番外編 帳簿のない家(ジャイルズ視点)
家に帰って最初に気づいたのは、玄関の銀の盆に、招待状が一通も載っていないことだった。
十二月の末、王立学院が冬休みに入った日の夕方である。この盆には毎年、冬も王都に残る家どうしの晩餐の招待状が、父上の名で何通も重なっていた。今年は請求書が、角もそろえずに置いてあるだけだ。
玄関の広間は寒かった。暖炉の火は、薪をけちった火だった。
「ジャイルズ様。お帰りなさいませ」
執事が僕の外套を受け取りながら、ほっとした顔をした。いつもは顔色を変えない人だ。
「姉上は、叔母上のところだね」
「はい。十一月の半ばから、ご婚礼のお支度で」
知っている。手紙に書いてあった。花嫁の支度はふつう母親がするものだが、母上は南の領地から戻らず、引き受けなかった。それで叔母上が引き受けて、姉上を自分の屋敷に移したのだ。
姉上というのは、下の姉のウィニフレッドのことだ。上の姉はクリスタベル姉上で、母上と一緒に南にいる。僕は小さいころから、上の姉上とまともに話した覚えがあまりない。
「それで、家はどうなっている」
執事は少し迷ってから、指を折りはじめた。
石炭屋への注文が遅れ、届いたのが先週だったこと。蝋燭屋が掛けを嫌がり、品物と引き換えに払いを求めるようになったこと。使用人の給金が一度遅れたこと。家の手紙の返事が、書斎の机に溜まっていること。
「お嬢様がいらしたころは、私どもは毎朝、お嬢様に伺えばよかったのです。今は、旦那様に伺っても……」
執事はそこで口をつぐんだ。
勝手口のほうから、言い争う声が聞こえてきた。
◇
勝手口に、蝋燭屋の主人が立っていた。箱を一つ抱えて、料理番と押し問答をしている。
僕が顔を出すと、主人は帽子を取った。
「これは、若様。お帰りでしたか」
「払いのことかい」
「はい。手前どもも、こんなことは申したくないのですが」
主人は箱を抱え直した。
「これまでは、ウィニフレッドお嬢様が、決まった日にきちんとお支払いくださいました。遅れそうな月には、前もってお手紙で知らせてくださった。ですから手前どもも、安心して掛けでお納めしておりました。それが近ごろは、伯爵様のお名前のお約束は、王都では、その……」
主人は、その先を言わなかった。
言わなくても分かった。季節納めの舞踏会のことは、学院の寄宿舎にまで届いていた。王妃陛下が、本人の意思を偽って返事を書く家の方を宮廷に招かない、とおっしゃったこと。それからというもの、父上の名で書かれた約束を、王都ではそのまま受け取ってもらえなくなったこと。
「今日の分は、僕が払う。次からのことは、少し待ってほしい」
僕は学院へ持っていくはずだった小遣いの財布から払った。主人は少しほっとした顔で、箱を置いていった。
◇
書斎の扉を叩くと、父上の声がした。
「入れ」
父上は、暖炉のそばの小机に座っていた。
姉上がいつも帳簿をつけていた机だ。父上の大きな体には低すぎて、背中が丸くなっている。机の上に帳簿が開いていて、インクの染みがいくつも散っていた。
「ジャイルズか。ちょうどいい」
父上は帳簿から顔を上げずに言った。
「数字が合わん。仕立て屋の払いが二度載っているのか、一度も載っていないのか、分からん」
「姉上は、どうつけていたんですか」
「そんなものは、誰にでもつけられる」
父上はペンを置いた。
「お前は跡継ぎだ。休みのあいだ、お前がつけろ」
「そのつもりで帰ってきました」
僕は机の前に立った。
「姉上の引き継ぎの帳面はどこですか。父上に預けたと、手紙に書いてありました」
父上は少し黙った。それから机の引き出しを開けて、薄い帳面を一冊出した。
帳面には、紐が十字にかけてあった。結び目は姉上の結び方だった。小さく、固く、端がきちんとそろえてある。
一度もほどかれていなかった。
「父上。読んでいないんですか」
「読むまでもない」
僕は紐をほどいた。
◇
最初の頁には、姉上の字でこう書いてあった。
『ジャイルズへ。冬休みに覚えると書いてくれたので、あなたに宛てて書きます』
そのあとに、家のことが月ごとに並んでいた。
誰に、いつ払うか。石炭屋には寒くなる前に早めに頼むこと。蝋燭屋のご主人は、遅れそうなときに先に手紙で知らせれば待ってくださること。料理番は魚の目利きがよく、肉は執事に任せたほうがいいこと。洗濯係の娘は母上の部屋の掃除を嫌がるので、別の者に頼むこと。
どの行にも、誰が何を得意とし、何を嫌がるかが書いてあった。帳簿というより、この家の人の地図だった。
頁をめくると、こんな一行があった。
『お父様の書斎の暖炉は、十一月から毎晩。お父様は寒いとおっしゃらないので、言われる前に』
僕は暖炉を見た。
火は入っていなかった。
父上が、僕の肩越しにその頁を見ていた。父上は何も言わなかった。ただ、膝の上で手を組み直した。
最後の頁には、もう一行あった。
『南の差配人と、ハスウェル男爵家の染め場との手紙の控えを、一冊お借りしています。クリスタベルお姉様の縁談に要りますので』
「クリスタベルの縁談?」
父上が顔を上げた。
「あの子が、ウィニフレッドに頼んだのか」
「僕は知りません。でも、そう書いてあります」
父上は帳面の最後の行に目を落としたきり、顔を上げなかった。
◇
それから数日、僕は姉上の帳面のとおりに家を回した。
石炭屋と蝋燭屋に、払いの日を書いた手紙を出した。父上の名ではなく、僕の名で。使用人の給金の日を、帳面にある日に戻した。書斎の暖炉には、毎晩火を入れさせた。
帳簿は難しくなかった。姉上の帳面に、答えが全部書いてあったからだ。難しかったのは、これを書いた人が、四年のあいだ誰にも礼を言われずに、毎日これをしていたと考えることのほうだった。
蝋燭屋の主人は、また掛けで箱を置いていくようになった。帰りぎわに、若様のお字は少し右に傾いておいでですな、と言って笑った。
◇
そのあいだに、父上は一通だけ手紙を書いた。
家の手紙を父上が自分の手で書くのを、僕は初めて見た。宛先は叔母上の屋敷の姉上で、婚礼までのあいだ、ときどき帳簿を見に戻ってこられないか、という手紙だった。最後に、家のためだ、と書いてあった。父上が書きかけの便箋を机に置いたまま席を立ったので、読めてしまったのだ。
返事は二日後に来た。
姉上の字だった。封筒の裏には、姉上の名前があった。父上宛ての手紙を、姉上が自分の名前で書いてきたのは、たぶん初めてだ。この家の手紙は、いつも父上の名前で、姉上が書いていたのだから。
父上は封を切って読み、机に置いた。僕にも見えるように置いたのかどうかは、分からない。
『お手紙ありがとうございます、お父様。帳簿のことは、ジャイルズへの帳面に全部書いてあります。ジャイルズなら、私よりうまくやれます。私は今、自分の支度を先にしております。書斎の暖炉は、毎晩入れてください』
父上は、長いこと黙っていた。
自分の支度を先に。姉上の手紙に、そんな言い方が出てきたことはなかった。
「父上」
僕は帳面を閉じた。
「秋の手紙で、父上には僕から言うと書きました。今、言います」
父上が顔を上げた。
「家の帳簿は、僕が覚えます。でも、家の手紙は、これから父上がご自分の字で書いてください。もう誰にも、父上の名前で書かせないでください」
父上は、何か言いかけた。お前のためだ、と言うときの顔だった。けれど、何も言わなかった。
その日も、玄関の銀の盆に、晩餐の招待状は来なかった。
一通だけ来た封筒は、僕宛てだった。学院の友人の家から、新年の茶会への誘いだ。宛名は、フェアファクス伯爵令息ジャイルズ様。父上の名は、どこにもなかった。
父上はそれを見て、何も言わずに書斎へ戻っていった。夜、書斎の前を通ると、父上が暖炉の前にかがんで、自分で薪を足していた。
◇
僕は自分の部屋で、姉上に短い手紙を書いた。
『帳面は読みました。暖炉には火を入れています。父上にも、言いました』
それから少し迷って、もう一行足した。
『クリスタベル姉上の縁談は、本当にまとめるつもりですか。姉上は、自分の支度を先にするんじゃなかったんですか』




