番外編 柱のそばの一時間(ローワン視点)
広間の柱のそばに立てば、入口と楽団と壁際が、首を動かさずに一度に見える。
砦で覚えた立ち方だ。十月五日の夜、ある侯爵家の大広間で、俺は楽団が最初の曲を始める前から、そこにいた。
フェアファクス家の誰が今夜来るのかは、従者に確かめさせてあった。伯爵夫妻と長女は来ない。次女が、ハーグリーヴズ侯爵夫人の付き添いで来る。
王都に戻った日に、俺は今年の貴族名鑑を引いた。フェアファクス伯爵家の欄の、次女の名の横に「未婚」とあった。
三年前の返事には、本人がこの縁談を望まない、と書いてあった。望まなかったのなら、ほかに望む相手がいたのだろうと思っていた。三年たっても、その欄は「未婚」のままだった。
返事と名鑑の欄が、どう噛み合うのか分からなかった。分からないまま、確かめに来た。遠くから一度見て、帰るつもりだった。断られた家の娘に、こちらから近づくのは礼に反する。
◇
令嬢を連れた母親たちが、柱のそばへ挨拶に来はじめた。
俺は一組ずつ礼をし、短く話し、娘を踊りに誘わなかった。一人と踊れば、残りの全員と踊らなければならなくなる。踊っているあいだは、入口が見えない。
靴の先が、楽団の拍子を勝手に拾っていた。落ち着かないときの癖だ。砦でバートに「お前の足は、敵より先に来る」と笑われたことがある。
彼女が入ってきたのは、何組目かの母親が下がったころだった。
侯爵夫人の隣に、茶色の髪をきっちりまとめた娘がいた。飾りの少ないドレスで、扇を閉じたまま持っている。あのときの俺は、天幕の外で一言話したきり、あとは広間の端にいる彼女を遠くから見ただけだ。それでも、入口の人の波の中から、すぐに分かった。
彼女は壁際に立ち、こちらを見ていた。
ずっと見ていた。俺が次の母親に礼をするたびに、彼女の目が、母親と俺のあいだを行き来する。何かを数えているような目だった。
なぜ見られているのか、分からなかった。天幕の外のことを、彼女が覚えているのか。あの返事のとおり、自分が望まなかった男として俺を見ているのか。どちらにしても、ここから動くわけにはいかない。
最後の母親が、目の赤くなった娘の手を引いて戻っていった。泣かせたのは俺だ。悪いことをしたと思った。
そのとき、侯爵夫人が彼女の腕を取って、こちらへ歩き出した。
◇
来るとは思っていなかった。
人の輪を抜けて、二人がまっすぐ柱へ向かってくる。退く道ならいくらでもあった。足のほうが動かなかった。
「ケンドリック公爵閣下。お戻りになったと伺って、ご挨拶をと思いまして。ハーグリーヴズの家内でございます」
「侯爵夫人。ご丁寧に」
「こちらは姪の、ウィニフレッドです」
礼をしようとして、体が止まった。
天幕の外では、日の光が彼女の顔の半分を隠していた。いまは燭台の光の下で、手を伸ばせば届くところにある。きっちりまとめた髪の生え際に、一筋だけほつれた毛があった。それを見ているうちに、礼の続きを忘れた。
「……フェアファクス家の、次女」
口から出たのは、それだけだった。名鑑の欄の読み方だ。我ながら、ひどい挨拶だった。
「はい。ウィニフレッド・フェアファクスと申します」
彼女が礼をして、ようやく体が礼の続きを思い出した。
彼女は前置きをしなかった。
「閣下。突然のお願いで失礼いたします」
深く頭を下げる。俺は、その次に来る言葉を待った。待ちながら、自分が何を待っているのかに気づいて、少し驚いた。
「姉を、もらっていただけませんか」
あの返事が誰の言葉だったのかは、その一言で足りた。
◇
彼女は順に話した。話の運びに無駄がなかった。父君が「姉より先に嫁ぐなど許さん」と言うこと。それで自分への縁談が四度断られたこと。父君が署名しない限り、自分はどこへも嫁げないこと。
帳面が開かれた。姉君の七つの条件が、癖のない字で並んでいる。最後の一つは「わたくしだけを見る方」。
「名鑑とお噂で確かめた限り、閣下はすべて満たしておいでです。七つ目だけは存じませんが」
七つ目のところで、目が止まった。わたくしだけを見る方。三年前の俺が見ていたのは、札を入れ替えた、この帳面を持っている指のほうだ。
「あなたの条件は」
知りたかった。姉君の条件ではなく、彼女が自分のために何を望んでいるのか。
「私の、ですか」
「姉君の条件は分かった。あなたが私に求める条件は」
「一つです。姉が先に嫁ぐこと」
迷いのない答えだった。彼女の望みの中に、彼女自身がいなかった。
楽団が次の曲を始め、侯爵夫人が気を利かせて一歩下がった。
考える時間は、曲の頭の数小節しかなかった。
縁談は家と家の話で、断られたら引くのが礼だ。一度引いた家へ、同じ娘との縁談をもう一度申し込めば、伯爵はもう一度、同じ返事を書くだけだろう。本人に直接申し込むのは無作法で、それをして困るのは彼女のほうだ。
彼女のいる部屋に、礼を外さずに入れる扉は、一つしかなかった。
姉君の見合いの席だ。見合いは女の側の屋敷の応接間で開く。その席に彼女がいれば、俺はもう一度、彼女の顔を見られる。あの家の中で彼女がどう扱われているのかも、自分の目で見られる。砦の言葉でいえば、偵察だ。
「父君は、あなたへの縁談を四度断ったと言いましたね」
「はい。私が存じているのは四度です」
存じているのは、と彼女は言った。自分の知らない断りが、まだあるかもしれないという言い方だった。一つは、今、彼女の目の前に立っている。
顎に力が入るのが、自分で分かった。夜会の柱のそばで怒りを顔に出すのは下策だ。奥歯を噛んで、顎のところで止めた。
彼女が、少し困った顔をした。退屈させたと思ったらしい。違う、と言うわけにもいかなかった。
「一つ、こちらからも条件を出していいだろうか」
「どうぞ」
「見合いの席に、あなたも同席すること」
彼女は少し考えた。断られたら、ほかの扉を探すしかない。そんなものがあるとは思えなかった。
「承知しました。足しておきます」
彼女は帳面に書き足した。覗くつもりはなかったが、背の高さのせいで見えてしまった。姉君の七つの条件の下に、新しい行がある。
『閣下のご条件・見合いに同席』
俺は口元を手で覆った。
笑いをこらえたのが半分。もう半分は、別のものだった。天幕の外で一言交わしただけの男が、三年かかって、ようやく彼女の帳面の一行になった。姉君の条件の、下の段だったが。
◇
彼女は最後まで、席札のことを口にしなかった。
俺の顔を見ても、何も思い出さないらしい。あの日の天幕の外は日差しが強く、彼女は俺の顔をろくに見ないまま、姉の扇を取りに走っていった。
それなら、言わない。
あのとき彼女は、内緒にしてください、と言った。どちらのお家も悪くないので、と。こちらから言えば、内緒は内緒でなくなる。
「明日、父君に手紙を出します。見合いの申し入れとして」
「ありがとうございます、閣下」
彼女はもう一度礼をして、侯爵夫人と壁際へ戻っていった。用が済んだ、という足取りだった。
そのあと、俺は柱のそばで一時間ほど過ごした。母親たちはまだ来たが、もう数えなかった。
彼女は壁際から動かなかった。誰も彼女に踊りを申し込まなかった。俺も申し込まなかった。
申し込みたくなかったわけではない。明日出すのは、姉君への見合いの申し入れだ。その段取りを組む妹と今夜ここで踊れば、噂は姉君ではなく妹のほうへ向く。彼女の段取りを、最初の夜に俺が崩すわけにはいかない。
靴の先が、また拍子を拾っていた。
◇
屋敷に戻ったのは、日付が変わるころだった。
書斎の机で、伯爵宛ての手紙を書いた。見合いの申し入れの文面には決まった形がある。日取り、時刻、当主から当主への挨拶。ペンは迷わずに進み、娘の名を書くところで止まった。
三年前、伯爵は返事にこう書いてきた。長女クリスタベルならば、喜んで。
その名を、今度は俺が自分の手で書く。
しばらくペン先を見ていた。それから、長女クリスタベル嬢、と書いた。書いてしまえば、ただの字だった。
封をしてから、机の引き出しを開けた。北へ発つ前に買って、一度も使わなかった黒い革の手帳が入っている。補給の控えにするつもりだったが、砦では帳面が足りていた。
最初の頁を開き、一行だけ書いた。
『見合いに同席』
彼女の帳面の、姉君の条件の下の段と、同じ言葉だ。
四日後の午後、その一行のとおり、俺はフェアファクス邸の南の応接間にいた。姉君は四十分遅れて来た。そのあいだに、手帳の二行目が埋まった。




