吾輩、出陣する
一ヶ月後、吾輩はプリシラお嬢様の膝でくつろいでいた。お嬢様の部屋には午後の陽気が差し込み、背中を撫でるお嬢様の温もりが心地よい。
「ティアラ、なんだか大きくなりましたね……?」
アドリアンお兄様の特訓により、私はお嬢様を護る騎士に相応しい筋肉を手に入れた。ふくふくだった腕にはムチムチの上腕二頭筋、ぷよぷよだった腹にはシックスパック。ふわふわな白い毛に覆われているが、その下に隠された筋肉は本物だ。
「そいつも、お前に相応しい猫になれるように努力したのだ」
「まぁ、お兄様ったら。おかしなことを仰いますのね。ティアラはただの猫ですわよ」
たかが猫、されど猫。愛猫はいついかなる時でも、主人を守るという義務がある。お嬢様をどんな驚異からでも守ることができるというのは、ある種の達成感を生み出した。これであのクソ王太子をぶっ飛ばすことができるという意気込みが沸々と湧き起こっている。今の吾輩は闘志に漲っていた。
「さぁプリシラ、そろそろ夜会に向かう時間だ」
「えぇ。ティアラ、いいこにしているんですよ」
「ニャア」
プリシラお嬢様は吾輩の頭を撫でて、アドリアンお兄様の手を取り玄関ホールに向かう。その背中を追いかけることはせず、窓の外からそっと外に出た。そして、プリシラお嬢様とアドリアンお兄様が乗り込んだ馬車の天井に乗り込む。
そう、吾輩はお嬢様の帰りを待つだけの良い子ではなく、護衛騎士だ。プリシラお嬢様もアドリアンお兄様も!猫である我輩が夜会にまでついてくるとは夢にも思うまい。
ギィ、と馬車が動き出してどんどんと加速していく。向かい風は徐々に強くなり、吾輩は爪を立てて天井にしがみついた。さながらハリウッド映画のクライマックスシーンのような姿だが、これはまだ吾輩の物語の序章に過ぎない。
「ニャアアアン……!」
吾輩には使命がある。プリシラお嬢様を滅びの命運から救うという重大な使命が。
「ニャン……」
一時間ほど馬車を走らせ、吾輩の爪は天井に深くくい込んでいた。しかし泣きごとなど言っていられない。これから向かう場所は戦場なのだから。
戦場は煌びやかなクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、最高級の弦楽四重奏が満たしている。だが、美酒を片手に談笑する貴族たちの視線には、好奇と、薄汚い愉悦が混ざり合っていた。
ここは欲望と虚栄が渦巻くおぞましい空間だ。あまり長居はしたくないと思いながらも、馬車の屋根から軽やかに降り立ってカーテンの中に忍び込んだ。
警備は厳重だが、子猫一匹の侵入を許してしまう隙があるとは、なんとも嘆かわしい。公爵家の警備を見習ってもらわねばならぬ。公爵家の騎士たちは、ネズミ一匹すら通さない忠誠心の持ち主なのだ。
「プリシラ、大丈夫か? 顔色が悪い」
アドリアンお兄様が、隣を歩くお嬢様に気遣わしげに声をかけている。今日のプリシラお嬢様は、まるで繊細な氷細工のように美しく、そして儚かった。公爵令嬢としての矜持で背筋は完璧に伸びていたが、その奥に潜む寂しさを、吾輩の鋭い野生の勘は見逃さなかった。
「大丈夫ですわ、お兄様。公爵家の娘として、恥じぬ振る舞いをいたします」
お嬢様が健気に微笑んだ、その時だった。
ホールの中心から、音楽を遮るようにして、あの忌々しい声が響き渡った。
「静粛に! この場を借りて、皆には重大発表がある!」
人混みが割れ、現れたのは王太子。その傍らには、泥棒猫のユメが、可憐にきゅるんとした瞳で王太子の腕にしがみついていた。さらにその背後には、騎士団長の息子、魔術師公爵の息子、大富豪の息子といった、脳までハッピーセットな取り巻き共が、ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべて控えている。
吾輩は、静かに筋肉を集中させた。いつでもあの王太子のアホ面を殴ることができるように。
「プリシラ! 貴様がユメに対して行った、数々の陰湿な嫌がらせ。我が近衛騎士団、および彼らの調査により、すべて明らかになった!」
不敬なことに、王太子がお嬢様を指差す。それを合図に、周囲の貴族たちが一斉に冷酷な非難の目をプリシラお嬢様に向け、ひそひそと囁き声を漏らし始めた。
「身分を笠に着て、純真無垢なユメを虐げた嫉妬に狂う毒婦め! 貴様のような冷酷な女は、王妃になるどころか、我が国の土を踏むことすら穢らわしい! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」
あまりにも理不尽だ。吾輩の筋肉がギチギチと音を立てて漲っていく。
さらに王太子は、笑みを浮かべるユメの頭を撫でながら、信じられない言葉を続けた。
「それだけではない。事の重大さを考慮し、ロザリンド公爵家の爵位を剥奪、全財産を没収の上、貴様には国外追放を言い渡す! さぁ、今すぐそこへ跪き、私とユメの靴底を舐めて許しを乞うがいい!……まぁ、許してなどやらんがな、ハハハ!」
カラン、と、お嬢様の手から扇子が落ちた。
それは積み上げてきた努力のすべてを否定する暴論だったからだ。
淑女の矜持が彼女をかろうじてその場に立たせていたが、その美しい瞳には大粒の涙が溜まり、今にも決壊しそうであった。その涙が大理石の床に落ちた時、吾輩の中に張った糸がプツリとちぎれた。
「ニャア」
静まり返ったホールに、猫の鳴き声が響き渡る。子猫と呼ぶには野太く、威圧感に満ちた声だった。
お嬢様を守るために積んだ、あの過酷な鍛錬。猫背を強制し、二足歩行でのスクワット。牙を欠けさせながら、気合で持ち上げた木剣ベンチプレス。公爵家騎士団たちとの過酷な鍛錬の数々を胸に、吾輩はここにいる。
すべては、この瞬間のために。
吾輩は、お嬢様の前に一歩踏み出すと、ゆっくりと直立二足歩行で立ち上がった。
「ティアラ……!?」
「なんだ、あの猫!?」
「二本足で立ってるぞ!?」
動揺するプリシラお嬢様とどよめく貴族たち。だが、吾輩の視線は王太子と泥棒猫、そしてその背後に控える男共の顔面に完全にロックオンしていた。
ターゲットを確認。いずれも鍛錬不足の、だらしない面々。
この一ヶ月間、アドリアンお兄様と公爵家騎士団たちとの鍛錬の日々を思えば、怖いものなどなにもない。その腑抜けた面を、今から絶望の淵に叩き落としてやるのだ。
吾輩は猫である。名前はティアラ。悪役令嬢の愛猫、そしてクソッタレな王太子へ鎮魂歌を叩き込む復讐者である。




