第十篇:泥濘の逆流
町を追われ、追う立場へと回ったシンとゴドリック。彼らが選んだのは、剣による正面突破ではなく、中世の「買収工作」と「情報戦」を組み合わせた、最も泥臭い復讐劇だった。
「ルカを引っ張り出すだと?」
泥小屋の隅で、ゴドリックが眉をひそめた。「あいつは副ギルド長やロベルト隊長の腰巾着だぞ。俺たちの居場所をチクられるのがオチだ」
「いいえ。ルカはただの「欲深く、臆病な商人」です」
シンは濡れた地面に、炭でリバーサイドの相関図を描きながら言った。
「ルカが最も恐れているのは、自分のキャリアが終わること、そして命を失うことです。今、衛兵隊長ロベルトが暴走して俺たちを暗殺しようとした。これはルカにとっても恐怖を植え付けるのに十分な事件です。ロベルトが秘密保持のために、共犯者であるルカをも消そうとするのは時間の問題ですから」
シンは、ゴドリックの「煤払いネットワーク」に属する、街のドブさらいや残飯回収で生計を立てている貧民の少年たちに小銅貨を握らせて「ルカへの手紙」を託していた。
「今夜、東の廃窯に来られたし。来なければ、監査の際に私が隠蔽した、あなたの署名入りの「ブラッド・キャップ」取引台帳を、直ちに税収官ハインリヒ様の宿舎へ届ける」
もちろん、そんな台帳を今届ければシンたちも自滅するが、極限状態にあるルカに、そのハッタリを見抜く余裕はなかった。
深夜、東の外れにある打ち捨てられたレンガ造りの廃窯。外套のフードを深く被ったルカが、小刻みに震えながら姿を現した。
「……シン、お前、本気で私を絞首台に送る気か!?」
ゴドリックが背後に回り込み、逃げ道を塞ぐ。
「落ち着いてください、ルカさん。あなたを殺しても、俺たちの取り分はありません」
シンは一歩前へ出た。
「ロベルト隊長は、あなたをトカゲの尻尾として切り捨てるつもりです。俺たちが消えた後、密輸の全責任をあなたに着せて、自分だけ領主への忠誠を示す……それが、あの男の考える計画です。生き延びたいでしょう? ならば、俺たちと手を組んで、ロベルト隊長を排除する側に回ってください」
シンの計画は、現代で言う「捏造工作」だった。
「ルカさん、あなたがやるべきことは二つ。一つは、商業ギルドの金庫から、オーデンギルドが取引で使う「オーデン刻印入りの大銀貨」を二十枚、調達すること。もう一つは、ロベルト隊長が普段使っている「受領印」の偽物を、ギルドのお抱え印章彫り師に作らせることです」
「そ、そんなリスクのあること……!」
「やらなければ、明日の朝にはハインリヒ税収官にあなたの裏帳簿が届きます」
ゴドリックが、ルカの肩に重い手を置いた。骨がきしむ音が聞こえそうなほどのプレッシャーに、ルカはついに屈した。
翌日、ルカは恐怖に突き動かされ、完璧に仕事をこなした。シンの手元に、オーデンの大銀貨二十枚と、ロベルトの偽受領印が集まった。
シンはこれらを使い、「ロベルトがオーデンギルドから裏金を受け取っていた」という偽の誓約書と台帳を作成した。文字の筆跡は、以前テオが残していった書類からオーデン商人の書き方を模倣し、インクの劣化具合まで、暖炉の熱で燻ることで「数ヶ月前に交わされた書状」のように偽装した。
「よし、これをロベルトの部屋に仕込むわけだが……あいつの宿舎は衛兵所の奥だぞ。どうやって忍び込む?」
ゴドリックが尋ねた。
「俺たちの出番ではありません。ここで、最も安全で、最も効果的な「配達人」を使います」
シンが目を向けたのは、泥小屋の前に集まっていた、煤払いネットワークの貧民の少年たちだった。
「衛兵所の裏手には、各部屋の暖炉に繋がる巨大な集合煙突の「煤出し口」があります。ロベルト隊長の部屋の暖炉も、その煙突に繋がっている。ゴドリックさん、子供たちに小銅貨を渡し、煙突の根元で湿った薪や獣脂を燃やさせ、煙出し口を塞ぐよう指示してください。意図的に「煙の逆流」を起こすんです」
「なるほど、部屋を煙攻めにするわけか!」ゴドリックが膝を叩いた。
シンの計画は、人間の心理と中世の建物の欠陥を突いたものだった。
突如として暖炉から室内に黒煙が逆流し、ロベルトの部屋はまともに呼吸もできない惨状になる。慌ててロベルトや部下たちが窓を開け放ち、換気のために部屋を飛び出したその一瞬の隙を狙う。
煙突の構造を熟知し、日頃から細い煙突の煤払いをさせられている身軽な少年が、煤に汚れた顔のまま、開け放たれた窓から煙のどさくさに紛れて侵入。シンの指示通り、机の引き出しの奥へ「偽の誓約書」と「オーデンの大銀貨」を素早く滑り込ませ、そのまま煙に紛れて脱出したのだ。
証拠のセットが完了したのを確認した後、シンはさらに別の少年を使い、「身元不明の密告者」を装って、ハインリヒ税収官の部下たちに、一通の手紙と「オーデンの大銀貨一枚」、そしてロベルトの宿舎の隠し場所を示した図面を届けさせた。
ハインリヒのような冷徹な官僚にとって、「身内の裏切りによる税収の遺漏」は、最も許しがたい不祥事だった。
二日後の昼下がり。シンとゴドリックは、宿場町の広場が見渡せる大衆食堂の二階席にいた。突然、広場が騒がしくなり、ハインリヒ税収官が率いる重装兵たちと、領主直属の憲兵隊が、衛兵所へと一斉に踏み込んでいった。
数十分後、衛兵所から引きずり出されてきたのは、両手に重い鉄の手枷をはめられたロベルト隊長だった。「濡れ衣だ! 俺は何も知らん!」 ロベルトは激高したが、無情にも憲兵の槍の柄で殴り倒され、泥の中にひざまずかされた。彼の宿舎からは、シンの計画通り、オーデンの銀貨と「完璧な偽誓約書」が発見されたのだ。
「……完璧だな、シン」
ゴドリックが、心底感心したようにため息をついた。
「俺たちだけでは、彼らのような武力を持った権力者には勝てません。だからこそ、より大きな権力に、彼らを『捕食』してもらう必要があったんです」
ロベルトの失脚により、空席となった衛兵隊長のポストには、副ギルド長と繋がりの深い、より扱いやすい男が就任することになる。そして、この計画の成功により、見習い商人のルカは、シンに対して「恐怖」と「絶対的な忠誠」を抱くようになった。
シンは、お尋ね者の身分から、一瞬にして「ギルドの裏の支配者」へと君臨したのだ。




