吾輩、爪を研ぐ
翌日の夜明け前、吾輩は静かにお嬢様の部屋を抜け出した。向かうは、公爵邸の広大な練兵場である。そこではすでに、アドリアンお兄様率いる公爵家騎士団が、朝の鍛錬を開始していた。
「おはよう、諸君。諸君の剣はなんの為にある!」
アドリアンお兄様の太い声が、爽やかな朝を迎えた訓練場に高らかに響き渡る。それに応えるのは、公爵家の騎士たちだ。
「プリシラお嬢様のためです!」
「その魂はなんのためにある!」
「プリシラお嬢様のためです!」
……ほう。どうやらアドリアンお兄様は、プリシラお嬢様をお守りするために騎士達を鍛えているようだ。やはり吾輩の目に狂いはなかった。彼は並大抵の男ではないだろう。
「それでは、本日の訓練を開始する!」
朝霧の中、鎧の擦れる音と、男たちの野太い掛け声が響く。彼らの肉体美は目を見張るほどだ。どうやら、生半可な鍛錬を積んでいるわけではないらしい。
吾輩は、練兵場の隅の木陰から、彼らの訓練を凝視した。特にアドリアンお兄様。ジャケット越しであったが、今の彼は訓練着一枚。その背中は広く、逞しく、まるで鉄の壁のようであった。頼もしい背中について行こうと意気込む騎士が多いのも頷ける。
吾輩は木陰から飛び出すと、猛然と走り出した。向かうは、騎士たちが外周を走っている、その最後尾だ。
「ん? なんだ、あの子猫は」
「ティアラお嬢様の猫か? なぜこんなところに?」
騎士たちがざわめく。だが、吾輩は構わず爆速で走り続けた。これは駆けっこなどという、甘っちょろい遊戯ではない心肺機能を限界まで追い込む超絶トレーニングである。
「ニャアア……!!」
吾輩は短い足を死に物狂いで動かし、騎士たちの脚の間を縫うように爆走した。これもすべてプリシラお嬢様のため、そしてあのクソ王太子の横っ面に鉄の拳をお見舞いするためだ。
「……面白い」
先頭を走っていたアドリアンお兄様が、吾輩に気づき、口角を上げた。
「全員、ペースを上げろ! この猫に負けた者は、今日の朝食は肉抜きだ!」
「はっ!」
騎士団の速度が一気に上がる。吾輩は歓喜した。これだ。この限界を超えた先のパンプアップこそが、吾輩の求めていたものだ!
有酸素運動の後は、本格的な筋トレが始まった。騎士たちが腕立て伏せを始めれば、吾輩も続いてシャカシャカと身体を動かす。騎士たちが腹筋を始めれば、吾輩は仰向けになり、インナーマッスルを震わせる。見た目は、ただの子猫が、変なポーズでぷるぷると震えているだけ。だが、その内心は熱量で満ち溢れていた。
当然、それだけではない。まずはスクワットを百回!
「見ろ! あの猫、ものすごい速さでスクワットを!」
「いや、そもそも猫が二足歩行だと!?」
そして次は木剣をダンベルに見立てて、ベンチプレスを百回!
「肉球じゃ剣は持てないだろ!?」
「バカ言え、ありゃ気合いでやってるんだ!」
騎士たちの間に、驚愕と、そして微かな敬意が生まれ始める。子猫の不可解な行動をこうして受け入れてくれるのも、彼らの器量の良さを表しているのだろう。
「よし、次は剣技の訓練だ! 」
アドリアンお兄様が木剣を手に、掛け声をかける。吾輩は『ニャア』とひと鳴きして、アドリアンお兄様の前に立つ。
「ほう、お前が相手になるか?」
アドリアンお兄様は吾輩を真っ直ぐに見据える。子猫だからと侮らないその実直な姿勢は、非常に好ましい。吾輩は地面に置かれていた木剣を咥える。しかし顎の力だけでは持ち上がらない。
「おい、やめとけって。牙が欠けちまうぞ」
兵士たちが心配の声をあげるが、吾輩は諦めない。鬼気迫る子猫の顔を見てドン引きする兵士たちをよそ目に、アドリアンお兄様は吾輩の前に立った。
「お前も、高みを目指しているのだな」
「ニャア」
「そうか。良い目をしている」
お兄様はそう呟くと、使用人に声を掛ける。しばらくすると、吾輩の前には最高級のヤギミルクを満たした皿が置かれた。
「飲め。ただやみくもに鍛えるだけでは、力がつかん。お前はまだ幼すぎる」
吾輩はヤギミルクを一気に飲み干すと、再び木剣を咥える。今度は先程よりも少し、約一センチほど地面から浮かせることに成功した。
「良いか、ティアラ。貴様も我が騎士団の一員を名乗るのならば、プリシラを守るために尽くすのだ」
「ニャア、ニャアン」
アドリアンお兄様の声は低く厳かだが、どこか妹への慈愛を感じさせる。そして、彼は上衣を脱いでサイドチェストポーズを取った。それに騎士団の騎士たちも続き、訓練場は一気にむさ苦しい熱気に包まれた。
「さぁ、ゆくぞ! 訓練はまだ始まったばかりだ!」
「ニャア・ニャー!」
吾輩も負けていられない。短くふわふわな足を組んで、精一杯のサイドチェストを決めてみせた。ナイスバルク! である。
見ていろ、クソ王太子。プリシラお嬢様を泣かせたそのツラに、吾輩の鋼の拳を叩き込んでやる。
吾輩は猫である。名前はティアラ。吾輩は、黙々と鍛錬を積んでいる。全てはプリシラお嬢様を守るために。




