三年前に申し込んだのは
キャラウェイ侯爵邸の庭は、王都の東の端にあって、十月の終わりでも薔薇が咲いていた。
十月二十一日、午後二時。園遊会の客は五十人ほど。芝生の上に白い天幕が三つ張られ、奥の池のそばに四重奏の椅子が並んでいる。父と母が付き添いで、姉と私を連れてきた。叔母は、侯爵家の親戚の用事で少し遅れて来ると言っていた。
段取りは、前の晩に三度確かめておいた。
二時半、薔薇の棚の前で、偶然の挨拶。三時、四重奏が始まったら芝生で一曲。侯爵の母君へのご挨拶は短く済ませて、そのあとは私が母君のお相手をする。閣下は少し離れた天幕のそばにいて、こちらを見ないふりをしてくださる。
二時半ちょうどに、薔薇の棚の前で、キャラウェイ侯爵が足を止めた。
「フェアファクス伯爵。お越しいただいて光栄です」
侯爵は、閣下が言ったとおりの方だった。銀色の髪を後ろで結び、背が高く、穏やかに笑う。父が姉を紹介すると、侯爵は姉の手を取って、礼の形で軽く唇を寄せた。
「お噂はかねがね。今日の薔薇が霞んでしまいますね」
姉は頬を染めて笑った。上機嫌のときの笑い方だった。十の条件を、侯爵は一つずつ満たしていく。詩の話をすれば古い恋歌を一節そらで言い、姉の誕生日を聞けば「五月の十二日。花の季節ですね」と言った。私は少し離れたところで、条件帳に印をつけた。
ここまでは、うまくいっていた。
「母を紹介させてください。今日は母のための会なのです」
侯爵が、天幕の下の椅子に座る、白髪の小柄な婦人のところへ姉を案内した。先代の侯爵夫人である。私は段取りどおり、少し遅れてそのあとについた。
「まあ、きれいなお嬢さん」
侯爵夫人は姉の手を両手で包み、うれしそうに話し始めた。
「この薔薇はね、亡くなった主人が、ダンスタンの生まれた年に植えたのよ。最初の年は一輪しか咲かなくて、主人ったら、その一輪を毎朝数えに来て――」
「まあ、素敵なお話」
姉は笑顔のまま、婦人の手からするりと自分の手を抜いた。
「でも、お年寄りのお話は長くなりますもの。また今度、ゆっくり伺いますわ」
天幕の下が、しんとした。
私は一歩前に出た。
「侯爵夫人。よろしければ、その一輪のお話を、私に聞かせていただけませんか」
婦人は少し目を瞬いてから、やさしく笑って、私の手を取ってくれた。侯爵が私を見て、小さく頭を下げた。その笑みは、さっきより少しだけ薄くなっていた。
◇
三時になり、池のそばで四重奏が始まった。
侯爵は約束どおり、姉を芝生へ誘った。姉は踊っているときが一番きれいだ。金の巻き毛が日の光の中で揺れ、客たちが振り返る。侯爵の足運びは本当に見事で、二人が回るたびに、天幕のあたりから小さなため息が漏れた。
一曲が終わった。侯爵は姉を父と母のところへ丁寧に送り届け、礼をして、母君のいる天幕へ戻っていった。
姉はその背中を見送りもしなかった。
姉は、芝生の真ん中を横切って歩き出した。一番客の多い、日の当たる場所へ。そこに、閣下が立っていた。
嫌な予感がした。私は侯爵夫人に断って、姉のあとを追った。
「公爵様」
姉は、閣下の前で立ち止まり、よく通る声で言った。周りの客が、会話を止めて振り返る。
「三年前のお話を、皆様にしてもよろしくて?」
閣下は姉を見下ろしたまま、何も言わなかった。
「三年前の春、公爵家から、わたくしの家に縁談をいただいたの。あなたが、わたくしに」
姉は扇を開き、周りの客に向かって微笑んだ。
「あのときは、わたくしがお受けしなかったのですけれど。ねえ、そうでしたわよね?」
芝生が静かになった。四重奏だけが、次の曲の頭を弾き始めていた。
父が真っ青な顔で、こちらへ早足で来るのが見えた。
閣下は、一度だけ目を閉じた。それから、姉ではなく、周りの客たちに向かって口を開いた。
「家と家の話を人前でするのは、無作法だと承知しています。ですが、人前で偽りを言われた以上、正すのも人前でなければなりません」
閣下の声は、大きくはなかった。けれど芝生の端まで届いた。
「三年前、私がフェアファクス家に縁談を申し込んだのは事実です。申し込んだ相手は、次女のウィニフレッド嬢です」
誰かが、息を呑む音がした。
「お返事は、ご本人が望まない、長女ならば喜んで、というものでした。私は長女の方のお話をお断りし、北の砦へ行きました」
「嘘よ」
姉の声が裏返った。
「嘘よ、そんなの。ウィニーが望まなかったのよ。そうでしょう、ウィニー」
姉が振り返った。客たちの目が、姉の視線を追って、私の上に集まった。
三年前。縁談。私に。
頭の中で、言葉が一つずつ並んでいく。並んでいくのに、意味がつながらない。父の汗。姉の「三年前にも、わたくしに縁談をくださった方」。閣下の「よく覚えています」。都合がいい、という言葉。いずれ話す、という言葉。
口から出たのは、一言だけだった。
「……私は、存じません」
その一言で、芝生じゅうの目が、私から父へ移った。
父は芝生の真ん中で足を止めていた。母が父の袖をつかんでいる。父の口が、何か言おうとして開き、閉じた。
閣下は、静かに私を見ていた。
「そうだろうと、思っていました」
いつのまにか、侯爵が私のそばに来ていた。母君の侯爵夫人の手を取ったまま、侯爵は私にだけ聞こえる声で言った。
「お気の毒に」
それから侯爵は、母君を連れて姉の前を通り過ぎ、一度も振り返らずに天幕のほうへ戻っていった。
父が、大股で私のところへ来た。私の二の腕を、痛いほどつかんだ。
「帰るぞ」
閣下は、父を止めなかった。手も伸ばさなかった。ただ、父の背中に向かって、はっきりと言った。
「伯爵。順番は、守っていただいて結構です」
父の足が止まった。
「私は待ちます」
父は返事をせず、私を引っぱって歩き出した。姉が泣き声を上げ、母がそれを抱えるようにして後ろからついてくる。
馬車寄せの手前で、ちょうど着いたばかりの叔母とすれ違った。叔母は父の顔と、つかまれた私の腕を見て、その場で足を止めた。
馬車寄せへ向かう背中に、客たちの囁きが追いかけてきた。
「お聞きになった? 公爵閣下が、順番待ちをなさるそうよ」




