条件帳の最後の頁
父が何を言いに行くのかは、歩き方で分かった。書斎で机を叩く前と、同じ歩き方だった。
私は叔母と目を合わせた。叔母は手提げを持ち直して、叔父の腕を取った。私たちも人垣を抜けて、広間の奥へ向かった。
王妃陛下は、一段高い席で白い羽根の扇を膝に置いていらした。そのそばに閣下が立っている。父は陛下の前で深く礼をしてから、陛下にも周りにも聞こえる声で、閣下に言った。
「閣下。お手紙のとおり、今夜お話をまとめさせていただきたい。三年前のお申し入れは、当家へいただいたもの。当家の決まりにより、長女クリスタベルがお受けいたします」
母に背を押されて、姉が進み出た。姉は陛下の前で、いちばんきれいに見える角度で膝を折った。
周りの話し声が、すっと引いた。
陛下が、扇を少しだけ開いた。
「ケンドリック。あなたが順番待ちをしているという話は、わたくしの耳にも入っているわ」
「お耳汚しを」
閣下は陛下に一礼してから、父に向き直った。園遊会のときと同じ、大きくはないのに広間の奥まで届く声だった。
「伯爵。私が三年前に申し込んだのは、家ではありません。ウィニフレッド嬢です。今も変わりません。長女の方とのお話は、三年前と同じく、お受けできません」
父の口が、開いたまま止まった。
その横で、姉の顔から笑みが消えた。
「どうして」
姉の声は震えていた。
「どうして、ウィニーなの。家のことしかできない、地味な子なのに。わたくしのほうが、ずっと」
「クリスタベル」
母が姉の腕をつかんだ。姉はその手を振り払った。
「ウィニーがわたくしより先に、わたくしより上の家に嫁ぐなんて、許せるわけがないでしょう!」
大広間が静まり返った。楽団の弓まで止まっていた。
姉は、自分の声が天井まで響いたのを聞いて、そこで初めて自分が何を言ったのかに気づいたようだった。扇で口元を覆ったが、もう遅かった。
人垣の前のほうで、白髪の小柄な婦人がぽつりと言った。キャラウェイ侯爵の母君だった。
「まあ。順番のお話では、なかったのね」
母が姉を抱えるようにして、人垣の外へ連れていった。
陛下は二人の背中を見送ってから、父に目を戻した。
「伯爵。今の『当家の決まり』とは、何のこと?」
父は額の汗を拭った。それでも、背筋だけは伸ばした。
「姉より先に妹を嫁がせぬのは、当家の古くからの決まりでございます、陛下」
父が、自分の口で言った。王都じゅうの家が見ている前で。
隣を見ると、叔母はもう手提げから折りたたんだ紙を出して、叔父に渡していた。段取りは、先週のうちに決めてある。
叔父が一歩進み出て、陛下に礼をした。
「陛下。ハーグリーヴズ家の当主として申し上げます。これは大聖堂の婚姻台帳から写させました、二十四年前の当家の婚礼の記載です」
陛下は写しを受け取って、目を通した。
「新婦、マティルダ・フェアファクス、十九歳。新婦の家の当主、ゴドフリー・フェアファクス」
「妻の姉のドルシラ様が北の子爵家へ嫁がれたのは、この二年後です」
陛下は写しをたたみ、ゆっくりと顔を上げた。
「伯爵。家の決まりは、二十四年前に、あなたが自分で破っていますね」
誰かが小さく息を呑んだ。それが広がって、さざ波のような囁きになった。決まった相手がいると言われた、と私の後ろで誰かが言った。札に名前を書いた方たちの誰かだろう。
「署名は……」
父の声がかすれた。
「署名は、当主の権利でございます。陛下でも」
「ええ、そのとおりよ」
陛下は、あっさりと頷いた。
「王家は家の縁談に口を出さない。署名はあなたのものよ、伯爵。好きになさい」
父の肩が、わずかに下がった。
「ただ、当主の返事は家の言葉です。本人の意思を偽って返事を書く家の方を、わたくしは来年の季節から、宮廷にお招きしません」
父の顔から、色がすっかり抜けた。
陛下はそれきり父を見なかった。代わりに、その目が私の上で止まった。
「あなたが、姉君の縁談を三度組んだという妹君ね」
「はい、陛下」
私は膝を折った。
「三度とも、まとまりませんでした」
陛下は扇の陰で、声を立てて笑った。
「ケンドリックが順番待ちをする理由が、少し分かった気がするわ」
◇
それから私は、札の順に十二曲を踊った。
一曲ごとに相手が替わり、一曲ごとに、見合いの日の話を一つずつ聞いた。モーティマー卿は大きな体で驚くほど軽く踊り、回るたびに北の見張りの歌を小声で口ずさんだ。
十二曲目のキャラウェイ侯爵は、踊り終えると、私を壁際の椅子の母君のところへ連れていった。楽団が次の曲まで少し長く間を取るあいだに、私は一輪の薔薇の話の続きを、最後まで聞かせていただいた。最初の年の一輪は、先代の侯爵が毎朝数えに来て、七日目に散ったのだそうだ。
母君にお礼を言って振り返ると、私の前に閣下が立っていた。
「順番が来た」
「お待たせしました、閣下」
閣下の手を取って広間の真ん中へ出ると、最初の三歩で足がそろった。十八日の夜会で一度踊っただけなのに、閣下は私の歩幅を覚えていた。
「手紙を読んだ」
閣下はそう言ってから、私の顔を見下ろした。
「三年分の礼は、今もらえるのか」
私は少し考えた。
「まだです。順番が、まだですので」
閣下の口の端が動いた。
「では、あなたの条件は。考えてくれたか」
「一つだけ、書きました」
私は、条件帳の最後の頁の一行を、そのまま言った。
「内緒にしてと頼んだことを、三年守ってくださる方」
閣下の手に、一瞬だけ力がこもった。
「……それなら、満たしている」
閣下のことを思って書いた一行なのだから、満たしているに決まっている。そう言いかけて、私は黙って次の一歩を踏んだ。
曲が終わりに近づいていた。閣下は私をくるりと回してから、低い声で言った。
「明日の朝、伯爵に手紙を出す。申し入れは当主から当主へ。作法どおりにやる」
「父の名で返事を書くのは、私です」
「知っている。あなたの字は、もう見分けられる」
閣下は、真顔でそう言った。
* * *
翌朝九時ちょうどに、公爵家の封蝋の手紙が届いた。
次女ウィニフレッド嬢との縁談を、改めてお申し入れいたしたい。顔合わせは、お宅の応接間ですでに二度済んでおりますので、お許しいただけるなら省かせていただきたい。中身は三行だった。父は書斎で、長いことそれを見ていた。
父が何を数えているのかは、毎晩この部屋で帳簿をつけてきた私には分かる気がした。宮廷に招かれなくなる家にとって、王の従弟の家との縁は、残った最後の一本の糸だ。
やがて父は手紙を机に置き、私のほうを見ずに言った。
「返事を書け。私の名でな」
「承知しました、お父様」
私はいつもの小机でペンを取った。自分への縁談の返事を書くのは、これで五度目になる。前の四度は、どれも同じ一文で終わっていた。今度の返事は、違う一文で終わった。
『お申し入れ、謹んでお受けいたします』
父は返事に目を通し、黙って署名した。その署名は、私がこれまで見てきた父のどの署名より小さかった。
◇
来年の季節の宮廷の招待状は、フェアファクス家には一通も届かないことになった。叔母がそう教えてくれた。王都の客間では、伯爵が姉君の見合いの相手にまで「次女には決まった相手がいる」と言って断っていたという話が、札に名前を書いた方たちの口から広まっていた。兄さんが当主の返事として何を書いても、もう誰もそのまま受け取らないわよ、と叔母は言った。
母は、噂が静まるまでと言って、姉を連れて南の領地へ下がることにした。あの夜から、姉への縁談は一通も来ていない。
寄宿舎の弟に手紙で知らせると、ジャイルズから短い返事が来た。
『姉上、おめでとう。家の帳簿は、僕が冬休みに覚えます。父上には、僕から言います』
十六の弟の字は、少し右に傾いていた。
◇
南へ発つ前の晩、姉が私の部屋へ来た。
姉は扉の内側に立ったまま、横を向いて言った。
「ウィニー。……わたくしの縁談、まとめてくれる?」
私は条件帳を出した。
「条件をどうぞ」
姉は、ずいぶん長く黙っていた。十四人を断った理由なら、すらすらと並べた人だった。
「一つでいいわ。ウィニーが、いいと思う方」
私はペンを止めて、姉の顔を見た。姉は横を向いたままだった。
「それと、羊の匂いのする方は嫌よ。南は羊ばかりなんだから」
「承知しました」
私は条件帳の新しい頁に、姉の名と、条件を二つ書いた。姉はそれを覗き込んで、「字が小さいわね」とだけ言い、部屋を出ていった。
* * *
十一月六日、両家の当主が婚約の誓約書に署名した。
誓約書は、閣下と私とで大聖堂へ届けた。付き添いは叔母である。受け取ったのは、あの写しを作ってくれた年配の文書係で、署名を一つずつ確かめてから、私たちに頭を下げた。
「確かに、お預かりいたしました」
大聖堂を出ると、石段の上で閣下が足を止めた。叔母は気を利かせたのか、数段下で御者と話し込んでいる。
私は閣下に向き直った。
「閣下。順番が来ましたので、三年分のお礼を申し上げます」
閣下が、少しだけ目を見開いた。
「札のことを、内緒にしてくださって、ありがとうございました。それから、三年も待ってくださって」
閣下はしばらく何も言わなかった。それから、静かに言った。
「条件帳を、見せてもらえるだろうか。最後の頁を」
私は腰の小物入れから条件帳を出して、一番後ろを開いた。一行だけ書いてある頁を、閣下は長いこと見ていた。
「一つ、足してほしい条件がある」
「閣下の、ですか」
「俺の条件だ。あなたに出す」
閣下が私の前で「俺」と言ったのは、初めてだった。
「これから先は、順番を気にしないこと。誰かの条件より前に、自分の分を先に書くこと」
私は条件帳を見下ろした。姉の十の条件。名鑑から書き写した七人の名前。見合いの段取り。閣下の「見合いに同席」。この帳面のどこにも、私の分は、まだ一行しか書いていない。
私はペンを取った。
「承知しました。足しておきます」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。「順番だ」と言われ続けた妹が、自分の分を先に書けるようになるまでのお話でした。
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