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【番外編更新中】「姉より先に嫁ぐなど許さん」と父が言うので、姉の縁談をまとめます。なぜか公爵閣下が私より乗り気です  作者: みれいぬ


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9/17

お父様、二十四年前の署名は

 父の書斎の暖炉には、珍しく火が入っていた。


 十月二十一日の夜、九時。園遊会から戻ってから、父は誰とも口をきかずに書斎にこもり、夕食にも出てこなかった。私が呼ばれたのは、屋敷じゅうの燭台に火が入ってからだった。


 書斎には、父と母がいた。姉はいない。二階の姉の部屋から、ときどき泣き声と、何かが床に落ちる音が聞こえてくる。


「座れ」


 私は、いつも帳簿をつける小机の椅子に座った。


 父は暖炉の前を行ったり来たりしていた。四往復したところで、ようやく足を止めた。


「公爵の申し出を断ったのは、お前のためだ」


「私の、ため」


「そうだ。お前に公爵夫人など務まらん。王の従弟だぞ。宮廷の催し、何百という使用人、領地は三つ。お前は地味で、口下手で、人の前に出るのが苦手だろう。恥をかくのは、お前だ」


 父の声は、だんだん大きくなっていった。


「それに、三年前のお前は十七だ。何も分かっていなかった。私は当主として、家のために、お前のために判断した」


 私は黙っていた。父は、私が黙っていることに苛立ったように続けた。


「そうだ、家のためだ。お前がいなくなったら、誰がこの家の帳簿をつける」


 言ってから、父は口をつぐんだ。


 暖炉の薪が、ぱちんと鳴った。


 私は膝の上で手を重ねたまま、父の顔を見ていた。お前のため、と父は言った。言葉が続くうちに、お前のためは、家のためになり、家のためは、帳簿になった。


「ゴドフリー」


 母が、長椅子から父をたしなめるように言った。それから、私に向き直った。


「ウィニフレッド。お父様はね、クリスタベルのことも考えてくださったのよ」


 私は母の顔を見た。母は、私が分かっていないとでも言うように首を振った。


「妹が姉より先に、それも姉より上の家に嫁ぐなんて。クリスタベルがどんなに惨めな思いをするか、考えてごらんなさい。あの子が可哀想でしょう」


 二階で、また何かが割れる音がした。母は天井を見上げて、胸に手を当てた。


 可哀想。


 私は、その言葉を頭の中で一度だけ繰り返した。三年前の春、十七の私に縁談が来た。それを本人に知らせず、本人が望まないと書いて断った。その理由が、姉が可哀想だから。


 怒鳴りたいとは思わなかった。泣きたいとも思わなかった。ただ、自分の声が、いつもよりずっと静かになっているのが分かった。


「お父様。一つ、伺ってもよろしいですか」


「何だ」


「マティルダ叔母様がハーグリーヴズ家に嫁いだとき、婚姻台帳に署名なさったのは、どなたですか」


 父の顔から、色が抜けた。


「……誰に聞いた」


「叔母様が、ドルシラ伯母様より先に嫁いだと伺いました。叔母様が十九で、ドルシラ伯母様は二十四だったと」


「あれは、事情が違う」


 父は暖炉のほうを向いた。


「ハーグリーヴズは侯爵家だ。申し入れを断れば、家の損になった。それに、ドルシラは」


「家の決まりだと、伺っておりました」


 私は、父の言葉の途中で言った。父の言葉を遮ったのは、生まれて初めてだった。


「姉より先に嫁ぐことは許さない。家の決まりだと、四度、伺いました。三年前の分を入れれば、五度です」


 父は振り返った。顔が赤くなっていた。


「この家の当主は私だ」


 父は机を拳で叩いた。インク壺が跳ねた。


「署名はしない。順番だ。クリスタベルが先だ。それが嫌なら、二十五まで待て」


 書斎が静かになった。母が扇を握りしめている。


 私は立ち上がり、いつものように礼をした。


「承知しました」


 父の肩から、少しだけ力が抜けたのが見えた。私が引き下がったと思ったのだろう。


「順番は守ります。お姉様を、先に嫁がせます」


 父が何か言う前に、私は書斎を出た。


◇


 自分の部屋に戻ると、ベッツィが泣いていた。


「お嬢様、ひどすぎます。三年ですよ。三年前に公爵様が、お嬢様にって。それを旦那様が、黙って」


 ベッツィは私の代わりに怒って、私の代わりに泣いていた。私はベッツィの背中を撫でて、もう休んでいいと言った。ベッツィは鼻をすすりながら、何度も振り返って出ていった。


 一人になって、私は窓辺の椅子に座り、条件帳を開いた。


 姉の十の条件。キャラウェイ侯爵の名と、その横の印。閣下の条件。見合いに同席。次の候補をご紹介くださる。


 三年前の春。


 私は目を閉じた。王妃陛下の園遊会。東の天幕。男爵家の大奥様の札が、給仕の出入り口の横に置かれていた。大奥様が杖を握り直したのが見えて、私は札を二枚入れ替え、花瓶を手のひら一つ分動かした。


 天幕を出たところで、呼び止められた。


「札の順を変えましたね」


 軍服の、背の高い人だった。私は驚いて、内緒にしてくださいと頼んだ。どちらのお家も悪くないので、と。そう言って、姉の扇を取りに走った。名前は聞かなかった。顔も、日の光がまぶしくて、よく見なかった。


 覚えているのは、低い、落ち着いた声だけだ。


 十月五日の夜会で、柱のそばで聞いた声と、同じ声だった。


 閣下は、礼の途中で止まった。三つ数えるほど、私の顔を見ていた。「フェアファクス家の、次女」と言った。あのとき閣下は、全部知っていたのだ。私が誰で、自分が三年前に何を申し込み、どんな返事を受け取ったのか。知っていて、姉をもらってくれと頭を下げる私の話を、最後まで聞いてくださった。


 姉君が早く嫁いだほうが、私に都合がいい。


 いずれ話す。


 そして閣下は、席札のことを、一度も口にしなかった。三年前に内緒にしてくださいと頼んだことを、三年たっても、まだ守っていてくださった。


◇


 翌朝早く、叔母の家の従僕が手紙を一通届けてくれた。公爵家の封蝋だった。


 中には、一行だけ書いてあった。


『急ぎません。三年待ちました』


 私はその一行を、長いこと見ていた。


 それから条件帳を一番後ろまでめくり、白いままだった最後の頁に、初めてペンを置いた。


『一つ。内緒にしてと頼んだことを、三年守ってくださる方』

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