第三章 最初の分岐点
「バスケ部に入ろうと思うんだ」
高校に入学して間もない四月の放課後、美咲はそう言った。
「バスケ?」
「うん」
「なんでまた?」
「テレビで海外の選手を見たんだよね。すごくかっこよくてさ」
美咲は、目を輝かせながら話した。
「ボール持って走って、相手を抜いて、最後にシュートを決めるの。あんなふうに、自分の力で試合の流れを変えられるのって、すごいなって思って」
「へえ」
「それで、私もやってみたくなった」
「美咲、運動好きだったっけ?」
「好きだよ。走るのも嫌いじゃないし」
「体育で持久走のとき、いつも文句言ってなかった?」
「それとこれとは別!」
美咲が笑った。
「ねえ、あんたも一緒にやらない?」
「え?」
「バスケ。男子も募集してるし。どう?」
俺は困った。
スポーツが嫌いというわけではなかったが、得意でもなかった。
走ればすぐ息が切れるし、球技ではボールが妙な方向へ飛んでいく。
健太なら、喜んで入部したかもしれない。
でも俺は、放課後まで体を動かす生活を想像するだけで、気が重くなった。
「僕はいいよ」
そう答えると、美咲は一瞬だけ俺を見た。
「そっか」
「うん。俺、運動苦手だし」
「まあ、そうだね」
「おい」
「だって、小学校のドッジボールで、あんた最後まで逃げてたじゃん」
「逃げるのも立派な戦術だろ」
「最後、ボールが怖くて泣きそうになってたくせに」
「泣いてねえよ!」
美咲は声を上げて笑った。
「じゃあ、私はバスケ部に入るね」
「おう。頑張れよ」
「うん。試合、見に来てね」
「気が向いたらな」
「もう。そこは絶対行くって言うところでしょ」
「じゃあ、絶対行く」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって何!」
美咲は笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
そのとき、俺は何も感じなかったわけではない。
美咲が俺と違う道を歩き始める。
そんな予感が、胸の奥に小さく生まれていた。
でも、それを口にすることはなかった。
美咲が部活に入ったからといって、俺たちの関係が変わるわけじゃない。
今までだって、何度も違うことをしてきた。
美咲が女子だけで出かける日もあれば、俺たち男子がゲームに夢中になる日もあった。
その程度の違いだと思っていた。
ところが、違いは少しずつ、確実に広がっていった。
「悪い、今日、先に帰ってて」
ある日の放課後、美咲が教室の入り口から顔を出した。
「部活?」
「うん。ミーティングがあるんだって」
「そっか」
「明日は一緒に帰れると思うから」
「別に、気にしなくていいよ」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、また明日!」
美咲は手を振って走っていった。
俺は、空になった教室で鞄を持ち上げた。
翌日も、美咲は部活だった。
その次の日も、練習試合だった。
ようやく帰りが一緒になったと思ったら、今度はバスケ部の友達が待っていた。
「美咲、帰ろう!」
「うん、今行く!」
美咲は振り返った。
「ごめん、今日も一緒に帰れないや」
「いいよ」
「じゃあ、またね!」
「おう」
美咲は走っていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ寂しくなった。
しかし、すぐに考え直した。
部活に入ったのだから、当然だ。
新しい友達ができるのも、当然だ。
俺たちだって、いつまでも子供じゃない。
そう思えば、納得できた。
納得できてしまった。
それが、かえって問題だったのかもしれない。
「なあ、お前、最近、美咲と話してるか?」
六月のある日、健太が昼休みに聞いてきた。
「普通に話してるよ」
「普通って、どのくらいだよ」
「会えば話す」
「会えばって、お前ら隣の家だろ」
「隣の家でも、学校じゃクラス違うし」
「朝は?」
「時間が合わない」
「帰りは?」
「部活」
「休日は?」
「練習とか試合とか」
健太は腕を組んだ。
「お前、それ、普通に話してるって言わねえんじゃねえの?」
「うるさいな」
「いや、だってさ」
「美咲が頑張ってるんだから、いいだろ」
俺は少し強い口調で言った。
健太は、意外そうな顔をした。
「……まあ、そうだな」
それから、声を落とした。
「でも、お前はそれでいいのか?」
「何が?」
「いや」
健太は、そこで言葉を切った。
「何でもねえ」
俺は、それ以上聞かなかった。
本当は、聞くべきだったのかもしれない。
けれど、何を聞けばいいのか、わからなかった。
俺は美咲を好きだった。
その気持ちは変わっていなかった。
会う時間が減れば、寂しかった。
他の誰かと笑っていると、気になった。
それなのに、俺は何もしなかった。
自分から誘うことも、気持ちを伝えることも、これまでの距離を変えようとすることも。
ただ、以前の関係が自然に戻ってくるのを待っていた。
今までずっと一緒だったのだから。
これからも、きっと一緒にいられる。
そう信じていたかった。




