番外編 自分の分
婚礼の朝食の席次の下書きには、直したいところが三つあった。
一つ。姉に断られた殿方たちが、全員ひとつの卓に固まっている。これでは、あの卓だけ姉の見合いの思い出話で持ちきりになる。二つ。キャラウェイ侯爵の母君の席が、庭の見える窓から一番遠い。薔薇のお好きな方なのに。三つ。モーティマー卿の席の前に、羊の煮込みの皿が一つしかない。
春のはじめ、婚礼の三日前の午後。西の丘のケンドリック公爵邸の小食堂で、私は家令の方が作った席次を前にしていた。付き添いの叔母は、隣の客間で献立の相談をしている。
婚礼は大聖堂で挙げ、そのあとこの屋敷で朝食を開く。席次を組むのは新郎の家の役目だ。分かってはいる。分かってはいるのだが、指が勝手に席札の束へ伸びていた。
席札の束の横には、手紙が置いてあった。
一通は父からだった。宛名も中身も、父の字だった。
『三日後、大聖堂で署名する』
それだけの手紙だった。秋までの父なら、私に書かせていただろう。
もう一通は、南の姉からだった。
『婚礼の席は、窓のそばの、光の入る席にしてちょうだい。ハスウェル様が、皆さまのドレスの色を見たいそうだから。わたくしの席は、あの方の隣よ。仲立ちなら、それくらい分かるでしょう』
姉は、あのあと染め場を見に行った。藍の甕の匂いに一度だけ顔をしかめて、それから半日、染め上がった布の前から動かなかったそうだ。二度目の見合いも済んだ。まとまったとは、まだ誰も言っていない。それでも、私は仲立ちとして、ハスウェル様を婚礼に招いていた。
私は姉の手紙を置き、窓のそばの卓の札を手に取った。
その束が、横から取り上げられた。
「席次は、家令とやる」
閣下だった。
「閣下。家令の方の席次では、断られた殿方たちが一つの卓に」
「あいつらは一つの卓でいい。喜ぶ」
「侯爵の母君が、窓から」
「それは直す。羊の煮込みも増やす」
閣下は席札の束を自分の上着の内側にしまった。
「その前に、あなたの分だ」
◇
大聖堂の石段で、閣下は私に条件を一つ出した。これから先は、順番を気にせず、自分の分を先に書くこと。
私は承知して、条件帳の最後の頁に、その条件を書き写した。
それから今日まで、その頁には、一行も増えていない。
姉の頁には、ハスウェル男爵家の名と、確かめた羊の匂いのことを書いた。ジャイルズへの引き継ぎの帳面も書いた。婚礼の客の一覧も、贈り物への礼状の控えも書いた。人の分なら、いくらでも書けた。
「あれから、閣下のご条件のほかは、一行も足しておりません」
「だろうと思った」
閣下の書斎に通された。窓の大きな部屋で、机の上に、北の砦の地図がまだ広げてある。閣下は私を机の前に座らせ、自分は窓際に立った。
「待つ」
「お時間をとらせてしまいます」
「待つのは得意だ」
それは、よく存じている。
私は条件帳の最後の頁を開いた。一行目は、秋に書いた一行だ。内緒にしてと頼んだことを、三年守ってくださる方。その下に、閣下の条件。そこから下が、白い。
ペンを持った。
何も浮かばなかった。秋に閣下に「あなた自身の条件は」と聞かれたときと、同じだった。姉の十の条件なら、全部そらで言える。父の好きな葡萄酒の銘柄も、母が嫌いな花の名前も、ジャイルズが冬に風邪をひきやすいことも知っている。秋の一行のあと、自分が何を欲しいのかは、帳面のどこにも増えていなかった。
窓際で、閣下は何も言わなかった。
時計の音が聞こえた。
最初に書きかけたのは『閣下の紅茶は、濃く淹れて何も入れないこと』だった。書いてから、これは閣下の分だと気づいて、線を引いた。
窓際で、閣下の肩が少し揺れた。見えていたらしい。
私は、自分が欲しいものではなく、自分がしてこなかったことを考えた。それなら、いくつか思いついた。
最初の一行を書いた。少し迷ってから、次の一行を書いた。最後の一行は、すぐに書けた。
◇
「できました」
閣下が窓際から来て、私の肩越しに頁を見た。
『一つ。踊りの札の一曲目は、閣下と踊ること』
『一つ。手紙の終わりには、自分の名前を書くこと』
『一つ。誕生日の布は、自分で選ぶこと』
閣下は、長いこと黙っていた。
「一つ目は」
閣下の声が、少し低くなった。
「あなたの分か。俺の分に見える」
「私の分です。私が、そうしたいので」
王妃陛下の舞踏会で、閣下は最後の一曲を待っていた。札のいちばん下の、順番待ちの欄だった。今度は、いちばん上の欄に閣下の名前を書いておきたかった。
閣下は口元を手で覆った。秋の夜会で、私が「足しておきます」と言ったときと同じ仕草だった。あのときは、笑っているのか咳をこらえているのか分からなかった。今は、分かる。
「二つ目は」
「父の名前で、たくさん書いてきましたので」
「三日後からは、ケンドリックだ」
「はい。書く練習をしておきます」
「三つ目は、青い絹のことか」
「はい」
閣下は、南の応接間で、あの話を聞いていた。
「ハスウェルの染め場に、色見本を頼んでもいいか。選ぶのは、あなただ」
「……はい。お願いします」
それなら、三つ目の条件は外れない。
◇
閣下は上着の内側から、席札の束と一緒に、黒い革の手帳を出した。
「これを見せる約束はしていなかったが」
閣下は手帳の最初の頁を開いて、私の前に置いた。
『見合いに同席』
閣下の字だった。
「秋の夜会の夜に書いた。あなたが帳面に書いたのと、同じ日だ」
私は、自分の条件帳の、姉の七つの条件の下の段を見た。閣下のご条件・見合いに同席。同じ言葉が、同じ夜に、二冊の帳面に書かれていた。
二行目には、こう書いてあった。
『四十分。彼女は一度も座らない』
「……数えていらしたのですか」
「砦の癖だ」
閣下は真顔で言った。それから手帳の新しい頁を開き、私の三つの条件を、一つずつ書き写した。書き写し終えると、ペンを置いて、私を見た。
「承知した。足しておく」
その言葉を、私はいつも、人に言うばかりだった。
言われる側に回ったのは、初めてだった。
◇
小食堂に戻ると、閣下は約束どおり、席札の束を私に返してくれた。家令の方も呼んで、窓のそばの卓から組み直した。母君を庭の見える席に移し、モーティマー卿の前に煮込みの皿をもう一つ足した。断られた殿方たちの卓は、閣下の言うとおり、一つのままにした。
窓のそばの、光の入る席に、姉の札とハスウェル様の札を並べて置いた。
最後に、一枚だけ白い札が残った。花嫁の席の札だ。
私はペンを取って、そこに自分の名前を書いた。
ウィニフレッド・ケンドリック。
三日早いけれど、練習なので。
番外編まで最後までお読みいただき、ありがとうございました。順番待ちをしていた閣下と、条件帳の自分の頁に、ようやく自分の分を書いた妹のお話でした。
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