番外編 わたくしを見ない方(クリスタベル視点)
あの方が応接間に入ってきてから、わたくしを見た殿方は、一人もいない。
公爵閣下は、窓際の椅子からウィニーを見ている。いつものことだ。男爵は、お母様と南の冬の寒さの話をしている。そして、わたくしの見合いの相手であるはずのフィニアス・ハスウェル様は、さっきからずっと、わたくしの袖を見ている。
袖だ。顔ではなく。
わたくしは王都で、いちばん美しいと言われてきた。夜会の大広間に入れば、十分で十人は振り返った。それが南の館の応接間で、殿方が三人もいて、零。
「ハスウェル様」
わたくしは扇を半分だけ開いて、目元で笑った。
「王都では、わたくしのことを、どんなふうにお聞きになっていて?」
「申し訳ありません」
ハスウェル様は、袖から目を上げずに言った。
「南にいると、王都の噂は届くのが遅いのです。羊の毛を刈るころに、去年の噂が届きます」
窓際で、公爵閣下が小さく咳をした。笑いをこらえた咳だと、わたくしには分かった。
◇
「そのドレスの青は」
ハスウェル様が、ようやく口を開いた。わたくしについて、ではなく、ドレスについて。
「うちの藍です」
「まあ」
「控えに残っています。ハーグリーヴズ侯爵夫人のご注文でした。姪御さんのお誕生日に贈る布を、茶色の髪に映える青で、と承りました」
叔母様の扇が、止まった。
ウィニーが、茶の小卓のそばで目を伏せた。
ハスウェル様は、何も気づかない顔で続けた。
「ですから、金の髪だと、少し沈みます。悪い青ではないのですが、合わせた相手が違うので」
「クリスタベルの瞳の色に合うと思って、私が……」
お母様が言いかけて、そこで止まった。続きを言えば、誰の布を誰のドレスにしたのかを、自分の口で言うことになる。
わたくしは、知っていた。
このドレスが、あの子の誕生日の布で仕立てたものだということは、最初から知っていた。知らなかったのは、それが人の口から出たとき、わたくしがどう見えるかのほうだった。
顔が熱くなった。扇で隠すほどではない。隠せば、隠したことになる。
「では」
わたくしは、ハスウェル様をまっすぐ見た。
「わたくしに合う青は、どんな青ですの」
ハスウェル様が、初めてわたくしの顔を見た。
髪を見て、目を見て、頬を見た。うっとりした目ではなかった。値踏みする目とも違った。わたくしが夜会で人のドレスを見るときの目に、少しだけ似ていた。
「もう少し、緑を残した青です。甕から上げてすぐの色です」
見られた、と思った。
十四人の殿方に見られてきたのに、こんなふうに見られたのは初めてだった。
◇
「ハスウェル様。男爵家のお暮らしでは、この子には少し……」
お母様が、また口を挟んだ。王都の屋敷の話、冬の社交の話、侍女の数の話。
「お母様」
わたくしは、扇を閉じた。
「少し、黙っていらして」
応接間が静かになった。
言ってから、わたくしは自分で驚いた。お母様に黙ってと言ったことなど、これまで一度もなかった。お母様は、口を開けたまま、わたくしを見ていた。
ハスウェル様だけが、何事もなかったように話を続けた。
「王都のご令嬢がたは、今どんな色をお召しですか。仕立て屋から聞く話と、実際に着られている色が、どうも違う気がしていて」
わたくしは、扇を膝に置いた。
それなら、知っている。
秋の夜会で、侯爵家のご令嬢が着ていた薔薇色の紗は、仕立て屋の言い値で金貨七枚。けれど裾の刺繍が手抜きで、六枚の値打ちしかない。伯爵家の双子のお嬢様がたは、二人とも同じ若草色で、片方だけが似合っていた。今年の冬は、くすんだ紫がはやる。王妃陛下の舞踏会で、陛下の侍女たちがそろってあの色を着ていたから。
気がつくと、ハスウェル様が懐から小さな帳面を出して、青い指で書き取っていた。
「若草色は、どちらが似合っていましたか」
「髪の赤いほうよ。当たり前でしょう」
「当たり前ではありません。うちの番頭は、去年、若草を黒髪の方に勧めて外しました」
ハスウェル様は、帳面から顔を上げた。
「あなたの目は、うちの番頭より確かです」
褒められた。
顔ではなく、目を。
わたくしは、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。だから、扇を開いて、その陰で、ほんの少しだけ笑った。
◇
それから公爵閣下が、藍の甕は冬のあいだも温めておくのか、と尋ねた。砦の兵糧の話でもするような顔だった。ハスウェル様が甕の温め方を話しはじめ、お母様が青ざめ、叔母様が扇の陰で肩を震わせた。
ウィニーは黙って、茶を配っていた。
秋の見合いのときと同じ場所に、あの子は立っていた。今日は誰も、お茶がぬるいとは言わなかった。言うとしたら、わたくしだったのだけれど。
わたくしは、ハスウェル様を見ていた。
手首まで青い手。洗っても落ちないのだと、さっき男爵が言っていた。足元は、田舎の丈夫な靴だった。三人目の方を、靴の形が田舎くさいと言ってお断りしたことを、わたくしは思い出した。背は、わたくしと並んでも頭一つ高くはない。髪は黒い。
それでも、目を離す気にはならなかった。
帰り際、玄関でハスウェル様が振り返った。
「よろしければ、染め場を見においでになりませんか。匂いますが」
そこで一度、言葉を切った。
「羊の匂いではありません」
ウィニーが、条件帳を持ったまま、こちらを見た。
「考えておくわ」
わたくしは、そう答えた。
◇
馬車を見送ったあと、廊下でウィニーと二人になった。
あの子は条件帳を胸に抱えて、わたくしの顔色をうかがっていた。見合いのあとで、あの子がわたくしの顔色をうかがうのは、いつものことだ。いつもと違うのは、わたくしのほうが先に口を開いたことだった。
「どうして、あの方なの」
「お姉様の目を、欲しがってくださる方だと思ったので」
ウィニーは、すぐに答えた。前の晩から用意してあった答えのように。
「わたくしの目なんて。人のドレスの値段が分かるだけよ」
「はい。それが分かる方は、王都にもあまりいません」
わたくしは、返す言葉を探した。見つからなかった。この子に、わたくしの取り柄を言われたのは初めてだった。顔のことなら、誰にでも言われてきたのに。
しばらくして、わたくしは別のことを言った。
「あの青。あなたが着たほうが、似合ったでしょうね」
謝るつもりはなかった。謝り方を、わたくしは知らない。
ウィニーは少し考えてから、首を傾げた。
「どうでしょう。着たことがありませんので」
「……そう」
わたくしは、それ以上何も言わずに、自分の部屋へ戻った。
◇
その夜、わたくしは自分の部屋で、十の条件を数えた。
伯爵家の嫡男より上。いいえ、男爵家。王都に屋敷。いいえ、南の丘の上。二十代。はい。背が高い。いいえ。踊り。知らない。金か銀の髪。いいえ。わたくしだけを見る方。いいえ。あの方が見ていたのは袖だ。詩。知らない。わたくしの誕生日。聞かれもしなかった。顔に傷のない方。はい。
十のうち、二つ。
羊の匂いのする方は嫌、という条件も、まだ消していない。
わたくしは衣装箱を開けて、明日着ていくドレスを選びはじめた。染め場は寒いだろうし、汚れるかもしれない。それでも、緑の残った青に、いちばん近い色を探した。
青い絹のドレスは、たたんで、衣装箱のいちばん底にしまった。
あれは、あの子の青だ。




