアドリアンお兄様、そしてティアラの話を。
「昔、お前がやってたゲームがあっただろう。お前が好きな、プリシラお嬢様。その飼い猫になる夢だった」
キョトンとしていた妹だったが、涙をふいてふっと笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんが、ティアラになってたの?」
「あぁ。お前はプリシラお嬢様が断罪されて、可哀想だと言っていたろ。兄ちゃんはな、猫になって断罪を止めたんだ」
「どうやって?」
妹の頬に残る涙のあとを拭ってやり、右腕の上腕二頭筋をムキッと見せてやる。
「もちろん、筋肉でわからせてやったのさ」
「ふふっ、あははっ! お兄ちゃんったら、夢の中まで筋肉が好きなんだね!」
妹はケラケラと楽しそうに笑って、もう一度頭を擦り付けてきた。甘えん坊で泣き虫な彼女は、まだまだ手のかかる妹のようだ。
「猫のお兄ちゃんも見てみたかったけど。やっぱりこっちの方がいいよ」
妹は顔を上げて、ふわりと笑った。その笑顔はやはり、どこかプリシラお嬢様を思わせる。
「おかえり、お兄ちゃん」
もう、異世界の猫ではないけれど。
この現実世界で、大切な妹の笑顔を守るためには鍛錬を続けなければならない。その意味では、アドリアンお兄様の意志を受け継ぐ形になるだろう。
「ただいま」
病室の窓から、爽やかな風が入り込んでカーテンを揺らした。晴れ渡る初夏の空の下、どこからがニャアと猫のなく声が聞こえた気がする。
吾輩は猫だった。今は、どこにでもいる一般男性である。




