叔母の屋敷の作戦会議
十月十六日の午後、ハーグリーヴズ侯爵邸の小さな客間には、帳面が三冊並んでいた。
一冊は私の条件帳。一冊は閣下が持ってきた、黒い革の手帳。もう一冊は叔母のもので、窓際の書き物机の上に開いてある。侯爵家の今月の帳簿だ。付き添いの婦人は部屋にいればいいので、叔母は「あなたたちの話は勝手に聞いているわ」と言って、仕立て屋の請求書と睨み合っている。
私の侍女のベッツィは、扉の脇の椅子で刺繍をしていた。刺繍針が、さっきから一目も進んでいない。
「キャラウェイ侯爵ダンスタン、二十五歳」
閣下が手帳を開いた。
「二年前に父君を亡くして家督を継いだ。銀髪で、背は私と同じくらい。踊りは王都で一番うまいと言われている。王都に屋敷がある。顔に傷はない。詩は、本人いわく『人並みに』。誕生日を覚えるのは得意だそうだ」
「キャラウェイ侯爵は、名鑑では婚約中となっていたはずです」
「春まではそうだった。夏に、相手の家の都合で解消になった。まだ王都でも、知っている者は少ない」
私は条件帳の、名鑑から書き写した七人の欄を見た。婚約中と書いて線を引いた一人の名の横に、小さく「夏に解消」と書き足した。
「十個、全部ですね」
「七つ目は分からない。それは誰にも分からない」
閣下が真顔で言ったので、私は少し笑ってしまった。
「キャラウェイ侯爵は、二十一日に自邸で園遊会を開く。母君の侯爵夫人のための会だ。招待状はフェアファクス家にも届くように頼んである」
そこで、私は条件帳の新しい頁を開いた。前の晩に考えておいた段取りである。
「それなら、園遊会で、偶然お会いするという形にできないでしょうか」
「応接間の見合いではなく」
「はい。姉は、人に見られている場のほうが機嫌がいいのです。応接間で四人に見られるより、庭で四十人に見られるほうが、ずっと上手に笑います」
閣下の口の端が、ほんの少し動いた。
「申し入れは父の名で出していただきます。そのうえで、園遊会の当日に、薔薇の棚の前で侯爵とご挨拶をする。三時に四重奏が始まりますから、芝生で一曲踊っていただく。姉は踊っているときが一番きれいなので、そこで侯爵の目に残れば、話はうまく進みます」
「侯爵の母君は」
「そこが一つ、気になっています」
私は正直に言った。
「姉は、年配の方の昔話が苦手です。退屈すると、顔に出ます。侯爵がお母様を大事になさる方なら、お母様と姉が長く話す場は、作らないほうがいいと思います。ご挨拶は短く、私がそのあとすぐにお母様のお相手をします」
閣下は手帳に何かを書きつけた。
「砦の補給の組み方に似ている」
「補給、ですか」
「どこで何が足りなくなるかを先に読んで、足りなくなる前に荷を置いておく。悪い道は、最初から通らない」
褒められたのかどうか、よく分からなかった。けれど閣下の声は、父が私を「帳簿をつけるしか能のない娘」と言うときの声とは、まるで違っていた。
段取りが一通り決まったところで、私は前から聞きたかったことを聞いた。
「閣下。なぜ、ここまで手伝ってくださるのですか」
「前にも言った。姉君が早く嫁いだほうが、私に都合がいい」
「どういうご都合なのか、伺っても?」
閣下は手帳を閉じた。
「いずれ話す」
「それと、三年前のことも、伺ってよろしいですか。姉が、閣下から三年前に縁談をいただいたと申しておりました。父に尋ねたら、お前の知ることではない、とだけ言われました」
閣下は少しのあいだ黙っていた。
「それも、いずれ。今話すと、あなたの段取りの邪魔になる」
それだけだった。窓際で、叔母がペンを走らせる音が止まり、また始まった。
しばらくして、閣下がまた口を開いた。
「あなた自身の条件は」
「私の、ですか」
「姉君の条件は十個ある。あなたの条件は、一つしか聞いていない。姉君が先に嫁ぐこと、というのは、相手への条件ではないだろう」
私は返事に困った。
「考えたことがありません。姉が先なので」
「考えておいてほしい」
閣下は、静かにそう言った。命令ではなく、頼むような言い方だった。
私は条件帳を一番後ろまでめくった。白い頁が一枚残っている。ペンを持ったが、何を書けばいいのか、一字も浮かばなかった。二十年のあいだ、私に条件を出す人はいても、私の条件を聞く人はいなかったのだと、そのとき初めて気がついた。
私は何も書かずに帳面を閉じた。
「順番ねえ」
窓際から、叔母の声がした。叔母は帳簿から顔も上げずに言った。
「兄さんがそれを言うの。私がドルシラ姉さんより先に嫁いだとき、婚姻台帳に署名したのは兄さんよ」
私の手が止まった。
「……叔母様が、伯母様より先に?」
「ええ。私が十九で、姉さんは二十四。ハーグリーヴズの家から申し入れが来て、兄さんは三日で署名したわ。家の決まりなんて、あのとき一度も聞かなかったけれど」
叔母はペン先をインク壺に浸して、なんでもないことのように続けた。
「まあ、二十四年も前の話だものね」
私は膝の上で、条件帳を握りしめていた。
家の決まりだ、と父は言う。姉より先に嫁ぐなど許さん、と。四度、そう言われた。その決まりを、二十四年前の父は、三日で破っていた。
顔を上げると、閣下が私を見ていた。何も言わなかった。ただ黒い手帳を開いて、一行、何かを書き足した。
◇
屋敷に戻ったのは、夕方の五時を過ぎたころだった。
階段を上がると、私の部屋の前に、姉が立っていた。
姉が私の部屋の前で待っていることなど、これまで一度もなかった。用があれば、呼びつければいいのだから。
「公爵様と会っていたそうね」
「はい。叔母様のお宅で、次の方のご相談を」
「そう」
姉は扇を閉じたり開いたりしていた。
「……あの方に、何か言われた?」
「何か、とは」
「何でもないわ」
姉は踵を返し、自分の部屋へ戻っていった。
廊下に一人残されて、私は姉の背中を見送った。今の姉の目は、いつも私を見るときの目ではなかった。見下ろす目でも、面白がる目でもなく、何かを確かめようとする目だった。
一週間前、閣下が応接間で姉を見ていたときの目に、少しだけ似ていた。




