最後の一曲は、順番待ち
昼食の皿が下げられる前に、姉宛ての手紙が二通届いた。
封蝋の紋を見れば、どちらの家からかは分かる。どちらも、来週の茶会に姉を招いていた家だ。十月二十四日。園遊会から三日で、姉への茶会の招待は、これで三通とも取り消しになった。
姉は二通目を読み終える前に、便箋を二つに裂いた。
「どうせ皆、嫉妬しているのよ」
「そうよ、クリスタベル」
母が姉の手を撫でた。父は黙って肉を切っている。
取り消しへの返事をどう書くかは、もう考えてあった。家の手紙は、三年前から私が書いている。お礼も、お詫びも、断りの返事も。
姉が、裂いた便箋を皿の脇に寄せて、私を見た。
「でもいいの。お父様が、公爵様にお手紙を出してくださったから。長女との縁談を、改めてって」
姉は、私の顔を確かめるように首を傾けた。
「順番どおりなら、わたくしの番でしょう?」
私は、そんな手紙を書いていない。その一通だけを、父は自分で書いたのだ。
父のほうを見ると、父は葡萄酒の杯に目を落とした。
「承知しました」
私はそれだけ言った。姉は少しつまらなそうに、林檎のタルトにフォークを入れた。
公爵家からの返事は、その日の午後に届いた。父は居間で封を切り、珍しく機嫌のいい声で読み上げた。
『舞踏会でお話ししましょう』
「一行だけ?」
「公爵も、分かっておられるということだ。王妃陛下の前で、きちんと話をまとめる」
姉が手を叩き、母が「やっぱりね」と笑った。
私は閣下の手紙の短さを知っている。急ぎません、三年待ちました。あの方は、言うと決めたことしか書かない。
◇
書斎で叔母の婚姻の署名のことを尋ねたとき、父は「事情が違う」と言って机を叩いた。
家の中で何を言っても、父の決まりは外れない。この家では、当主の言うことが決まりになる。外れるとしたら家の外で、それも、父が自分の口で「家の決まり」と言ったときだけだ。
翌日、私はベッツィを連れて、ハーグリーヴズ侯爵邸を訪ねた。
「聞いたわよ、園遊会のこと」
叔母は客間に入るなり、私の両手を握った。
「王都じゅうの客間が、その話で持ちきりよ。兄さんったら、三年前にそんなことを」
叔母の後ろから、叔父のハーグリーヴズ侯爵が入ってきた。白髪まじりの、口数の少ない方で、叔母の帳簿を「私のより正確だ」と言う人である。
「叔父様。大聖堂の婚姻台帳は、当主の届けがあれば、その家の昔の記載を写していただけると伺いました」
「ハーグリーヴズ家の分なら、当主は私だ」
叔父は私の条件帳の頁を見て、頷いた。二十四年前の日付を、私はそこに書いておいた。
「マティルダの婚礼の記載だね。新婦の家の当主の署名も、写しに入る。明日、届けを出そう」
「写しは、叔母様がお持ちください」
叔母が眉を上げた。
「あなたが兄さんに突きつけるんじゃないの?」
「書斎では、もう伺いました。事情が違う、と」
私は条件帳を閉じた。
「ですから、使うのは、父が人前で、ご自分から『家の決まり』とおっしゃったときだけにしてください」
「言わなかったら?」
「そのときは、要らなかったということです」
叔母は少し黙ってから、ふっと笑った。
「言うわよ、兄さんは。人の多いところで言えば通ると思っている人だもの」
帰り際、私は叔母に手紙を一通預けた。公爵家へ。一行だけの手紙への、返事だ。何度も書き直して、残ったのは二行だった。
『札の順のことは、これからも内緒にしてください。三年分のお礼は、順番が来たら申し上げます』
二十八日の夕方、叔母から短い手紙が届いた。
『写しが出たわ。確かに預かりました』
* * *
十一月二日の夜、王宮の大広間は、燭台の数を数えるのをあきらめるほど明るかった。
王妃陛下の季節納めの舞踏会には、王都じゅうの家が来る。私は叔母の付き添いで入った。父と母と姉は、家の馬車で先に着いている。
入口で渡された象牙色の踊りの札には、今夜の十三曲の欄が並んでいた。去年のこの舞踏会では、帰るまで一つも名前が入らなかった札だ。私はいつものように、それを手首に下げた。
「フェアファクス嬢」
振り向くと、麦わらのような色の髪の方が、少し照れたように立っていた。
覚えている。三年前の春、姉の一人目の見合いの方だ。応接間の花を、この方の髪に合わせて秋の色にしたのも覚えている。
「一曲目を、いただけますか」
「……私で、よろしいのですか」
「あなたがいいんです」
札の一曲目に、名前が入った。
顔を上げると、その後ろにもう一人立っていた。地鳴りのような声で二曲目を申し込んだのは、見合いの日に、私が背もたれの高い椅子を用意した方だった。三曲目は、雨の日に玄関で傘を二本お渡しした方。今夜も、あのときと同じ形の靴を履いている。
四人目の方は、札の欄に名前を書こうとして、欄が足りずに裏まで使った。
五人目の方は、背の高い子爵家の嫡男だった。名前を書きながら、申し訳なさそうに言った。
「実は見合いの帰りに、伯爵にお願いしたんです。次女の方とお話を、と。決まったお相手がいると言われて、ずっと遠慮していました」
決まった相手。そんな人は、いない。少なくとも、私は聞いていない。
そのあとに並んだ三人も、同じことを言った。私の知らない縁談が、私の知らないうちに、父の口で断られていた。
ジャスミンの茶で咳が出る方も、ハリントン子爵家の次男も、名前を書いた。ハリントン家の次男は、ペンを返しながら、少し迷うように言った。
「先日のお断りのお手紙は、あなたがお書きになったのではありませんか。伯爵のお名前でしたが、女の方の字でしたので。きれいな字でした」
私は、返事ができなかった。
十一曲目は、モーティマー卿だった。
「私の番だ。古い順に並べたら、私が一番の新入りでね」
十二曲目のキャラウェイ侯爵は、名前を書いてから、小さく頭を下げた。
「母が、あの一輪の話の続きを、ぜひあなたに聞いていただきたいと」
十三の欄のうち、十二が埋まった。
残ったのは、最後の一曲だけだった。
叔母が私の手首の札を覗き込んで、片方の眉を上げた。
「最後の欄は?」
モーティマー卿が、大きな声で笑った。
「そこは、順番待ちの奴の欄だ」
気がつくと、周りの人たちがこちらを見ていた。扇の陰で、囁き声が広がっていく。
「あれは、クリスタベル嬢に断られた方々では」
「皆、妹君の札に」
「では、順番待ちをなさっている公爵閣下というのは」
人垣の向こうに、姉が見えた。母が姉の手首の札を持ち上げて、表を見て、裏を返して、また表を見ていた。名前を探しているのだと分かった。姉の札には、まだ一つも名前がなかった。
姉の隣で、父の顔が赤くなっていくのが見えた。
父は母に何か短く言うと、人垣を分けて歩き出した。広間の奥、王妃陛下の席のほうへ。
その席のそばに、陛下へのご挨拶を済ませた閣下が立っていた。




