第二章 好きになったのは、いつからだろう
「ねえ、悠斗。美咲って、最近ちょっと変わったと思わない?」
中学二年の秋、放課後の教室で、俺は何気なく尋ねた。
「何が?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくって何だよ」
悠斗はノートを鞄にしまいながら、俺を見た。
「お前、最近、美咲のことよく見てるよな」
「は?」
「いや、廊下ですれ違ったときとか。体育のときとか」
「見てねえよ」
「そうか?」
「そうだよ」
「ふうん」
悠斗は、それ以上追及しなかった。
ただ、口元だけで笑った。
あの頃、美咲は少しずつ変わり始めていた。
髪を伸ばし、制服の着こなしを気にするようになり、以前よりも身振りや仕草が柔らかくなった。
昔は男子と一緒になって走り回り、転んでも笑っていたのに、いつの間にか、女子同士で鏡をのぞき込み、髪型の話をするようになっていた。
もちろん、昔の美咲が消えてしまったわけではない。
「健太! それ私のジュース!」
「一口だけだって!」
「その一口が半分じゃん!」
「細かいこと言うなよ!」
「細かくない!」
そんなやり取りは、相変わらずだった。
それなのに、俺は時々、知らない女の子を見ているような気持ちになった。
ある日の帰り道、美咲が俺の横を歩いていた。
「ねえ、今日、数学の宿題やった?」
「やったけど」
「見せて」
「自分でやれよ」
「途中までやったんだけど、最後の問題がわかんなくて」
「じゃあ、途中までのを見せろよ」
「えー、全部見せてよ」
「お前なあ」
美咲は笑って、俺の鞄を引っ張った。
「昔はもっと優しかったのに」
「昔っていつだよ」
「幼稚園のとき」
「そんな昔のこと覚えてねえよ」
「私は覚えてるよ。転んだとき、手を引っ張ってくれたもん」
「それ、俺が押して転ばせたんじゃなかったっけ?」
「え?」
「いや、冗談」
「ちょっと! 最低!」
美咲が俺の腕を叩いた。
俺は笑った。
いつも通りの、何でもない帰り道だった。
なのに、その日、家に帰ってからも、俺は美咲の声を思い出していた。
笑った顔。
怒った顔。
俺の腕を叩いた手。
何がどうなったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、翌朝、玄関先で美咲に会うと、少しだけ緊張した。
「おはよう」
「お、おう。おはよう」
「何、その顔」
「どんな顔だよ」
「寝不足?」
「違うわ」
「ふうん。あ、今日、健太の家に寄ってから行く」
「なんで?」
「昨日、宿題忘れたって言ってたから。写させてって」
「お前、また写させるのかよ」
「だって、あいつ自分でやらないんだもん」
「お前も人のこと言えないだろ」
「私は最後までやったもん!」
美咲は得意げに笑った。
俺は、その横顔を見ていた。
ああ、好きなんだな。
そのとき初めて、そう思った。
いや、正確には、ずっと前から少しずつ積み重なっていた気持ちに、ようやく名前をつけたのだろう。
それから俺は、美咲を異性として意識するようになった。
以前なら何とも思わなかった仕草が、妙に気になった。
誰かと楽しそうに話していると、何の話をしているのか知りたくなった。
俺以外の男子に笑いかけていると、理由もなく落ち着かなくなった。
そんな自分が恥ずかしくて、俺は以前よりも少しだけ、美咲に素っ気なく接するようになった。
「ねえ、最近、何か冷たくない?」
ある日の帰り道、美咲が言った。
「そうか?」
「そうだよ。前はもっと話してくれたじゃん」
「別に、普通だろ」
「ふうん」
美咲は少しだけ口を尖らせた。
「じゃあ、いいけど」
その声に、俺は胸が痛くなった。
本当は、もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
好きだと言いたかった。
でも、その言葉を口にすることはできなかった。
もし断られたら。
もし気まずくなったら。
もし、今までのように一緒に笑えなくなったら。
俺は、その可能性を考えるだけで怖かった。
九人でいる時間が、俺にとってどれほど大切だったか。
その中心に、美咲がいたこと。
だからこそ、失いたくなかった。
好きだと言わなければ、少なくとも今は失わずに済む。
そんな理屈を、俺は自分に言い聞かせた。
そして中学を卒業する頃には、自分が美咲を好きだということを、はっきりと自覚していた。
それでも俺は、何も言わなかった。




