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鋼と泥の境界線  作者: 古屋桜


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第九章:深夜の鉄錆

税収官ハインリヒによる監査を切り抜けたシン。しかし、あまりにも完璧すぎる偽装は、もう一人の共犯者であり、この街で最も暴力に近い男――地元の「衛兵隊長ロベルト」の疑心を呼び起こすことになった。

「……計算が合いすぎるんだよ、シン」

ギルドの裏手、馬車のわだちが凍りつく薄暗い路地。シンの前に立ちはだかったのは、衛兵隊長、ロベルトだった。鎖帷子の上に領主の外套を羽織ったその体躯は威圧感に満ちており、柄に置かれた手はいつでも剣を引き抜ける状態にある。

「あの監査の期間中、俺たちの「キノコ」の動きが完全に止まっていたにもかかわらず、容積の帳尻が完全に合っていた。お前、何か小細工をしたな?」

「何のことでしょうか、隊長」

「白々しい。お前のような正体不明の余所者が、俺たちの「生命線」を握っていること自体が気に入らんのだ。副ギルド長やルカはだませても、俺の目はごまかせん」

ロベルトはそれだけ言い残すと、冷笑を浮かべて去っていった。

その日の夜、安宿に戻ったシンは、部屋に入るなりゴドリックに告げた。「ゴドリックさん、荷物をまとめてください。今夜、ここを出ます」

「どうした、シン。隊長に何か言われたのか?」ベッドの上で錆びた直剣の手入れをしていたゴドリックが、鋭い目で顔を上げた。

「ロベルト隊長は、俺が密輸の数字を偽装したことを見抜いています。そして彼は、秘密を握る人間を自分のコントロール下に置けないと判断した。……彼が次に取る手段は交渉ではありません。排除です」

「行くぞ、シン。だが、もう遅いかもしれん」ゴドリックが静かに立ち上がり、ドアの隙間から外の廊下を睨みつけた。カビ臭い宿の廊下から、深夜には聞こえるはずのない、湿った革靴の足音が二人分、ゆっくりと近づいてきていた。

「裏の窓から逃げるのは無理だ。下に一人、張り付いている気配がする」ゴドリックが低くささやいた。シンたちの部屋は、三階の突き当たり。逃げ場のない密室だった。

「ゴドリックさん、扉が開いた瞬間に、正面から迎え撃つのは避けてください。相手は狭い屋内での殺し合いのプロです。……これを使います」

シンは机の上にあった、あの薬師アルセンから手に入れた「粗悪な消毒用の油」の残りと、毎晩使っている獣脂のランプを手に取った。さらに、ゴドリックが使っている「厚手の革鎧」を寝具の藁の上に被せ、まるで人間が寝ているかのように偽装した。

シンは部屋の唯一の光源である松明を消し、完全な闇を作り出した。数秒の後、ドアの鍵穴に針金が差し込まれ、静かに扉が開いた。

入ってきたのは、全身を黒い革鎧で包み、顔を布で覆った二人組の男だった。その手には、音を立てずに肉を貫くための、細身のダガーが握られている。侵入者の一人が、一瞬でベッドの「影」に向かって飛びかかり、ダガーを何度も突き立てた。

「――騙された、罠だ!」

男が叫んだ瞬間、シンは暗闇の中で、床にぶち撒けておいた消毒用油に向かって、火をつけた獣脂ランプを投げつけた。ボッ、と青白い炎が床一面に広がった。狭い部屋の中に、一瞬にして刺すような熱気と、不完全燃焼による黒煙が立ち込める。

「うおっ!?」不意の火急に、侵入者の足元が乱れた。

「そこだァッ!」

闇と煙に紛れ、ドアの陰に潜んでいたゴドリックが突進した。手負いの太ももの痛みを脳の奥にねじ伏せたゴドリックには、元一流探索者としての恐るべき闘争本能が覚醒していた。自慢の剛力を乗せた重い鉄剣が、炎に気を取られていた一人目の男の胸元を、革鎧ごと深く切り裂いた。

「がはっ……!」男は崩れ落ち、床の炎の中に倒れ込んだ。

しかし、もう一人の暗殺者は流石にプロだった。相棒が斬られた一瞬の隙を見逃さず、煙の中から蛇のようにダガーを突き出してきた。その刃は、ゴドリックの防御をすり抜け、彼の左肩の肉を浅く切り裂いた。

「チッ……!」ゴドリックが痛みに顔をしかめ、間合いを取ろうと後退する。狭い室内では、長さのある鉄剣は小回りが利かず、ダガーを持つ暗殺者に対して圧倒的に不利だった。暗殺者は追撃を仕掛けようと、ゴドリックの喉元へダガーを突き出す。

(この男が死ねば、俺も死ぬ!)

シンは思考を放棄し、本能だけで動いた。彼の手には、机の上からとっさに掴み取った、安宿に不釣り合いなほど重厚で平たい「青銅製の灰皿」が握られていた。

「おおおおおっ!」

シンは横から飛び出し、渾身の力でその青銅の塊を暗殺者の側頭部に向けて振り抜いた。ゴンッ! と、鈍く重い金属音が響き渡り、暗殺者の視線がわずかに逸れる。

「よくやった、シン!」

その一瞬の隙に、ゴドリックは剣の柄頭(大質量の金属部分)で、暗殺者の顔面を強打した。鼻骨が砕ける嫌な音が響き、暗殺者はたまらず床にへたり込む。ゴドリックは容赦なく、その胸元に剣を突き立てて自らの全体重を浴びせ、完全に沈黙させた。

「ゴドリックさん、傷は!?」「かすり傷だ! それより、ここをずらかるぞ!」しかし、裏窓の下には三人目の暗殺者が張り付いている。

シンは、床で燃え盛るシーツと、ゴドリックが仕留めた一人目の暗殺者の死体を見つめた。「ゴドリックさん、力を貸してください。この死体を窓から落とします。あの「下で待っている奴」の真上に向けて!」「なるほど、肉の盾か! よし、乗った!」

二人は息を合わせ、炎が燃え移りかけた暗殺者の重い死体を持ち上げ、窓から投げ捨てた。ずしり、という鈍い衝突音。そして「ぎゃあぁっ!」という短い悲鳴が雨音に混じって響いた。三階から降ってきた七十キロ近い肉塊をまともに食らい、下の待ち伏せ役は地面の泥に叩きつけられ、その下敷きになって悶絶していた。

「走るぞ、シン!」

間髪入れず、ゴドリックが窓から雨樋を滑り降りるようにして着地し、下敷きになっていた男の頭部を、鉄剣のひらで強打して完全に気絶させた。シンも必死に雨樋にしがみつき、手の皮を擦りむきながら泥まみれの路地へと滑り降りた。

激しい雨が、町を包み込んでいた。二人は、宿場町の外れにある泥小屋に身を潜めていた。

「おい、シン。これからどうする?」ゴドリックが肩の傷を雨水で洗いながら、静かに尋ねた。

「町には戻れません。ですが、ロベルト隊長も、この暗殺が失敗したことを知れば焦るはずです。彼にとっても、俺たちが生き延びて「密輸の二重帳簿の控え」を領主や他の税収官に送りつけることが最大の恐怖ですから。攻守を逆転させます。これからは、俺たちが奴らを脅かす番だ」

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