番外編 羊の匂いのしない方
姉の縁談の条件は、二つしかない。二つしかないのに、十あったころより難しい。
一つ目は「ウィニーが、いいと思う方」。爵位も、背の高さも、髪の色も書いていない。何を見て選べばいいのかが、どこにも書いていないのだ。
二つ目は「羊の匂いのする方は嫌」。こちらは分かりやすい。分かりやすいぶん、厄介だった。
一月のはじめ、ハーグリーヴズ侯爵邸の小さな客間で、私は条件帳の姉の頁を開いていた。窓際の書き物机では、叔母が侯爵家の帳簿と睨み合っている。
弟のジャイルズからは、年の瀬に手紙が来ていた。姉の縁談を本当にまとめるのか、私は自分の支度を先にするのではなかったのか、と。
返事には、こう書いた。
『はい。私の支度は、叔母様がほとんど済ませてくださいました。それに、お姉様の縁談をまとめるのは、私がしたいことなので、私の分です』
書いてから、少し考えた。これで合っているのかどうかは、閣下に聞いてみないと分からない。
◇
その閣下は、貴族名鑑と黒い革の手帳を抱えて、約束の時刻ちょうどに現れた。
「候補を持ってきた」
「閣下が、ですか」
「姉君の縁談だろう。乗らない手はない」
閣下は名鑑を卓に広げ、手帳を開いた。秋の作戦会議のときより、ずっと楽しそうに見える。
「一人目。西の伯爵家の嫡男。穏やかで、詩を読む。姉君より背が高い」
「背の条件は、もうございません」
「念のためだ」
「ご領地に、羊は」
閣下は手帳に目を落とした。
「……いる」
「外しておきます」
閣下は眉一つ動かさず、次の頁をめくった。
「二人目。東の子爵家の当主。海沿いの領地で、羊は飼っていない」
今度は、先に言ってくださった。
「では、何を飼っておいでですか」
「山羊だ」
私は少し考えた。
「姉は、羊と山羊を嗅ぎ分けないと思います」
窓際で、叔母のペンの音が止まった。
三人目のとき、閣下は手帳を開きかけて、閉じた。
「バートは――」
「モーティマー卿は、羊が多すぎます。それに、姉はあの方のお顔に、十個目の条件を足しました」
「そうだった。忘れてくれ」
閣下はそのあとも、名鑑から一人ずつ挙げた。南の家は羊、北の家も羊、王都に近い家は羊を王都の外に預けていた。王国の貴族の領地というのは、だいたい羊でできているらしい。
手帳の候補に線を引き終えて、閣下は珍しく黙った。私は、前から気になっていたことを聞いた。
「閣下のご領地にも、羊は」
閣下は窓の外を見た。
「……いる」
叔母が、帳簿から顔も上げずに噴き出した。
◇
「そもそも」
閣下が手帳を閉じて言った。
「あなたが『いい』と思うのは、どういう相手だ」
私は、それを一晩考えていた。
「姉は、人の顔を見ません。見るのは、髪の色と、声の低さと、靴の形と、着ているドレスの値段です。十四人をお断りした理由も、ほとんどがそこでした」
「それは、見ているのではないか」
「外側だけです。でも、ドレスの値段だけは、姉は一度も外したことがありません。夜会で人のドレスを見れば、仕立て屋の言い値まで言い当てます」
閣下が、手帳から顔を上げた。
「王都では、それは姉の悪い癖でした。誰も、そんな目を欲しがりませんでしたから。でも、どこかにその目を欲しがる方がいれば、姉は初めて、自分の目で役に立てます。そういうところへ、姉をお連れしたいのです」
私は鞄から、帳面を一冊出した。
伯爵家を出るとき、引き継ぎの帳面にそう書き置いて、借りてきたものだ。南の領地の差配人と、取引先との手紙の控えである。父の名で返事を書いていたのは私なので、どの手紙も中身は覚えている。
「ハスウェル男爵家です。南の領地の隣で、藍の染め場を営んでおいでです。うちの羊毛を、毎年買ってくださっています」
男爵家の手紙を書いているのは、跡継ぎのフィニアス・ハスウェル様だった。お会いしたことはない。けれど三年分の手紙で、人となりなら少しは分かる。
払いが一度も遅れたことがない。南の差配人が代金を少なく書き違えた年には、何も言わずに正しい額で払ってきた。うちの荷に湿った羊毛が混じっていた年には、値を下げろとは書かずに、どの袋が湿っていたかと、次の年の乾かし方を書いてよこした。どの手紙にも、お世辞が一行もない。そして手紙の終わりには、いつも色の名前が一つだけ書いてある。その年の藍の出来なのだそうだ。
閣下は控えを手に取り、何通か読んだ。
「字が、あなたの字に似ている」
「そうでしょうか。几帳面な方なのだと思います」
「……そうか」
閣下は控えを卓に戻した。なぜか少し面白くなさそうだった。
「羊の匂いは」
「染め場は、羊毛を洗ってから染めます。羊の匂いはしないと思います。藍の匂いはしますが」
私は条件帳の姉の頁に、男爵家の名を書いた。それから、羊の条件の横に小さく書き添えた。
「確かめておきます」
「ハスウェルの染め場?」
窓際から、叔母の声がした。叔母はペンを持ったまま、こちらを振り返っていた。
「懐かしいわね。私の娘時代のドレスも、あそこの青だったわ」
叔母は何か言いかけて、やめて、帳簿に目を戻した。
◇
段取りは、いつものように組んだ。
仲立ちは叔母の名で頼み、申し入れは男爵家から父へ出していただく。見合いは、女の側の屋敷の応接間で。姉と母は南の館にいるので、南で開く。
父の返事は、ほどなく届いた。見合いを許す、場所は南の館で、とだけ書いてあった。封筒の宛名の字を見て、私は少し驚いた。父の字だった。
母からは、男爵家などと、と三枚にわたる手紙が来た。
姉からは、一行だけ来た。
『ウィニーが、いいと思うなら』
◇
南へは、叔母の付き添いで向かった。閣下も一緒だった。
「見合いの席に、あなたも同席するのだろう」
「はい。仲立ちですので」
「なら、俺も同席する」
秋に閣下が出した条件の、ちょうど裏返しだった。叔母が馬車の中で扇を広げ、その陰で笑っていた。
南の丘陵は、見渡すかぎり羊だった。冬毛でふくらんだ白い背中が、枯れた草の上にいくつも散らばっている。
「多いな」
「南ですので」
閣下は窓の外の羊を、なぜか真剣な顔で眺めていた。
◇
見合いの日、南の館の応接間に入ると、姉はもう座っていた。
誰に急かされたのでもないのに、姉は約束の時刻より前から座って待っていた。
姉は、青い絹のドレスを着ていた。私の誕生日に叔母が贈ってくれた布で、母が仕立てさせたドレスだ。母が選んだのだろう。姉の瞳の色に、いちばん合うのだと母はいつも言う。
私は何も言わずに、茶の小卓のそばに立った。秋と同じ場所だった。閣下は窓際の椅子に、叔母は母の隣に座った。
表で馬車の音がした。
扉が開き、男爵と、その跡継ぎが入ってきた。
フィニアス・ハスウェル様は、黒い髪の、背の高くない方だった。礼をするために上げたその両手は、指先から手首まで、深い青に染まっていた。
姉が扇を開き、その陰で、小さく鼻を動かした。
「……羊の匂いは、しないのね」




